「ボート」②

 私をじっと見つめる孝之の目に、母を庇う健気な幼心が窺えた。

 息子は3週間前、私が自分の母親にしたことを知っている(彼女の顔を見れば一目瞭然だった)。私が以前した過ちも知っているかもしれない。

 しかし、息子は私に対して怯えや嫌悪が伺える態度をしたことは(私の知る限り)一度もなかった。今も、彼は率先して我々夫婦のバランスを取ろうとしているように見えた。


 妻は私の「そろそろ、何か食べようか」という言葉を無視した。あるいは聞こえない振りをした。それを見た孝之は「ママじゃなくて、僕に言ってよ」と私に訴えているように見えた。

「タカ、デイパックの中からサンドイッチが入ったビニール袋を出して」と私は言った。自分で出しても良かったのだが、食べ始める前に「何かを共同で行っている」という空気感が欲しかった。孝之は私の側にあるデイパックのジッパーを開け、中から慎重に袋を引っぱり出した。

 えんじ色の袋は高松の駅ビルに入っているチェーンのパン屋のもので、『PURE BREAD』という店のロゴが印刷されている。その中には、私が今朝こしらえたサンドイッチが入ったランチボックス(アンパンマンのイラストが描かれている)とピクルスが入っている。サンドイッチはチキンとサニーレタス、チーズとトマト、苺ジャム、無糖ピーナッツバターとハチミツの4種。

 家具職人である私の手先は比較的器用な方だと思うが、料理は全く得意ではない。食事はたいてい妻が作る。しかし、私と妻はこの3週間ほとんど口をきいていなかったから、「ボートの上で食べるサンドイッチを作っておいてもらえるかな」と頼む気にはなれなかった。だいたい、私が2人を招待したイベントなのだ。全てはホストが準備するべきだろう。

 

 孝之はチキンサンドイッチを頬張りながら、まだ海の方を向いている妻の背中をとんとん叩いた。「ママ、お昼ごはんだって」

 妻は振り返った。孝之の肩越しに私を見た。妻の目は、何か放心したような、私が家の中で妻から感じ取っている感情とは違ったものが感じられた。そこには見知らぬ異国の人を見るようなよそよそしさと、ある種の好奇心のようなものが窺えた。

「食べるだろ」と私は言った。「ピクルスとワインの小瓶もあるぜ」普段は語尾に「ぜ」をつけることは滅多にないが、今日の私は意識的に違和感を伴うような喋り方をしていた。

 ピクルスは結婚してまもない頃から妻がよく漬けていたもので、きゅうりと人参とセロリとタマネギと赤唐芥子が入っている。「常備菜」というやつだ。妻はそのピクルスを肴に白ワインを飲みながら夕食の支度をすることを好んだ。

「いただこうかな」と妻はか細い声で言った。

 妻は紺地に白いヘリンボーンのワンピース、素足にビルケンシュトックの黒いサボ、えんじ色のリボンのついた麦わら帽子を被っていた。両足はボートの底の10センチほどへこんだ箇所に折り畳まれていた。膝頭がところどころ赤らんでいて、元の肌の白さと混ざってまだら模様になっていた。妻の膝を数年ぶりにまともに見たような気がした。

 

 我々のボートは今では島からだいぶ離れていた。昔ながらの岬より、停泊しているフェリーの白く大きな船体の方が遥かに目立っていた。

 自分がこしらえたボートでずいぶんと遠くまで来たことを改めて実感した。もしここでボートが転覆したりしたら、我々は泳いで島に帰るしかない。妻も息子も一応は泳げるはずだが、さすがにこの距離はきついだろう。そう考えると、下腹部がぞくっとするような感覚を覚えた。このあたりは海底まで何メートルくらいなのだろう? 比較的長身の私でもおそらく足先も届くまい。

 そんな私の心配を他所に、妻は小さな口でチーズ・サンドイッチを食べ、缶のブラックコーヒーを飲んでいた。海の上なら、昼でもワインを飲むかもしれないと思って、コンビニで買った白ワインの小瓶を持ってきたのだが無駄だったようだ。

 私も酒を飲む気分ではなくなっていた。ボートに乗る前にトイレには行ったが、ぬるいビールを飲めば尿意を早めるだろうし、白ワインで下手に酔ってボートをうまく漕げなくなったらまずい。

 私は除菌ティッシュで指先を拭いてから、自前のチキン・サンドイッチを食べた。けっして悪くない味だったが、適当に削いだケンタッキーのチキンは天然酵母の固いトーストパンにあまり馴染んでいなかった。苺ジャムのサンドイッチを食べ終えると、私はわざとらしく両手を打ち鳴らして、再びオールを手にした。海の上、陽光の下で家族3人でサンドイッチをほおばりながら、酒を飲み、和気あいあいと会話を楽しむといった私の計画は実らなかったようだ。2人とも、2枚か3枚のサンドイッチを申し訳程度に食べ、ピクルスをちょっとかじっただけで、サンドイッチはまだ半分以上残っている。

 

 沖に向かって黙ってボートを漕いでいると、自分の肩にそっと手が置かれるのを感じてびくっとした。妻の手だった。

「どした」と私は驚きを悟られないように笑顔を浮かべた。

「漕いでみてもいい?」と妻は真顔で言った。

「いいけど、けっこう難しいよ」と私は言った。「緑川公園のボートとは違う」

『緑川公園』は高松にある市営の大きな公園だ。私と妻は結婚前、そこの池で2度か3度ボートに乗った。しっかりした歯止めがついていて、手を離してもオールが固定されているやつを。

「重そう、オール」と妻が言った。

「重厚なやつで作らないと、すかすかして前に進まないんだ」と私は答えた。

 妻を中央に座らせ、両手にオールを握らせた。それから自分の両手を妻の小さな両手におずおずと重ねた。妻の手は以前よりも丸みをおびていて、少しばかりむくんでいる気がした。暖かくも冷たくもなかった。

 妻の緊張が私の手に伝わってきた。久しぶりにボートを漕ぐからなのか、私の手が久しぶりに触れているからなのかは判じかねた。

 息子は我々の方を見ず(おそらく意識しているのだろう)、小豆島沖合を睨みつけるように目をぎゅっと細めていた。

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