こちらになります
ラブムー Itsuki Horiuchi
こちらになります(上)
昨年、わたしがまだ学生だった頃、四ツ谷の某緑色コーヒーチェーン店(以下S……)でバイトした短い期間について書いてみたい(それは今となってはあんまり思い出したくない記憶だけど)。
どうして自分みたいなのが、S…で働こう(働ける)って思ったんだろう?
わたしは、隅から隅までぱきぱきに明るくて清潔で、上方に備え付けられたメニュー板をレジから離れたところから細目で見てると、「こちら、見やすいメニューございます」って口角が思いきり上がった店員に声をかけられて、わ、早く注文しなきゃ……ってテンパっちゃって、横文字のカスタムオプションもよくわかんないから、それほどカフェモカ好きなわけじゃないけど、「カフェモカ、ショートで」って注文するのがクセになっちゃったS…なんかより、ホコリっぽい店内にアナログレコードで古めかしいジャズやクラシックがかかってて、無愛想なウェイターかウェイトレスがぶっきらぼうにコーヒーカップと伝票を置いて、無言で去っていくような暗い純喫茶の方がずっと好みなのに。
ただ、四ツ谷にもそんな感じの老舗喫茶は数軒あったけど、わたしはそこで働こうって気にはどうにもなれなかった。
その時期のわたしはわたしが「自分らしい」って感じる自分から少し離れてみたかったんだと思う。良識と清潔さと近代的ポジティビティ溢れてそうな人々のがいるS……のような店にこの身を投げ入れることで、偏りのある自分を少し俯瞰してみたかったというか。ほら穴から荒野へ出でて、成長したかったっていうか……大袈裟かもだけど。
***
2022年六月半ば、わたしは四限「フランス語演習Ⅲ」の後、歩いてS…の面接に赴いた。四ツ谷にはS…が二軒あって、わたしが働こうとしたS…は駅から少し離れた地域にある。紀尾井町駅と四ツ谷駅の中間くらいで、わたしの大学からは徒歩十五分くらい。
そのS…四谷店の控室は思ってたより広くて、店内にあるのと同じような横長のテーブルが部屋の中央にあって、わたしは磁器のようにつるりとした黒髪ボブで、目がフィルター加工したみたいにおっきな店員に案内されて、横長テーブルの端に置かれた丸いスツールにちょこんと腰を下ろした。普段ならまず持たないディーン・アンド・デルーカの赤いトートを隣の席のスツールに置いた。
黒髪ボブ嬢は「どうぞ、よかったら」って、例のロゴ入りプラカップに入ったアイスコーヒーを置いて、部屋から余裕たっぷりな後ろ姿で出ていった。
わたしはマスクを下ろして緑色のストローからひとくち飲んだ。濃ゆいブラック・アイスコーヒーとしか言い様のない味。ガムシロップ欲し……。
数分もすると、黒い襟つきシャツにロゴ入り黒いエプロンをかけたクルーカットが2ヶ月ぶんくらい伸びた感じの髪した男がタブレット片手に入ってきた。黒いマスクは顎まで下ろしてて、二十代後半か三十代前半くらいで、匿名的な「スッキリイケメン」って感じ。いかにも「現場仕事から抜けてきた」っていう空気をなびかせてる。
「岸さんですね?」眩いばかりのその笑顔は「おてのもの」って感じだ。
「はいっ。岸真紀と申します」
「よろしくお願いします、店長の高村、高村
わたしが立ち上がってお辞儀しようとすると、制するように右手を前に出した。そして手前のスツールにさっと腰を下ろしてタブレットのカバーを開いた。
「J大なんですね、何専攻ですか?」高村店長はタブレット用の白いペンで画面をなぞりながら言った。数日前にわたしがメール送信した履歴書のPDFを見てるんだろう。
「外国語文化学科です」わたしは、性格シャイだけど、内にはばっちりやる気秘めた大学生(そしてS…に淡い憧れを抱いている)みたいな表情を意識して言った。わざとらしい上目遣いになったかもしれない。
