文芸同好会第1号「欅」
@hukuikosenbungedokokai
アイスエジ by kyonsy
突き刺すような冷気は頬の前を通り、また世界のどこかへ飛んでいった。
コールドプレイの「Vira Le vira」は僕へ必死に伝えた。『おまえは何やってるんだ?ここで何しているんだ?』小刻みに響くバイオリンは僕の脳を無理やり叩きおこし、『歩け』 と僕に言っている。他の内容はどうでもよかった。ルイ十六世が世界を治めていようが、ギロチンで晒し首にされようが、僕には関係のない話だった。
僕は今布団の上に寝ころがっていること、柑のジーンズを着て、灰色のフードをかぶっていること、目の前に二つのビール缶があること、二枚あるうちの一枚の窓が割れていること。状況を五秒ほどかけてゆっくりと理解し、スマホから流れるこのエネルギッシュなビートを停止させた。
洗面所に行って蛇口をひねったが、当然のように水は出ない。
しかたなく寝室に(そう言えるかどうかは相当怪しいのだが)へ戻り、任家を奪われた猫の ようにボロボロのリュックをかついで、僕は外へ出た。
「さようなら」
それは別れの言葉だった。それは自分の声だった。それは誰に聞かれることもなく、空気へ溶けていった。
よく考えてみれば変な話だ。ここには誰もいないじゃないか、この家も、所詮は僕にとって一夜を過ごすテントにすぎないのだ。
あたりは直接太陽を見られるほど濃い霧に覆われている。僕の今夜のテント以外にも 空屋はかぞえきれないほどあった。人気はまったくなかった。
それらは皆、一列にならんでいた。まるで中世ヨーロッパの兵隊のようにきれいにならんでいた。しかしそれらはボロボロで、鎧が割れてたり、兜が取れてたりしていた。生首ごとゴロリと落ちたものもあった。そしてまちがいなく指揮者は死んでいた。
反対側には海があった。そこには上下左右、限り無く海が広がっていた。それでも霧のせいで水平線はどこにも見当たらなかった。
これら間には幅が四、五メートルはある道路があった。地面を踏むとジャリと音が鳴った。そこにはここにあるべき物全てがなかった。あるとしたら僕ぐらいだろうか。水平線も、この霧がなければ見えていたかもしれない。
突き刺すような冷気は頬の前を通り、また世界のどこかへ飛んでいった。
あぁ、なんと寒々しい光景だろうか。この隔離された世界に僕以外の人間はいないのだ。
だが、それは間違いだった。それを証明させるのに、僕は十秒ほどかかった。 よく見れば、視線の右下あたりに1人の女の子がいた。年齢は十八、十九齢ぐらいだと思う。『女の子』が『女性』か、どう言えばいいのだろうか。少々表現に迷う年代であった。まぁ、女大生(女子大学生)ということにしておく。
その女大生は少々異質な空気を持っていた。
女大生はコルクと革のサンダル、白いワンピースを身にまとっている。髪は長く、黒く艶めいている。その女大生は砂地をザクザクと踏み、海へ行った。
そう、海へ行った。
僕の足は考えるより先に前へ進んでいた。堤防をかけ下り、砂上を全力で走った。その間に女大生の足はもう海へ浸っていた。世界に隔離されようが、この町が死んでようが、僕には関係のない話だった。ここにきて来て初めて、吹き荒れる海風を恨んだ。
女大生は海へ入った。
その様子は悪ふざけをした女の子のようで、既に死んだ海の亡霊のようでもあった。対の関係にある二つの物をその姿は保持している。
靴へ水が入った。ジーンズがびしょ濡れになった。とにかく全身に嫌悪感が襲い、黒い何かは僕の身心へまとわりついた。
「君!何してるんだ!」
彼女の腕を強引につかみ、こちらへ引き寄せた。彼女の肌は陶器のように白く、滑らかだった。僕の手には彼女の体温と、女性のもつ生々しい感触が伝わってきた。喉を刺す冷気に、彼女のミルクのような甘いにおいが混ざり合った。何が何だか分からなくなった。カオスな状況に僕の脳はやられていて、僕は波にゆられながら、頭をくらくら させることしかできなくなった。
