アオゾラペダル by cochi

「行ってきます」

朝のニュース番組を横目に見送る家族にそう言って家を出る。朗らかな陽の光で照らされた早朝の玄関に立つ制服姿の僕の体には、爽やかな風が田圃の稲の森を越えて吹きつけていた。

「全てがうまくいく」

そう背中を押してくれているように感じた。今日のこれからへの希望を胸に抱きながら、いつものように、力強くペダルを踏んだ。僕の背中を押した風を今度は切り裂くようにして最寄りの駅までの通学路を慣性に身を委ね進んでいく。軒先の花壇に水をやる白髪の老人、静かに佇む体育館に併設する図書館、苔のむした今にも崩れそうな小さな神社、キセルをふかし妙に着飾ったタキシードの紳士、見る間もなく視点の先端から死角へと消えていくそれらでさえも、僕の今日を彩り、全てを肯定してくれる気がした。


ようやく駅に人が集まり始める頃に、僕を乗せた電車は田圃などとは遠く離れた街の中心を目指して、ギシギシと地面を踏み締めるように憂鬱と共に動き出した。少しずつ、朝の爽やかな気持ちを車内のその憂鬱な空気が塗り替えてゆく。隣の駅に着く頃には、僕はまるで今までが別人であったかのような暗い面で車窓へ朝の景色と共に浮かんでいた。人混みでそんな車窓さえ憂鬱で塗りつぶされていく頃には、僕はもう夢の中だった。

その夢は、今までの日常とは何の関係もない内容だった。ただ、体が浮くような不思議な気持ちで僕は広大に広がる田圃の真ん中に佇んでいた。僕の体を揺れ動かす風は、毎朝感じる風とはどこか違っていた。辺りを見渡すと同じような田圃の景色が並ぶ中に、僕と同じように佇んでいる人影を見つけた。体が自然と惹きつけられるように気がつけばその人影の前に立っていた。

「やぁ。元気かい?」

その人影はそう言って目線を合わせながら笑う。どこかみたような人影だと思った。その人影が咥えるキセルとタキシードですぐに答え合わせが済んだ。僕はふと言った。

「なぜここに?」

彼は大笑いしながら答える。

「理由などないよ、ただ運命が君と私を巡り合わせたまでさ。むしろ私の方が君に尋ねたいことがある。なぜ君は今そんなに暗い顔してるんだい、いつも私を横目に通り過ぎる時のあの明るい顔はどこに行ったんだい?」

僕にはわからなかった。別に特別に嫌なことがあるわけではない。ただ電車の中の憂鬱な空気や、これから学校で待ち受けるただただ退屈な時間、それと大人たちに押し付けられる理不尽。それらに、押しつぶされそうになるのだ。

「理由は十分じゃないか、まぁ辛くもなるよな、思春期の少年にはなおさら」

口に出してはいないはずだが、彼は全てを見通しているかのように僕にそう言う。そして彼はそのまま続けた。

「さまざまなことが辛いだろう。学生だもんな」

「君のような明るい笑顔ができる少年が今みたいに暗い顔をしているのはとても気分が良いものじゃない。だから私から一つアドバイスをやろう。趣味でもいい、恋愛でもいい、もちろん学問でもいい、自分の好きなものに向かってペダルを漕ぎ続けろ。君が駅へと向かうようにな。そうしていれば、いつか必ず君が憂鬱に押し潰されず笑っていられる日が来る。私が保証しよう。だから今はまず、ペダルを踏め。強く、止まらぬようにな」

「それだけだ。」

そういうと、彼は微笑みながら姿を消した。


「次は−、終点−。終点−」

通勤ラッシュで目まぐるしく回る終点の街の中心へと電車がつく頃には、不思議と目が覚めていた。目的の駅直前には目が覚めるこの不思議な現象は、きっと世の多くの学生や社会人が共感してくれる世界の謎の一つだろう。そんなことも考える暇も与えられず憂鬱と共に解き放たれた僕は、颯爽とホームから有人改札をぬけ、重重とした空気の中、学校へと足を動かした。ついさっきまで見ていた夢の事などとうに頭になかった。一歩一歩、電柱や交差点を越え学校へと近づいていくにつれ足は重く、視点は足元へと落ち、僕を肯定してくれる景色の姿が見えるはずもなく、この世の終わりのような気持ちでナメクジのように進む。学校の門を通り、下駄箱で靴を履き替え、聳える大階段を越えて教室に入る頃、学校に着いたのだとようやく気づいた。

朝のホームルームまでの時間、ただただ重たく暗い気持ちで時が過ぎるのを待つ。それはまるでこの世の全てがどうでも良いかのように。無意識に空気清浄機の如くため息をつく。いや、空気汚染機の方が妥当な名と言えるだろう。希望などなく、既に下校後のことを頭に浮かべ始めていた。そんな時、

「おはよう」

朗らかで爽やかな声で、憂鬱の森を越えて、隣の席の彼女は僕にそう言った。挨拶を聞くまで隣にいることに気づかなかった。それほどに暗い空気を纏っていたであろう僕に彼女は声をかけてくれた。綺麗で、勉強もできて、愛想の良い彼女が僕にだ。そんな彼女だからこそかもしれないが、もうすでに僕には根拠のない勇気や自信が溢れていた。

「全てがうまくいく」

そう背中を押してくれているように感じた。突如として沸いた今日のこれからへの希望を胸に抱きながら、もう憂鬱に押し潰されぬように、もう止まらぬように、彼女の方を見て、視線を合わせ、笑顔で、力強くペダルを踏んだ。

「おはよう」

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