交換条件は一日一回のキス

モンステラ

交換条件

第1話 

「ちょっ、待っ」

「静かにして」

「んっ……」


 口内に侵入してくる生温かくて柔らかいもの。ぬるぬるしていて気持ち悪い。


 ここは屋上。通常よりも強い風が吹いているので、本来であれば涼しいはずなのに、体の熱は上がっていくばかり。徐々に息苦しくなっていって、目が潤む。


世莉せりさっ……」

「静かにしてって」


 なんとか喉の先から浅い声を出してみても、なおもそれはわたしの中で動きを止めず、奥へ奥へと入ってこようとする。


 ふと誰かの甲高い笑い声が小さく聞こえた。今の私では近くにいるのか遠くにいるのかさえも分からない。


 溢れ出そうな声を我慢して、ぎゅっと両手を強く握りながら、私は何をしているんだろうかと自問自答してみる。決してその答えが分からないわけではなく、分かりたくないから、こんなことを考えているわけで。


 これでもう何回目になるだろうか。こんなふうに世莉さんとキスをするのは。


 ──二週間前


椿つばきー、帰らないの?」

「うん。先生のところに日誌持って行かないといけないから、先に帰ってて」

「はーい。じゃあまた明日!」


 そう言うと、部活終わりで全身に汗を滲ませた女の子は、夏の太陽みたいにカラッとした笑顔を浮かべながら帰って行ってしまった。


 私は振り終わってしまった手をゆっくりと握る。


「……日和ひより


 誰もいなくなった静かな教室で、今まさに去って行った好きな人の名前を口にした。


 水嶋椿みずしまつばき、高校一年生の十五歳。長らく親友に片思い中で、初恋を拗らせている女子とはまさに私のことである。


 窓側の後ろから二番目に置かれている机に目を移す。私の席とは全く真逆に置かれている彼女の席。


 私は廊下をチラッと覗いて、近くに誰もいないことを確認した。


 完全な下校時間が迫っているので、校舎に残っている生徒はほとんどいないはず。私も日誌を提出して早く帰らないと、毎日校門の前に立っている生徒指導の先生に怒られてしまう。


 だけど…… だけどちょっとだけ……


 私は日和の席に座って、頬を机にぴったりとくっつける。


「日和、好き……」


 その言葉は静かな教室に吸収され、虚しく消えていく。


 相楽日和さがらひより。基本的な情報をぱぱっと並べるとすると、日和は明るくて人懐っこい性格の女の子で、小さい頃からずっと一緒にいる私の幼なじみの親友。


 もう少し具体的な情報を言うとすれば、そんな日和に何年も恋をしている人間が一人いる。「そう、何を隠そう、それは私のことである!」と正体不明のヒーローがついにマスクを脱ぐみたいに、はつらつとした声を心の中で再生する。


 だけど、伝えられる日はやって来ない……のだろうか。そんな不安みたいな、不満みたいな感情を察知した心の中のヒーローは、すぐにマスクをかぶり直してしまった。


 自分でもよく分からない。だって、私は女の子で日和も女の子。それでいて親友。それでいて幼なじみ。こんな嬉しいようで嬉しくない三条件が揃ってしまっていては、どうにも身動きがとれない。


 日和に嫌われたら生きていけないし……


 わたしは人差し指で机の表面に円を描く。ぐるぐる、ぐーるぐる。


 はあ、なんで日和のこと好きになっちゃったんだろう。


 もう絶対に今日で諦めようと決めてみても、絶対的だったはずの決意は日和を前にすれば塵みたいに軽いもので。次の日には風に飛ばされて綺麗さっぱりまっさら。


 初恋は呪いだ。なーんて。


 そんな言葉がぴったりと当てはまるなあと、わざと声を出してやるせなく笑ってみても、冷たい教室は笑い返してはくれない。


「へえ」


 これが代わりだというように、突然、低く濁ったような声が教室に響いた。


 誰もいるはずのない教室から声がしたことに耳と心臓が反応し、急いで顔を上げる。


 教室の扉の前に立っていた人物を見た私から出てきた感想は「最悪だ」のたったの三文字。だけど、その三文字が的確にこの現状を表していた。


「世莉さんっ……」


 今の私を見られるにあたって、この世で二番目に最悪な人物を見つめながら頭を働かせる。


 どこまで聞いていたんだろう。日和に対して好きって言ったのも聞かれてた? いや、でも別に今の私を見られたところで…… そもそもここが日和の席だって知ってる?


 体の中心から響き渡る心臓のドクドクという音が私の頭にまで侵食して、思考を鈍らせようとする。


 大丈夫だ。まだきっと大丈夫。


「世莉さん、どうしたんですか? 日和ならもう帰りまし──」

「椿ちゃんって日和のこと好きなんだ」

「っ……」


 ド直球な言葉に息を飲まされる。


 私はその言葉に抵抗するように、歯を強く噛み締め、胸の前で制服をぐしゃっと握った。


「これは違くて、その、好きっていうのは普通に友達としてですよ? 最近日和の部活が忙しくて一緒に帰れてないから寂しいなーっていう」

「別に隠さなくてもいいよ」


 そう言うと、世莉さんは何を考えているのか全く分からない笑顔を浮かべながら、私の方へと足を進めてくる。


 こっちに来ないで欲しい。


 私の心の中を土足で踏み荒らされるような感覚を覚えたが、世莉さんはそんな私の気持ちなんて知る由もなしに、確実に一歩ずつ近づいてくる。それどころか、私の、正確には日和の隣の席に腰を掛けて、足を組み始めた。


 本当に最悪だ。よりによって世莉さんに見られるなんて……


 すぐに私の頭はシフトチェンジをして、今の状況に最善であろう言葉を私に提示してくる。そして、そのままの言葉を口にした。


「日和には言わないで……」


 そうお願いするしか咄嗟に解決策なんて見つからなくて、今の自分の動揺具合は、目が泳ぎまくっていることに自覚を持てるほどだった。


 この私の前でにこやかに微笑んでいるのは世莉さん。相楽世莉さがらせりさん。最悪なことに、日和の一つ上の…… お姉ちゃんだ。


「……いいよ、黙っててあげる」

「ほ、ほんとですか?」

「だけどその代わりに交換条件」

「……こ、交換条件?」


 交換条件。その言葉がフラッシュ暗算のように何度も短く再生される。その度に考えてみても、交換条件から良いイメージは一向に湧いてこない。


 でも結局、「そんなことどうでもいいか」が私から出てきた答えだった。日和にこの気持ちがバレてしまうくらいなら、どんなことだって構わない。その交換条件とやらで、パシリにでもなんでもなってやろうじゃないか。


 私は目を瞑って、心の中で五秒を数え終わった後、世莉さんの目を真っ直ぐに見つめた。


「分かりました。なんでも言ってください」

「そう。じゃあ一日一回、私とキスしてよ」

「は?」

「キス。決まりね」

「………………………………は?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る