「あ、ここにも何人かいますよ。J大外文。けど四年生はいなかったかな……じゃあ、就職とかは?」
「いえ、まだ決めてなくて」
「でも、もう七月でしょ、人によってはもう内定出てたりするんじゃない?」
「あ、たぶん今年はしないです、就活」いえ、とか、あ、とかあんま言わない方がいいよな……。つい出ちゃう。
「どうして?」
わたしはすぐに返事できなかった。
「って訊いてもいいのかな?」高村店長は急に店長っぽさを目盛り三つぶんくらい上げた声と表情で訊いてきた。[卒業後もここで働くつもりなのか?]って考えてるのかもしれない。
「院に行くかどうかまだ迷っているので」ってわたしは正直に答えた。
「いつ決めるの?」
「たぶん……遅くても年末までには決めなきゃいけないんですけど」
「じゃあさ、率直に聞きますね。もしうちで働くことになったとする。そしたらどのくらいやりたいって考えてます? ほら、履歴書には週三から週四希望としか書いてなかったから」
「えーっと……」とわたしは口ごもった。それは予想できた質問だったけど、わたしは誰かと対話する時、頭の中で返答みたいのを準備せずに臨むクセみたいのがあったから(じゃないと受け答えが不自然になる気がして)、それについても何も考えてこなかった。
「あのね、岸さん」高村店長は余裕の笑みで、「悪いけど、岸さんがどうしてうちの店で働きたいと思ったのか、ぼくにはまだよくわからない」。そう言ってタブレットに緑色のカバーをかけた。ぱたんって小気味よい音が鳴った。
三十秒くらい沈黙が流れた。自分の心臓が小さく音を立ててるのがわかった。
「自分を変えたいって」とわたしは言った。「仕事で自分を少しでも変えられたらなって」それはたしかに本心だった。
「どんなふうに?」店長は苦笑して言った。「岸さんは元々どういう人で、ここで働くことでどういう風になりたいって思ってるの?」
「わたしは、ですね」わたしは頭の中で急いで文章を組み立てた。
「わたしは元々人と話をしたり、賑やかな場所に行くよりも、自分の部屋とか人の少ない喫茶店で本読んだり、映画館にいる方がずっと落ち着くタイプです。なんか、子供の頃からずっとそんな感じで」
「や、見るからにそういう感じだよね」高村店長がからかうように言った。
「そうなん……ですかね」わたしも無理に笑った。
「で? そういう人がなんでここに?」店長はタブレットを持ち上げて、テーブルの上に立てた。「コーヒーが好きとか?」
「そう。ひとつは、コーヒーが好きだからです。家では自宅で買った豆をドリップとかしてるんですけど、もっとコーヒーについて詳しくなりたくて」
「ふうん」彼は意外にもそこは追求してこなかった。「もうひとつは?」
「もうひとつは……なんか自分の世界を広げたいなって思って、何か今更ですが」
「世界を、広げる」店長はもったいぶったように言った。「もうちょっと具体的に言えるかな」
「そうですね……」わたしは少し考えてから言った。「何か、これまで自分が、あ、こういう人たちとお話するのは無理だな、とか、こういう笑顔はとてもできないだろうなって自分で勝手に決めつけてきた人たちに、店員、あ、フェローとして接客するっていう形で、ノードー的に関わってみたい、みようって思ったんです」
高村店長はまたタブレットを開いて目線を落とすと、「職歴にさ」ともったいぶったように言った。「大学三年の時、小売り量販店に一年勤務って書いてあるけど、接客ってしたことある?」
「あ、はい。それ、キャルディです」
「え、キャルディいたん」彼は軽く驚いたように見えた。その事実は、今日初めて彼に感銘を与えたみたいだった。
「はい、コーヒー豆担当でした」
「そっかそっか、あそこけっこう厳しかったっしょ」
「はい、労働的にはけっこうきついけど……や、でもなんかラクでした」
「従業員、女性だけだっけ?」
