第10話 恐れ


 カーラとマルタのいる部屋から出てフラフラと歩いて行くロベルト。


 その途中で耐えきれず廊下の壁にもたれかかる。


 ──手拭いを必死に取ろうとしたのはシルヴィアだ。それが自分が過去に母親に贈った物だなんて、自分ですら思いつきもしなかった。


 シルヴィアはそれがただ単に、カーラにとって大切な物かもしれないという想いだけで、過去の恐怖を一足で飛び越えた。


 ロベルトを襲う痛み。


 自分とはあまりにも違う者を見た時に湧き上がる劣等感。


 自分の小ささを自覚させられる様な、胸に突き立つ鋭い痛み。


『お前、大丈夫か?』


「……煩い。お前と会ってから散々だ」


『んなこと言うなよ。まぁ、よかったじゃねえか。母親との仲は悪くねえみてえだな』


「お前は何も知らないからそんな事が言えるんだよっ」


 つい声を荒げたロベルトは、その後でハッとした様にかぶりを振る。


『そりゃ知らねえよ。お前が教えてくれないからな。まあ、吐き出すだけでも違えからどうせなら相談してみろよ』


 心がささくれたっていたロベルトは、ヴァンの言葉に、暗い笑みを浮かべた。


「……なんてことはない。この黒い髪と翡翠の目が似ていたから、剣が人より多少得意だったから、皆が俺を英雄の再来だと口を揃えて言うから、まるで本当にお前のようになれると思い込んでいた、そんな餓鬼が一人いただけだ」


『……』


「一度剣術の稽古で負けた。完膚なきまでに。同い年の奴にな。それで幻想は終わりだ。どうしても勝てないと感じてしまった。本当に選ばれた人間との違いを認識させられた。それからだ。無邪気に剣を振る事も、人の言葉を信じる事もできなくなったのは」


『一度負けたくらいで何言ってんだよ』


 ヴァンの言葉にロベルトは声をあげて笑った。


「お前にわかるか? 顔も知らない人間と比べられて、肩を並べる様にと期待をかけてもらって、それを嘘にしてしまった時の気持ちがっ。何をしても褒められて、逸話を残し、謳われて、そんなお前に一瞬でもなれると思っていた俺の気持ちが!」


『あのな……よく考えてみろよ? そんなのはただの伝聞だろうが。悪いがオレはそんな立派な──』


「逃げ帰ってきた俺に、父様は失望を隠さなかった。母様は俺との距離を遠ざけた。わかってる。俺が悪いんだ。期待に応えられなかった俺が悪い。けど、もう期待されるのは嫌だ。お前と比べられるのは嫌だ。比べられて、負けていると、劣っていると思ってしまうのが怖い」


 怖いものは無いと言っていたロベルトが初めて口にした恐れ。


 凡そ人には話すことができないと思っていたそれを、初めて聞いたのは人とも言えない不思議な剣だった。


 膝を抱えて蹲るロベルトに、ヴァンは何も言わなかった。


 元はただの剣なのだから、物言わぬのは当然の事ではあるが、今はその静寂がロベルトにとって辛かった。


 自分の子孫がこんなにも情けない人間だとわかったら、普通は失望するだろう。


「──俺はお前の様にはなれない。だから、もう俺を子孫だとは思わないでくれ」


『──やろう」


「……?」


『馬鹿野郎がっ! くそ! ああ! 情けねえ! 並び立つだ? オレになるだ? なれるわけねえだろ! 元から違う人間なんだよ! オレの子が何人いたと思ってやがるんだ! くそ下らねえ!』


「……っ」


『いいか? お前のそれはお前だけのもんだぞ!? お前が感じた孤独も、お前の苦しみも、誰も肩代わりなんか出来ねえんだ! 自分で抱えていくしかねえんだぞ!? 劣等感? 負けてる? 馬鹿野郎が。いいか? 教えてやる』


 ヴァンは深く息を吸う様に、一瞬だけ宝石の輝きを消す。


『──オレだって何回も負けてきてんだよ! 死にそうな目にだって遭ってきた! 仲間の亡骸の下で、息を殺して生き延びた事だってある! 敵の前から逃げた事だって何度もあるぜ! 信じてた仲間に裏切られて、戦場で孤立した事だってある。けどな! オレは一度もオレに負けたとは思ってねえ!」


「それがなんだって言うんだよ……」


『オレが言いてえのはな。折れるなって事だ。他の奴らと比べて自分を測るんじゃねえ! 劣等感や敗北感は、いつだってお前がお前自身に対して思ってる事だろうがっ!? だったら負けんな! 他の誰に負けてもいい。自分にだけは負けてんじゃねえよ馬鹿野郎!』


