第2話

 ──現在 


 私は「もうそろそろ……」という意思を伝えるために、世莉さんの後ろに手を回して、背中を三回叩いた。それを察したかのように、ようやく私の唇から世莉さんの唇が離れる。


 私と世莉さんを繋いでいる透明な糸を見て、目を細めた。


「もうやめましょうよ……」

「そんなこと言っていいの? 日和にバラしちゃうよ?」

「っ…… なんでこんなこと……」


 あのとき世莉さんに日和のことが好きだとバレてから毎日、私は世莉さんにキスを要求される羽目になっていた。


 この交換条件から解放される安寧の日は学校が休みである土曜日と日曜日しかない。文字通り、まさに休日だ。


「なんでって、楽しいからに決まってるじゃん」


 世莉さんはにこやかに微笑んだ。


 私にこんなことをする理由が楽しいからっていうね。他にこれ以上最低な理由が何かあるだろうか。世莉さんは私が日和のことを好きだと知っていて、別の人と、自分とキスをしていることを面白がっているのだ。


 ほんと、誰か心理学者の先生を呼んできて欲しい。どういう心理からこういう発想に至るのだろうか。


「それにキスって気持ち良いでしょ?」


 世莉さんが朗らかな声を発しながら、私の下唇に人差し指を当てた。


 そんなわけがないことがなぜ世莉さんには分からないんだろうか。好きでもない人とキスなんかして、気持ち良いなんて感想が出てくる方がおかしい。


 だけど、おかしいと分かってはいても、私は世莉さんに抵抗することはできない。もし私がこの交換条件を破ってしまえば、日和に私の気持ちをバラされてしまう。


 私はどうしようもない現状にただ悔しくなって、油断している世莉さんの指を強く噛んだ。


 これくらいは許されてもいいはずだ。


「痛っ! ったく…… 生意気な犬だなあ」

「こんなことしてるなんて知られたら、世莉さんだって困るくせに」


 相楽世莉は学校ピラミッドの頂点に位置している存在だ。顔良し、勉強良し、スポーツ良し。性格も良くて、誰にでも優しい。学校で一番のイケメンと付き合っていて、しかも全生徒を取りまとめる生徒会長。非の打ちどころが一切ないみんなの憧れ。


 これだけ「良」という漢字を体現している人間はそうそういない。そう思っていたし、誰もがそう思っている。


 そんな人が私みたいな一年と屋上でこんなことをしているとバレたら、世莉さんだって困るはずだ。


「椿ちゃんは言わないでしょ。優しいから」


 世莉さんの長い髪の毛が風に揺れる。


 自分の心の内は晒さないのに、人のことは見透かしているような目が嫌いだ。


「ははっ、椿ちゃん怖ーい。そんな顔しないで、笑って笑って?」

「やめてください」


 私の顔に触れてこようとする世莉さんの手をはらう。


 私が誰にも言わないのは、どうせ私なんかがそんなこと言って回ったって、誰も信じてくれないからだ。そりゃ誰だって私みたいな一般生徒よりも、世莉さんの言葉を信じるだろう。


 そもそもの話、私が交換条件という条件を突き付けられている立場にいる時点で、あまり大胆なことはできるはずもない。


「終わったんだったら、もう行くんで」


 世莉さんがただ面白いからという理由だけでこんなことするなんて。


 私のことが好きだからという理由で、交換条件を提示された方がまだよっぽどいい。まあそんなことありえるわけはないんだけど。


「えー、もうちょっと時間あるじゃん」

「別に世莉さんといたいわけではないですから」

「むー、やっぱり生意気だなあ」


 私は屋上のドアを開けて、ため息をつきながら階段を降りていく。


 モテる世莉さんにとってキスなんてどうってことないことなのかもしれない。ただの気持ちの良い行為でしかないのかもしれない。


 だけど、私は好きでもない人とキスなんてしたくない。そんな当たり前であるはずの考えが私と世莉さんでは大きく違っている。


「あ、椿いたー!」


 私の名前を呼ぶ声が聞こえた。曇っていた心が一瞬で華やぐような声。


「日和!」


 自然と上がりすぎてしまう口角を必死に抑えながら、走って近づいてくる日和に手を振った。


「椿、どこ行ってたの!? 探したんだよ!」

「ごめんごめん」


 私はわざわざ探させてしまったことに謝ることで、答えをはぐらかそうとする。

 

