こちらになります(下)

 S…のフェローになって二ヶ月近く経ったある日のことだった。


 わたしが一人でレジ番をこなしていると、見るからに一風変わった二人組が入ってきた。片方は長身で、『W』のロゴが入った赤いベースボールキャップに茶色っぽいチェックの長袖シャツ——胸ポケットが取れかけてる——を着てた。

 もう一人はずっと小柄で、ところどころ黒ずんだ緑色の繋ぎ服に泥だらけの編み上げブーツを履いて、新聞紙の束が飛び出した編み目の手押しカート引いてた。

 

 その二人が入ってきた瞬間、店内の空気がと変わったのがわかった。ホームレスか、このあたりではお目にかかれないような仕事で日銭を得てそうな感じ。店内ほとんどのお客さんが目をぱちくりさせてこっちを見てるのがわかった。

 わたしは状況にひどく緊張しながらも、彼らがレジにやってくるのを心の何処かで待ってたような、妙な心地がした。毎日毎日同じように身なりがぴしっとしてて、長い名称のメニューをスムーズに注文して、お金にも人生にも全く不自由してなさそうな(それはあくまでわたしの偏見だけど)お客さんばかり相手してるうちに、何か違和感みたいのを感じてたんだと思う。少なくとも最初に予期してたような「自分が広がる」って感じはなかった。ぜんぜん、まったくなかった。

 

 店の隅のテーブルを拭いていたエノモト先輩が、テーブルに手をかけてこっちを心配そうに見ているのが見えた。様子を見て駆け寄ろうと機会を窺ってる感じだ。

 小柄の男性が、カートに手をかけたままレジの前に立った。


「どうされましたか?」わたしは笑顔を浮かべきれずに言った。マニュアルでは、にこやかに「こんにちは」と言うべきところだけど。

 男性は二本指を掲げた。ピースサインではないことは明らかだ。その手はぶるぶる震えてた。

「ず……ふた…ン」と男性はがらがらした声で言った。

「あの、もう一度お願いします」わたしは顔を彼に近づけた。

「みず、ふたつ。パン」と男は言った。それから黒ずんだ指先であらかじめ持っていた2枚の百円玉をシルバーのトレイに一枚ずつ、かちゃん、かちゃん、と貼り付けるように置いた。

「かしこまりました」わたしは二つの紙コップに氷水を注ぎ、蓋をしてストローを挿した。

 あと、パン……? わたしはショーケースを見た。ショーケースの背後には値段を記した小さなシールが貼ってあって、正面からは見えないようになってる。でも確認するまでもなく、二百円で買えるパンはひとつもない。一番安いのはチョコレートチャンククッキーかアーモンド・フロランタンだけど、それでも税抜き二百十円。それに、それらはどう考えても「パン」じゃない。

 赤キャップで長身の方の男性は入り口ドアの横で店内をひもじげに見渡していた。顔が霜焼けみたいに赤らんでる。

 わたしは二人に何かのあるものをあげたいって思った。シナモンロールとか、ワッフルとか、サンドイッチとかそういうの。

 数秒の逡巡の後、トングでホットドッグを二つ挟み取って、素早く紙袋に入れた。

 その時、背後に誰か立ったのがわかった。高村店長だ。その顔はこれまで見たことがないほどシリアスで、せっぱ詰まっているようだった。

 店長はわたしの顔を見ずに、わたしの手から素早く紙袋をもぎ取ると、再び小柄な男性の方に回り込んだ。そして男性に向かって入り口を指さして、「あちらになります」。きっぱり申し渡すように言った。

 小柄な男性は動こうとしなかった。表情に全く変化がない。聴こえてないのかも……。

「店長、お客さま、お水を頼まれてます」わたしは言って、氷水の入った紙コップをレジ前のスペースに置いた。

「それ水なの?」店長はしかめつらしい顔で言った。「なんでストロー?」それからホットドッグの入ってる紙袋を背後の洗面台に置いてから二つの氷水カップを抱えて、入り口で居心地悪そうに立ってる赤キャップの男性の方にしっかりした足取りで近づいていった。

 

 躊躇してる暇はなかった。わたしは素早く紙袋を手に取ると、小柄な男性につんのめるようにして、手押しカート編み込みポケットに無理矢理押し込んだ。

 顔を上げると、ダスター握ったエノモトさんが怒った表情を浮かべてこっちに向かってすたすた歩いてくるのが見えた。お客さんの何人かはこっちを緊張した面持ちで見ている。

 エノモトさんは小柄な男性の前に立つと、「あちらになります」。右手で入り口を指し示した。その時、入口の店長も赤キャップの男の背中に手を置いて、外に導こうとしてるところだった。