「あ、本社にはいるみたいですけど、お店に出てる人はそうです。女性だけで」
「楽っていうのは、そういうのもあるの?」
「あ、えっと」わたしは口ごもった。
「うちとかはさ、比率ロクヨンだから」
ジェンダーマイノリティの方はいますか?って訊こうか迷ったけど、止めた。
「あのさ、ちょっと突っ込んだこと訊いてもいい?」と高村店長がさらに言った。
「はい」正直、この面接がまだ続いていることが意外だった。わたしは昔から、こういうタイプの男性に好かれない。「こういう」っていうのは見たところ自己肯定感強めで、自分の仕事に誇りを持っていそうなタイプってこと。まあ、そんな感じじゃないとS…の店長なんて勤まらんよな……。
「岸さんは男の人と話すのが苦手?」
「あ、いえ、そんなことはぜんぜん」わたしは焦って言った。素直に認めたら、まず落とされるだろう。「男性でも女性でもあんま変わんないです」
「そっか、うん、はい。わかりました」高村店長は言うと、右腕のアップルウォッチをちらりと見た。面接に費やす時間は前もって決まってるのかもしれない。
「結果は後日、履歴書送ってもらったメールにお送りします。たぶん明後日か、や、ごめん、明後日の次の日なるかも」彼はタブレットにカバーをかけて、立ち上がった。「じゃどうも、おつかれさまでした」
わたしが深々とお辞儀して、トートバックを肩にかけて踵を返そうとした瞬間、店長が「あ、岸さん」って言った。
「はい」
「ちなみにそのトートバックからのぞいてる本って?」
正直、答えたくなかった。どうしてバイトの面接で読んでる本まで言わなきゃならんのよ。でも「言えません」では即アウトだろう。
わたしは紺色の布製ブックカバーを外して、彼に表紙を見せた。
「モーリス・ブランショ……アミダブツ」彼が目を細めながら言った。
「アミナダブ」とわたしは訂正した。それからすぐに後悔した。
「はいはい、ごめんね。面白い?」彼の笑い方は少し嘲笑的に見えた。
何がはいはいはいだよってわたしは内心思いながら、「内容よくわかってないかもだけど、面白いです」って、たぶんぎこちない笑顔で答えた。
「オッケー、わかりました」店長はきりっとした表情を浮かべ直した。
わたしは部屋を出て、後ろ手でドアを閉めた。肺の底から固まりみたいなため息が漏れ出た。はああああああああ。
***
面接から2週間後の夜、わたしはぱりっとした緑色の人魚ロゴ入りエプロンを着けて、ぴっかぴかに磨かれたS…のレジ前に立ってた(今日で六回めの勤務)。
わたしのそばには黒髪ボブ(エノモトユリナ)がさりげなくうろうろしてる。レジの打ち間違えとかお釣りの渡し間違えとか、わたしが「フェロー」に相応しくない対応をしたらやんわり注意するサポート係的な役割。
にこやかな表情を崩さず店内を動き回っている高村店長が身に着けてる黒エプロンは「店長」のアトリビュートだけど、マスクもシャツもいつでも黒、スニーカーと靴下まで黒いのはトータル・イメージみたいのを意識してるんだろうか。高村店長はその素早い立ち回りも含めて、カラスを彷彿とさせた。
S…での仕事は前もって予想してた通り、社交性と自己肯定力が不可欠だった。もしそれらを持ち合わせてなかったら、フェイクでも無理矢理引っぱり出してこないと勤まらん。お客さんがいない時でも放心してたり、しかめつらなんてしてようものなら、「岸ちゃん! 元気出してこ!」みたいなことを大声で言われてしまう。そのうち、作り笑顔とはきはきした口調が無意識にデフォになる。スノッブな態度や文学的観察眼をこの場に持ち込むことが、全くもって「お門違いなこと」を否応なしに感じられるようになる。
そのようにして、わたしの内面はチャコールグレーからじょじょに明るい緑色に染まろうとしていた……。
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