「ボート」③

「S字を描くような感じで」と私は妻に言った。「水面に大きなSをイメージしながら漕ぐといい」

 妻は両腕をぐっと前方に押し出した。オールの重みが妻の手から私の指先に伝わってきた。海面がごぼごぼと音を立てたが、飛沫が上がるほどではなかった。

「わ」と妻は言うと、ぐるりと肩を回すようにしてオールを逆に持った。口元に困ったような笑みが浮かんでいた。「めちゃおも」

「重たい」ということなのだろう。妻のオールの扱い方は初めてにしては悪くなかった。ボートは私が漕ぐのとほとんど同じくらいの速度でぐんぐん前に進んでいった。


 沖まではまだずいぶんありそうだった。このペースで漕いでいたらあと2時間はかかりそうだ。もし孝之が尿意を我慢できなかったら、海か持参したビニール袋の中に放尿してもらうしかない。

 私はボートの端で、オールを手にした母を心配そうに見ている息子に、屈むようにして近づいていった。今日、私は朝から孝之とほとんど口をきいていない。

 初めて手漕ぎボートに乗った孝之が興奮してはしゃぐのではないかと考えていたのだが、むしろ家に居る時よりもおとなしいくらいだった。転覆を怖がっているのかもしれないし、父親と母親の不仲を心配しているのかもしれない。彼は思っていることをあまり態度に出さないタイプだった。もっと成長したらさらに無口になるのだろうか?


「フェリーから見るのとは違う感じだろ」私は落ち着いた声を意識して孝之に言った。口に出してみると、何を言ったことにもなっていないような台詞だ。

「くらげ」孝之が私の質問には答えずに言った。「くらげ?」

「くらげ?」と私も繰り返した。

「まるっこくて、イカみたいな形してるのってくらげだよね」孝之は水面を見つめたまま、しかつめらしい表情で言った。

「このあたりにはいなんじゃないかな。それにクラゲってほぼ透明だからさ、ここからじゃたぶん見えない」と私は言った。

 孝之はボートから海上に向かって頭を出した。両手でボートの端を握ったまま、穏やかに凪いでいる水面を検分するように見ていた。

「パパ、そこに座らせてくれるか」

 私は孝之が座っていた場所に膝頭で屈むと、顔を海上すれすれまで下ろした。水面は白い飛沫に覆われていて、陽光の照り返しの中、たしかに何かうごめくものが見えた。私は両手で水を掬おうとした。

 

 その時、後頭部に激しい衝撃が走った。あまりに強い衝撃だったので、夢ではないかと疑ったほどだ。でも同時に、私はそれが何によってもたらされたものであるかを悟っていた。それはオールだった。真上から力いっぱい振り下ろされた、濡れた木製のオール。

 一瞬、視界が暗くなり、ぐらりと態勢を崩した。それまで自分がどういう姿勢をしていたのかわからなくなった。頭では自分が海面に顔を近づけていることを自覚していたし、視界は相変わらず海の青を映しているのだが、オールの鈍重な衝撃は五感を統合する機能を一時的にばらばらにしてしまうほどのインパクトがあった。

 

 私は無言で自分の後頭部を両手で押さえていたように思う。ひとつは、傷の具合を確認するため。もうひとつは次の一撃に備えるため。

 出血はしていなかったし、次の一撃もなかった。代わりに、背後から腰のあたりをもちあげられているような感覚があった。その手が4本あることもわかった。華奢だが力のある妻の手と、まだ肉が付き始めたばかりの息子の手だ。

 予想していた通り、私は海に落とされた。その気になれば回避することもできただろう。どちらかといえば、彼らに同意したような気持ちで落ちた。落ちた瞬間、「ざばん」というような派手な音を想定していたのだが、「ごぼっ」という音が耳元に響いただけだった。個人的で内省的な感じの音だ。


 溺れる心配はなさそうだった。ありがたいことに。前身の力を抜くと、身体はビート板のように勝手に浮かんだ。私は俯せのまま鼻を水面に出して呼吸しながら、足先でボートに触れた。ニスを塗った船体はつるつるしていて、思っていた以上に強固な感じがした。その気になれば販売することだってできるかもしれない。

 私は目をつむったまましばらく俯せに浮かんでいた。ボートの上の二人を見るのが怖かった。妻はボートに乗る前から私にオールで一撃を食らわせ、海に落とすつもりだったのだろうか? あるいはボートを漕いでいるうちに、背後から私を殴りつけたい衝動が急に湧き上がってきたのだろうか。

 正直、わからなかった。ひとつだけわかっていることは、妻と息子はということだ。それは私の心を沖に打ち上げられたクラゲのように暗くさせた。

 妻はもうボートを漕いでいないようだった。ボートは軽く上下に揺れていたが、前進も後退もしていない。

 そろそろ仰向けにならなきゃな……と考えた。仰向けになって、妻と息子に「服のまま海に浮かんでるのもけっこう悪くないもんだよ」とか何とか言おうか。それで妻の気持ちは少しは軽くなるかもしれない。あるいは海の底に沈めてやりたい、と改めて思うかもしれないが。

 

 私は意をけっして、寝返りを打つようにして自分の体を引っ繰り返した。陽光は目に入ってこなかった。きっともう16時を回っているのだろう。

 

 妻と子は私をぼんやり見ていた。最初、黒い髪をひっつめた妻の顔は逆光で金色のアーモンドみたいに見えた。「やりたくはなかったが、やらなければならないことをやった」者が浮かべそうな表情を浮かべている。その横でいかにも心配そうに孝之が私を見ていた。しかし彼が妻と或る空気を共有しており、私がそこに含まれていないことは明瞭だった。

「痛かったよね」と妻はあどけない声で言った。それに答える間もなく、「あんなに強く打つつもりなかったの。本当に」と続けた。「けど、あのオール、重すぎ」

「わかるよ」と私は言った。「ぼくもあんな風に君を殴る気はなかった、しかも顔を」

「こうやって仕返ししたら気が楽になるんじゃないかって気がしたんだけど」と妻は言って、鼻をすすった。泣いているようだった。私は申し訳ない気持ちになった。

「これくらいじゃチャラにはならないだろう」

 妻は黙っていた。私も黙って背泳ぎのような態勢で海に浮かんでいた。空の青みが夕方の群青色に変わりつつある。

「もう帰りたい、わたしもタカも」と妻は言った。「あのオール、重すぎて無理」

「自分が漕ぐよ」と私は言った。しかし、私はそれからもしばらく海に浮かんでいた。後頭部の痛みは酷くなっていたが、気分はさっきまでより遥かに良くなっていた。私はそのことを瀬戸内海と妻と息子に感謝した。

                                   (了)

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ボート ラブムー @lmflowers

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