「あなたは、何してるの?」
とぎれとぎれの言葉だった。でも、彼女は嫌な顔一つせず、ただ一点に僕を見つめていた。 深海のように先も見えないほど黒く透き通った瞳で見られると僕はドキドキしたし、 少なくとも動揺した。彼女の言葉は別に震えているわけでもなかった。
僕はまず、クラゲのように漂う彼女のワンピースを見た。そして下半分が黒くなったジーンズを見て、そのつぎに彼女を見た。
「旅をしている」
「旅?」
「そう、旅だ」僕は間を置き、新鮮な潮風を胸いっぱいに吸った。そして、吐いた。
「もう一度聞く、君は何してるんだ」
彼女は深く息を吐いた。それはため息のようにも聞こえた。そして、僕のパーカーの裾をひっぱり、「ここは寒いから、一回戻ってからでいい?」と囁くように言った。
僕は肯いた。
彼女は僕を誘導し、一つの民家へ行った。その家も周りと同じような死に方をしている。彼女に裾を引かれながら、ふと僕はそう思った。
「ここが私の家よ」ドアをガチャリと開けながら彼女はそう言った。
当たり前のように暖房はついておらず、窓はガラ聞きだった。(幸いなことに、割れてはいないようだ) 家の中は暗く、空気は陰湿だった。まるで異世界に迷いこんだ羊のように、僕はどうしようもなく不安になった。
「死んでいる、そう思ったでしょ?」
まさにその通りだ、と僕は思った。僕は黙って肯き、窓を勢いよく閉め、鍵を上から下に落とした。ガラスが割れないか心配だったが、それは杞憂だった。これでズボンに振りかかる冷風をようやく阻止することができる。
彼女は手ごろな位置にあるイスを引き、そこに座った。見なくてもいい思わせるほど、それは自然な動作だった。(たぶん本当にそうだろう)。焦げ茶色の質感のあるウッドチェア。そこにちょこんと座る彼女。僕も同じようなイスを引き、そこへ座った。それは思っていたよりも随分と軽かった。
「さっきは何て言ったかしら」
彼女は首をかしげ、僕の目を覗きこむようにじっと見つめた。彼女はそうしたけど、僕は彼女の全体像を知りたいと思った。だから、その目線を逸らした。
改めて彼女を見るといろいろな発見があった。髪はさらさらしていて、一本一本が静かに揺れている。桜色の唇は瑞々しく潤っていて、目を送らしてしまうほどそれは艶めいていた。胸は少し小さいが、体型はほぼ完璧に近い。太ってないし、 痩せてもいない、全体的にスリムだが、ほどよく肉が付いている。
「僕はこう言った。『君は何してるんだ』」
「何してるんだ」
「そう」
「分かった」彼女の目が閉じられ、三秒ほどの静寂が過ぎた。「うん、教えてあげる」 僕は息を飲み、彼女は手を自分の膝の上に置いた。「教えてあげる」
窓はガタガタと振動し、時々バタンと揺れた。開かれた彼女の目からは、いくらかの決意が読みとれた。その眼差しは鋭利で、同時にはかない。グラスの中の氷のように、それはザラザラと凍りついていて、ゆっくりと誰かに溶かされることを激しく求めていた。
この時、既に僕の心臓は掴まれていた。
「ありがとう」少し恥ずかしかったが、僕は正直な気持ちを答えた。
別にと彼女は言い、そこから一拍空けた。それはまるで、世界のスイッチを切り変えるように神聖な空白だった。
「まず、ここがどこか分かってる?」
「北海道、気候的に見てたぶん根釧台地の中にある」
「正解」彼女は顔をしかめ、ガタガタと震える窓に視線を逸らした。「まぁ正確に言えば中、というより端のほうなんだけどね。そしてここは名前のない町」
「名前のない町」
「そう、名前のない町」彼女は続ける。今にも泣き出しそうな顔をしている。膝の上に置かれた手をキュッと握っている。「まずはこの町の歴史を説明する」
「分かった」
僕はリュックから水筒を取り出し、一口飲んだ。それでも口は渇いていた。うっすらとした塩の香りと、ドロリと堆積された死の匂いが目にしみて、僕はまた水が欲しくなった。
まずはここがどこなのかということを、僕は彼女に説明を受けた。