 赤キャップ男性は両手に水のカップを持ったまま、店長に押し出されるように外に出ていった。小柄な男性は、わたしがカートに紙袋を入れたことに気づいていないように見えた。彼は「あちらになります」と言ったエノモトさんに対してではなくて、わたしに対して、奥の方に怒りと疑念がこもった、でも同時に感情そのものがすっかり摩耗したみたいな、不思議な表情を浮かべてた。同じ真新しい緑のエプロンを身につけてるわたしとエノモト先輩の区別なんてついてないのかも。

 やがて小柄な男性は赤キャップ男性が外でしゃがみこんでいるのを見ると、カートに両手を添えて入り口に向かって足早に突進した。そして店長が開け放していたドアから飛び出すようにして出ていった。

 店長はしゃがみこんでた赤キャップ男性の腕をさりげなく引っ張るようにして、二人を店からだいぶ離れた場所に誘導していった。余裕なさそうだったけど、依然として口元には笑顔の切れ端が浮かんでいた。客たちは、皆少し緩んだ面持ちで、ガラス越しにその光景を眺めてた。パニック映画のエピローグを見るみたいに。


「岸さん、岸さん」エノモト先輩がわたしの肩を強く叩いた。

「あ、はい」わたしは現実と夢の境目にいるように陶然としていた。

「さっきのNGです」エノモト先輩は、ここに来て初めての厳しい口調で言った。

 わたしはふいに思った。この人、この世界に実在してたんだって。すぐに謝るのも違う気がして、わたしは返事をしなかった。

 高村店長が戻ってきた。すぐにわたしに向かって、「気持ちはわかるけど、ああいうことされると困るのね」と早口に言った。

「ああいうこと」わたしはついおうむ返ししてしまった。

「岸さん知らないだろうけど、さっきの二人、去年の暮れからよく来てんのよ。今日は金出そうとしてたけど、たいてい水しか頼まない。たまに何か買えば追い返したりはできないってわかってるわけ。で、何か買うと閉店まで居座る」

「でも」とわたしは押し出すように言った。「店長、何も注文しない人にもなるべく試飲用コーヒーとかお水とか出してあげるようにって」とわたしは押し出すように言った。

「それはさ……や、言わなくてもわかるよね?」店長は苦笑した。

 わたしは押し黙った。

「カフェっていうのが何のためにあるのか、いっぺんよく考えてみてもらえるかな」と彼は言った。「岸さんは、ホームレスみたいな感じの人が来たから、お客さんとかじゃなくて、ただ困ってる人が来たから、ただ冷たい水とホットドッグをあげたいってシンプルに考えた。そうだよね?」

 わたしはまだ黙っていた。そういうこと……なんだろうか?

「おれだって、困ってる人に自分の持ってるものあげたいって思うし、実際、道ばたで要求されたら、応えてあげるかもしれない。まあ、わかんないけど」

 わたしは彼の口元をぼんやり見ていた。

「でもさ、ここは彼らだけの場所じゃないし、君の家でもない。みんなの場所。みんなが少しでも心地よい時間を過ごしたいって思って、わざわざ来てくれるサード・プレイスなんだよ」

 わたしは唇をぎゅっと閉じて、目線を下に落とした。わたしを睨みつけているエノモト先輩の視線が痛い。

「そして、ここはルールと清潔さによって成り立ってる」と高村店長は言った。「岸さんはおれをイジワルで心無い男って思ってるかもしれないけど」

「そんなこと」わたしはどうにか言った。「そんなこと」わたしはさっきまで持っていた「自分は正しいことをしてる」って気持ちがぐらぐら揺らぐのを感じた。まるで穴の空いたボートで湖畔の真ん中に浮かんでるような心許ない気持ちだった。

「ここは、ここだけは、来る人が、ぜったい気分よくなれる場所じゃなきゃいけないんだ」高村店長は締めくくるように言った。力強い口調と、彼の全身90パーセントを占める黒色がその言葉に強い説得力を付与した。横にいたエノモトさんは感動したように店長の顔を見つめながら、音を出さずに拍手するようなジェスチャーをした。わたしは黙って下を向いてた。ひとことも言葉をはっせないまま。

         

