第6話

「椿! ごめん!」


 玄関の扉を開けるやいなや、まだお風呂から上がりたてな、ほかほか状態の日和が駆け寄ってきた。日和の髪の毛からはポタポタと雫が垂れている。


 おそらくだけど、日和のお母さんに何か言われたのかな。いや本当に申し訳ない。


「大丈夫だよ、私が一人で行くって言ったんだから。それに世莉さん来てくれたし」


 私は靴を脱ぐと、日和の肩にかかっているタオルで日和の髪の毛を丁寧に拭く。わしゃわしゃ拭くのは楽だけど、髪の毛のダメージに繋がるらしいと最近知った。


「お姉ちゃんもごめんね?」

「ううん、大丈夫。別にコンビニなんて歩いて十分くらいだし」


 私はコンビニという言葉を聞いて、腕に提げていたビニール袋のことを思い出す。


「あ、そうだ。コンビニでアイス買ってきたよ」

「えー、ありがとう! すぐ食べる!」

「いや、溶けてるかもだから、しばらく冷凍庫に入れてた方がいいかも」

「そっかあ。じゃあ入れてくる!」

「うん、お願い」


 私は袋から最後に残っていたバニラアイスを取り出して、日和に渡す。


 日和の髪の毛からはまだ水が垂れている。


 後でちゃんと拭いてあげないと。


「なんか椿ちゃんと日和って友達ってよりかは親子みたいだね。椿ちゃんが親で日和が子供」

「伊達に幼なじみ何年もやってませんから」


 日和は明るくて人懐っこい。その上、純粋で鈍感でおっちょこちょい。まあそういうところが可愛んだけどね。


 私は「よいしょ」と声を出してその場にしゃがみ込み、服の袖を引っ張って、日和の髪の毛を伝って床に落ちていた水を拭う。


「服汚れちゃうよ?」

「そんなに汚れないですよ。あ、私もうお風呂借りても大丈夫ですか?」

「うん。たぶんもうみんな入り終わってるから」


 泊まらせてもらうのに、日和の家族よりも先に入るのは気が引ける。


 いつも日和のお母さんは「そんなの気にしなくていいよ」と言ってくれるけど、やっぱり最後に入る方が気持ち的に楽だ。一番罪悪感が少ないって言えばいいのかな。


「私も汗かいちゃったからもう一回入ろうかなあ。椿ちゃん一緒に入る?」

「バカなこと言わないでください。世莉さんが入るなら待ってますけど」

「ははっ、冗談冗談。じゃあ私、もう部屋戻るから」


 そう言うと、世莉さんは足取り軽そうに階段を上って行った。


 私をからかうのがそんなに楽しいのかと問い詰めたいけど、問い詰めなくても楽しいと答えが返ってくるだろうから聞くだけ無駄だ。


「アイス入れてきた!」


 アイスが食べられるからなのか、夜なのに日和のテンションが高い。ああ、買ってきて良かったなと思わされるような笑顔である。


「うん。私、お風呂入るからパジャマ借りてもいい?」


 私は立ち上がって、日和の髪の毛をもう一度丁寧に拭く。


「うん! もうお風呂場に置いてあるからそれ使って!」

「はーい、じゃあ行ってくるね」


 ☆


 気持ち良かった。


 スイッチを入れると、ドライヤーがゴオッと音をたてる。


 人の家のお風呂って安心できないものだけど、日和の家のお風呂は入り慣れてるから、ゆっくりできる。


 さすがに家族全員入った後だとお湯はもうぬるくなってたけど、高温差し湯なる文明の利器によって湯船は温かさを取り戻していったので問題はない。


 昔は日和の家に泊ることも多く、この家にあるものは見慣れたものばかりだ。このドライヤーも市販のシャンプーも私の目の前にある歯磨き粉の種類も。ほとんど変わらない。


 だけど、たまに大きく変わってることもあって、例えば黒かったはずの冷蔵庫が白くなってたり、白かったはずの炊飯器が黒く変わっていたり。


 そういう変化に勝手ながら、寂しさを覚えていた。


 みんな少しずつ変わっていくのに、私だけはずっと変われなくて、今でも日和のことを諦めきれないまま。


 私はふと、世莉さんに可哀想だと言われたことを思い出した。


 日和のことを好きだとツラいこと。そんなのいっぱいある。


 日和から好きな人の話を直接聞くのはもちろんツラいし、男子と楽しそうに話していたらモヤモヤする。私の気持ちなんて全く気が付かない日和を見て悲しくなることも多い。


 なんで日和のこと好きになっちゃったんだろうと思うことなんてしょっちゅうだけど、それでも好きになったことに後悔はしてるかと聞かれると、うん、とは頷けない。


 それはきっと日和を好きなことで生まれる悲しさと楽しさが天秤の上でずっと揺れ合っているから。ツラいときももちろんあるけど、すごく幸せなときもある。


 これはきっと恋をしていないと、生まれ得ない感情だと思う。


 そんな考えに着地した私はドライヤーのスイッチを切って、コンセントを抜く。


 自分のふわふわとした髪の毛を触りながら、シャー芯ほどの細い眠気を覚えながら、短い階段を上っていく。


 階段を登ってすぐに見えるのが世莉さんの部屋。左奥に見えるのが日和の部屋である。


「お風呂あがったよー」

「あ、椿! お風呂大丈夫だった?」

「大丈夫とは?」

「ほら、お父さんとかも入った後だからさ」

「ああ、そんなの全然大丈夫だよ」

「まじ!? ほんとすごいよね、椿。私、お父さんが入った後とか絶対無理だよ」

「そういうもんなの?」

「そういうもんなの!」


 ふーんって感じだ。そういうのが普通なんだろうか。


「ところでなんだけどね、その、私から夜更かししようねって言ったのに、実はもう眠くなってきちゃって……」


 日和が目を擦りながら、申し訳なさそうに言う。


 可愛い。


「うん、じゃあもう寝よっか」

「ありがとうございます!」


 日和が夜遅くまで起きていられないのはいつものことである。


 可愛い。


 いつも日和の家にお泊りをするときは、狭いシングルベッドに、二人一緒に入って寝ている。


 ドキドキするかと聞かれるとドキドキすると答えるけど、ドキドキというよりかは、穏やかな気持ちになる方が強い。WINNER、穏やかさん。LOSER、ドキドキさん。


 とまあ、そんなことを言っているが、日和のことが好きだと気が付いたばかりの頃は心臓がバクバクしすぎて、眠れなかった。


 しかし、私の心は長年の時を経て、悟りの境地に辿り着いたのだ。お釈迦様も褒めてくださるだろう。


「電気消すよ? 大丈夫?」

「うん、お願い」


 ピッという音と共に辺りが暗くなる。日和は真っ暗でないと寝れないらしく、常夜灯の明かりすらもダメならしい。


 そういうところすら可愛いと思ってしまうのは異常だろうか。


「椿、おやすみ~」

「おやすみ、日和」


 しばらくは暗くて近くにある日和の顔すらもよく見えない。だけど、ただ待っていさえすればすぐに目は暗闇に順応していく。


 私は日和の寝顔を眺めながら、幸せな睡魔に包まれていった。


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