ここは北海道の根室振興局(北海道は振興局によって区分けされている)に属していて、峯浜と薫別(おそらくほとんどの人は分からないだろう)の間にある空白に作られたらしい。先ほど見たのはオホーツク海で、詳しくは根室海峡(近くに国後島がある)という名前だ。残念ながら水平線は見られそうにない。いや、今はそんなことどうでもいい。この町を造った人の大半は旧ソ連からの帰国者で、ほとんどがシベリアでの強制労働を経験していた。彼らはそこの景色を気に入り、居住して、毎日漁業を営んだ。そして1人のリーダーを立て、その人を村の主とした。
「結構うまくいってたらしいよ。村の結束は固かったし、豊かな海産資源もあった。 子供のほとんどは親の後を継いで、居住地をどんどん広げていった。一時期の人口な五百人を超えて、人々は大自然の中でゆったりとした生活を送った。ねえ、なんで今私は一人なの?」
「…………」
「みんな飽きてきたのよ」と彼女は吐き捨てるように言った。「特に私達の世代はそれが早かった。ほとんど全員が札幌か東京へ出ていった。しかもほとんどの場合、親もいっしょに出ていったの」
「なんで親が出ていったんだ?」
「あたり前じゃない、親もその生活に飽きてたからよ」彼女は半端あきらめたように、肩を落としこめかみを指で押さえた。「年寄りはここで死ぬか地方の介護センターへ行くかしてここを去った。早いものよ」
「じゃあ君は?」
「私はこの村の主の娘だったの」彼女は窓を開け、あいかわらずすっからかんな外の景色を眺めていた。寒いから早く閉めてほしいと思ったが、そんな残酷なことはとても言えなかった。その瞳には何が写っているのだろうか?
ねえ、と彼女が言う。なんだい?と僕が問う。彼女はこちらへ小さく微笑えみ、金属でできた窓の縁をギッと強く握った。僕は表情を何一つ変えず、そんな彼女の一つ一つの動作に目をこらしていた。
開かれた窓から、肌を刺すような冷風が入る。それらは僕達を包みこみ、この空問と僕との間に一つの渦を生みだした。でも僕の近くには彼女がいて、僕は砂漠へ迷いこんだ猫ではない。 悲しくもないし、淋しくもない。僕は その冷たくて湿った空気を吸った。おなかいっぱいに吸った。 そして一気に吐く。大丈夫。とにかく視界をクリアにするんだ。 彼女は僕のほうへ歩き、膝がくっつきそうなほど近くまで来た。彼女の肌は 雪のように白く、綺麗だった。スカートは下の方が濡れている(もちろん海へ入ったせいだ)が、体の一部のように似合っていた。こう見ると彼女は見習いの魔女のようにも見える。抱き締めた瞬間バラバラに壊れてしまいそうで、一定の妖しさを保っている。
だが、それは彼女が凍っているからだ。
「少し、ついてきてほしいの」 僕は無言で肯いた。そしてリュックを担ぎ、ポケットに自転車のカギが入っているか確認した。
彼女がドアを開け、僕がその後ろをついていく。
「ねぇ?あなたは海をどう思ってるの?」
「大きくて、魚がいて、塩からい」
彼女は急にこちらを振り返った。そして一つの質問をした。僕が質問に答えると、彼女は少し不機嫌になった。
「ロマンが無いね」
「求められても困る」
「あのね、そういう意味じゃないの。客観的な意見を言ったってどうしようもない。私はあなたに聞いている。一つの主観の中に客観性をもちこまないで欲しいの」 こんなことを言われるのは初めてだ。逆なら何回も聞いている。そんなのお前の意見だろ。だけど彼女はその『お前の意見』を知りたがっているのだ。
すぐそばに海はある。僕は目を凝らし、海をジッと見つめた。いまさらだが、ここの海は輝きというものがない。
「わからないな。やっぱり僕はロマンがないのかもしれない」
「そう」
僕達は話すのをやめ、ただ海を眺めた。カモメの鳴き声が聞こえる。僕たちは堤防に並んで座り、静かに押し引きを繰り返す波の様子を、ただ眺めていた。
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