 翌月、わたしはS…四ツ谷店を辞めた。

 今思えば、あの二人組の件が辞めるきっかけになったとは思うけど、何にせよ長くは続かなかったと思う。わたしには小奇麗なカフェでの接客が向いてないらしい。それは単純な「向き不向き」。性格とか思想がどうこうじゃない。今はそう思う。

 代わりにってわけじゃないけど、新宿に昔からあるカフェバー『ベンヴェ』で働き始めてからもうじき半年になる。わたしは大学院に進まず、就職もせずに、一年間そこで働くことにした。通学中にたまに目にしてて、その開放的な雰囲気と流れてる音楽がずっと気になっていたけど、なかなか入れなかった店。

『ベンヴェ』は昼から終電近くまでやってるし、場所柄、会社員もアーティストもホームレスも学生もアル中っぽい老人もキャバクラ嬢も女子大生もバンドマンも夜勤明けの警備員も飲みに来る。一番よく出るのは一杯三百八十円の生ビールで、いつも祝祭的なムードが漂ってる。メニューは深煎りコーヒー、野菜カレー、窯焼きピッツァに日本酒まであるけど、わたしが知っているどこのレストランよりもイタリアって感じがする(イタリアに行ったことはないけど)。

 S…に行った時、高村店長にそこで働き始めたことを言ったらだいぶ驚いてた。「物静かな岸さんが、あんな忙しそうで賑やかな店でだいじょぶなん?」って。けど、彼は一人で気軽にお酒を飲める店を探していたらしく、たまの休みの日にお酒を飲みに来るようになった。カウンターで一人、流行りのSF小説を読みながらビール飲んでる店長は、S…で接してた時の彼とは全くの別人、とはまでは言わないまでも、だいぶ違って見えた。


***


 その年の冬の晩。仕事上がり、わたしは高村店長と杯を酌み交わすことになった(遅い卒業祝いとバイトが半年続いたお祝いにおごってくれるとのこと)。

 わたしはスライスしたパンとラタトゥイユと白ワインを載せたトレーを持って、カウンターで先に飲んで待っていた彼の横に座った。ここのラタトウィユはビールやワインにすっごくよく合う。

 赤いバンダナにマスクに油まみれの白シャツという格好で、音楽と喧騒にまみれながらきびきび働いてるわたしを見て、彼は「岸さん、ホント自分に合ったいい仕事場見つけたよな」ってからかうように言った。

「ホントはゴスロリ・純喫茶系なんですけどね」わたしは笑いながら言った。「でも接客するのはこういう、わちゃわちゃしたところが自分には合ってるみたいです」

「そうみたいだね」

 わたしと高村さんはお互いのビールグラスとワイングラスを打ちつけた。ワインは「白ぶどう酒」っていうのが相応しいような、ドライで爽やかな味がした。

「そういえば、君がホットドッグを渡そうとしたあの二人、憶えてる?」って彼は言った。

「もちろん、もちろん」わたしはちょっと緊張した。

「あれからおれ、けっこう仲良くなったんだよ」彼は少し照れ臭そうに言った。

「えええ、なんでえ!?」わたしは店中の人がこっちを見やるくらい大声で言った。驚きと嬉しい気持が出ちゃったみたいだ。「……どうして?」

「S…ってどうしても余る廃棄ギリギリのフードとかけっこう出るじゃん、ああいうのを週に二、三回あの二人に渡して、四ツ谷のホームレスの人たちに配ってもらってんの。あの通りってホームレスが集まる公園あるじゃん、あそこで」

「すごい」わたしはパンをかじりながら言った。「けど、そんなことしていいんですか? 近所のクレームとか、本社のお咎めとかあるんじゃないですか」

「や、こないだ本社でメダルもらったんだよ。社訓にも地域貢献みたいなことが推奨されてて。それで、今度うちで『ビッグ・イシュー』も扱うことになった。都内では初めて」

「あ……やー、素晴らしいですね」わたしは小さな拍手を高村さんに送った。そして彼ともっかいグラスを打ち合わせた。

 その時、賑やかな店内に若いカップルが入ってきて、入り口から席が空いてるかどうか心配そうに見回しているのが見えた。

「ちょっと待っててくらさい」わたしは高村さんに言い終わらないうちに、急いで彼らに駆け寄って、パンを口にほおばったまま、隅の空いた席に素早く案内した。

 この店のおかげで、自分なりに自然な接客ができるようになった気がする。今のわたしは誰にでも、「こちらになります」って笑顔で言うことができる。自分らしくいられる心の場所を——それはたまたま与えられた短い幸運に過ぎないかもしれないけど——持ってる。

                                   (了)

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