 まさか「世莉さんと屋上でキスしてたんだよねー、あはは」なんてバカ正直に話すことができるわけもなく、どこに行っていたと聞かれて返す答えは存在してはいけないのだ。


「あれ? お姉ちゃん、何してるの?」


 後ろにいた世莉さんに気が付いた日和は首を傾げている。


「椿ちゃんと楽しくお話してたの。ね、椿ちゃん?」

「……あー、はい」


 空気は読むもの。話は合わせるもの。


 とりあえず適当な返事をしておけば、問題ないだろう。


「ふーん、そっかあ」


 私と世莉さんはちょっとした知り合いくらいで、全く仲が良かったわけではない。そんな私たちが何を二人で楽しくお話することがあるのか、不思議に思われていることだろう。


 だけど、さすがに「二人でキスしてたでしょ?」という発想には絶対ならないので、意外と大丈夫だと踏んでいる。


「まあ椿とお姉ちゃんが仲良くなるのはいいんだけどさ。椿は私のなんだからね。お姉ちゃん、取らないでよ?」

「っ……」


 おおう。なかなか強烈なパンチが急にやって来たもんだ。


 表情には出なかったように思うけど、静かに私の心臓の鼓動は早まっていた。


 こんな、なんてことない言葉に反応してしまう自分が恥ずかしい。世莉さんの前だと余計に。私が理想としている意味であるはずがないのに。


 私はいろいろな恥ずかしさを打ち消すように、握った手の中で爪をたてる。痛い。


「あははっ、取らない取らない。でも椿ちゃんは可愛いからどうせそのうち誰かに取られちゃうよ。んじゃあ、私もう行くから。またね、椿ちゃーん」


 そう言うと、階段に吸い込まれるように世莉さんが消えていく。


 世莉さんは掴めそうで全然掴めない、雲みたいな人だな、と思ってすぐに考えを改める。世莉さんの心は雲みたいに真っ白ではきっとないだろう。


「椿、いつの間にお姉ちゃんと仲良くなったの?」

「あー、最近仲良く……なったかな」


 嘘、全然仲良くなんてない。ごめん。


「へえ。なんか意外だなあ。何かきっかけがあったの?」

「まあ、ちょっと意気投合するようなことがあってね」


 嘘、何一つ意気投合なんてしてない。ごめん。


 日和にはいつも嘘をついてばかりだ。申し訳なさと自分への保身が半々、私の中で一滴も交わることなく、ぐるぐると回転している。


「そっかあ。あ、そうだ、椿に相談があるんだった。今日私の家に来れる? 部活があるから、ちょっと遅くなっちゃうんだけど……」

「…………ん、分かった。いいよ」

「椿ー! ありがとう!」


 日和が私の両手をガシッと握って、ぶんぶんと上下左右に振り回す。


「やっぱ持つべきものは親友だよ!」

「……そうだね。とりあえず教室戻ろっか?」

「うん!」


 嬉しそうな日和を見ると普段なら私も一緒に嬉しくなるのだが、これに関しては別。別すぎるくらい別。ゲシュタルト崩壊しそうなくらい別別別。


 何キロもある石を乗せられたかのように心が重くなり、日和の無邪気な笑顔を見ても、軽くなることはない。日和がわざわざ自分の家に招いてわたしにする相談なんて一つしかないからだ。


 それは恋愛相談という名の地獄の相談。


 今の私には、モヤモヤした気持ちを、大きな息と一緒に吐き出すことしかできなかった。

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