006 キス未経験の男ですが何か?
昼休み。
「ね、霧咲のやつ、さっき刹菜さんの頭ポンポンしてたんだって!」
「うそー、ないわー」
「いやでもね! 刹菜ちゃんそのあと、『幸せー』って言いながら走り出したって、一組の椎名さんが言ってた」
「そんなの絶対ウソ! 私なんてあんな陰キャにやられたら萎えるわー」
などと言う女子の噂話を耳に押し込みながら、俺は参考書を開く。一体この噂はどっから撒かれたのか。
ちなみに大学物理(振動・波動論)の参考書である。まあそんなことはどうでもよく……。
「なあ、そろそろ本当のこと教えろよ凛斗。一ノ瀬、五十嵐の二人と何かあったんだろー?」
後ろの席のイケメン、敬が話しかけてくる。
こいつはいつ見ても輝かしいぜ。
「俺も昔はお前側の人間だったのにな……」
心の呟きが漏れた。
「はー、何言ってんだよ。凛斗がある日突然ガリ勉になったんだろ? 折角モデルでも成功し始めてるって次期に、急に辞めるって言い始めて……」
やべ、否定できねえ。
敬は今も昔俺がいた事務所でモデルをやっている。まあそこそこ売れてるんだろう。校内一部の女子にも非常に高い人気を誇るイケメンである。
「で、話逸らすな凛斗。二人と何があった?」
うん「自分が彼女だと名乗る二人が現れた」という世にも奇妙な話について、説明したい。
したいが、そうできない理由がある。
刹菜曰く、敬が一ノ瀬を好きなんじゃないかという噂が流れたことがあるらしい。
刹菜は虚飾したり、話を盛ったりはしない。嘘はつくが……。
もう一度言っとく。嘘はつくが……。
おそらくこれは本当の事を言っているだろうと思う。しかし噂は所詮噂。
真実である保証などない訳だが、正直敬の本音は俺もよく分からない。
「何もないって」
取り合ずそう答える。
「嘘つけ。あの二人、どんなイケメンの告白でも断り続けてる男子人気の二大巨頭だぞ? 特に刹菜、凛斗にあそこまでデレデレし始めるなんて明らかな異常だって」
「いや、知らん知らん。俺に聞かれても分からないぞっと」
そもそも俺には記憶がないのだ。以前の二人とどんな人間関係だったかさえ定かじゃない。
「何も無くてあんなにお前への態度変えねえーよ」
「ん、待て……。二人の俺への態度、変わってるのか?」
「あーそうか……凛斗は記憶の関係で覚えてないのか」
納得する素振りを見せ、敬は「いいかー?」と話し始めた。
「簡単に言うとお前のことを悪く言ってた連中だ。例えば刹菜、彼女はギャル友達に凛斗だけはやめとけ、絶対彼氏にするな、って言ってた。鈴乃の方も同じような感じだよ。勉強しか出来ないくせに生意気だとかなんとか、悪い部分ばっかり指摘して周りに言いふらしてるみたいな節があった。その癖、毎日話しかけに来てた」
ふーん。
「おっけい、謎は全て解けなかった。ってな訳で、取りあえず図書館行って新しい参考書を借りてくるわ」
「んー、次の授業に遅れるなよー」
はっきり言って俺は恋愛に詳しくない。
かつて中学時代モテまくっていたという黒歴史もあるにはある。
モテまくっていたのになぜ黒歴史かと言うと、当時の俺は誰でも虜にできると勘違いし、有頂天になり調子に乗った。最低野郎だった自覚もある。
そして果てに、知りもしない一人の女子に振られた経験を持っている。
名も知らない一人の黒髪ボブの女子に。
今でもあの悍ましい記憶が蘇る。中学の夏。場所は図書館。行った理由は唯一エアコンが効いてて涼しいから。
その女子はメガネをかけていて前髪も長かったので、顔は覚えてない。というか見えない。黒髪ボブで、前髪だけ長かった。
「なー、そこの君。いつも図書館で勉強してて偉いね(キリッ)」
とか声を掛けたんだ俺は。今考えると相当痛い。
「え……あの……どういうことかしら? どうして毎日ここで勉強していると分かったの?」
「だって君、可愛いから(キリッ)」
よし、この記憶封印。悍ましい悍ましい。
だって君可愛いから、って理由にさえなってないからな?
こんなこと言って、この後「俺と付き合わない?」なんて軽いノリで言った最低男です。ハイごめんなさい。
何がヤバいって、なぜ告ったのか覚えてないのがヤバい。
そしてはっきり振られました成敗されました。「私は勉強できる人がいい」と。
若気の至り。でも昔は昔、今は今。流石にそこまでイキる体力もありませんわ。
そのトラウマもあり、素顔はなるべく見せないで学校を過ごしている。
むしろ俺がその名も知らぬ女子と同じ立場になったと言える――顔を隠してメガネをかけた――そう考えると趣きが…………ないな。
そんなくだらない追憶の中、図書館に入ると、
「やっぱ高嶺の花だよなー。あの目付きの鋭い感じが、たまんねー」
「お前ドМかよッ」
「けどよ、最近きりさ……げ、噂をすれば……」
などと俺へ意味深な視線を向ける男子が通り過ぎる。
そのまま進み、偏微分の参考書を探していると、
「あら凛斗、珍しいこともあるのね」
声がした方を見ると、そこには憎いほど美脚、スタイル抜群、それでいて大人っぽさを内包する黒髪ロング美少女が。
「え―――お、おお……一ノ瀬さん?」
すると、彼女は首を振った。
「私のことは、鈴乃でいいって言ってるでしょ」
棚から本を手に取ると、なぜかこちらに近づいてくる。
一歩、また一歩と。
いや、てか近くないですか?
十センチほどしか距離ないんですが?
もはやキスしそうな距離なんですが?
「まさか俺のキスを所望ですか……な、な訳ないですよね嘘ですごめんなさい出家してきます」
しかし、
「ふっ……ふふ」
彼女は上品に笑った。俺の前で初めて、笑った。
午前中はあんなに言い合ったのに。
今の君は笑っている。なんかちょっと楽しそうに。
「したいなら別に、私は構わないのだけど?」
「えっ」
「してみる? キス」
妖艶に微笑む一ノ瀬鈴乃を見て、思わず鼓動が高鳴った。
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