 ヴァンの叫びに、ロベルトは顔を上げた。


「誰が馬鹿だっ」


『けっ。もうお前の事を子孫だなんだで、悪くいうのは辞める。それは……ぐっ……ムム……オレが悪かった』


「素直に謝れないのか……?」


『うるせえ! これもオレがオレに負けないためにやった事だ!』


「なんだそれ。はは……お前変な奴だな」


 ロベルトは思わず吹き出した。


 盛大に捲し立てられて、言っている事の殆どが支離滅裂だったが、何故か先ほどよりも身体は楽になっていた。


 この剣に宿る魂というものが、本当に英雄ヴァンの物なのか、未だロベルトにはわからない。


 だが、想像していた英雄よりも意外にも口下手な事が何故か嬉しい様に感じられた。


「──俺にそれだけ馬鹿って言ったのは、お前が初めてだ」


『けっ。オレにそんな舐めた態度とれんのもお前くらいだぞ』


 ロベルトは深く息を吸った。


「なあ、もし。もしも、お前が本物の英雄ヴァンだとして、俺はまだ間に合うのか? お前の言う様に、自分に負けない強さをもてるのか……?」


『あたりめえだ馬鹿野郎。まだ十二だろ。オレとお前は一蓮托生だ。お前が負けたっていう奴も、剣聖の一家も、全員ここからぶっちぎってやんだよ! そうすりゃ全員がお前を認める。お前の名前を呼ぶ』


「いちいちうるさいんだよ馬鹿」


『馬鹿はおめえだ。ま、悪くねえ馬鹿面になったけどな』

 

 ――――――――――――――


 公爵家から帰る時間になり両家の者たちの別れの挨拶の場を設けられた。


 馬車を背にして、ウェライン伯爵家の面々は口々に別れを言い合う。


 だが、ロベルトはシルヴィアと目が合うとそっぽを向いてしまう。


 変わろうと思ったが、シルヴィアの顔を直視する事ができなかった。先の出来事で嫌でも劣等感を刺激される。


「どうしたロベルト? ははあ、さてはお前、シルヴィア嬢があまりに可憐なものだから照れているんだろう?」


 クラインがニヤニヤと下劣な笑みを浮かべながら言った。


『オレの子孫って空気読めねえなぁ……』


 ロベルトはお前が言うな、と口に出したかったがそれは抑えた。そして、ヴァンもクラインも無視して、シルヴィアに向き直る。


 ロベルトの目から見ても、確かにシルヴィアは絶世の美少女だ。


 雪かと見間違う程色素の薄い肌に、白銀色の髪。


 全てを見透かすような金色がかった瞳。クラインが変な事を言ったせいか、ロベルトは妙に意識してしまう。


「さようなら?」


 シルヴィアが何も言わないロベルトに対して、別れの挨拶を告げる。


 普通ならば、目下の者から声をかけて、さまざまな枕詞をつけて別れを惜しむのが貴族の作法だが。


 ロベルトは頭をガシガシと乱暴にかいて、シルヴィアに告げる。


「シルヴィア嬢。手拭いの件は礼を言う。母様もいたく感激していた」


「そう。よかった」


「……ふう。その、なんだ。今度はうちの屋敷に遊びにくるといい」


『遊びにきてくれ、だろ。なんでそんな上からなんだお前』


「わかった。必ず行くわ」


「あ、ああ。それじゃまた」


「うん。じゃあねロベルト」


 無表情のまま手を振るシルヴィアに、ロベルトは逃げる様に馬車に乗り込む。


 クラインとカーラも挨拶を済ませた様で、ついに一行は帰路についた。


 馬車の中で、ロベルトは一人考えていた。


 何故、シルヴィアとは年齢も対して変わらない筈なのに、こんなに差を感じるのだろうと。


 その答えを知れば、ずっとわからなかった貴族の矜持というものの正体がわかる気がした。


「父様。シルヴィア嬢は幾つなんですか?」


「やはり気になるか? これが偶然にも同じ歳だ。二年後になったら一緒に学園で学ぶ事になるだろうからな。仲良くするんだぞ」


「学園?」


「ああ。中等部からだが……お前にも同い年の切磋琢磨する相手がいた方がいいと思ってな。いつまでも屋敷にいるより、違う環境に身を置けば、お前の中でも何か変化があるかもしれないだろう?」


 つまり十四歳から、シルヴィアと同じ学舎に入学を果たす事になる。


 ロベルトはそこで考えた。


 ──学園に入って、もしもそこでも自分とシルヴィアに差があったら、威張るに威張れない。


 傲岸不遜、唯我独尊、そんなロベルトにとって、それは許し難い事だった。


 どうにか、学園に入る前に少しでも遅れを取り戻したい。


 だが、どうすればいいのか、それがロベルトにとってわからなかった。


 勉学に励む、などという考えはロベルトの中にはない。ただ、どうすれば負けないか、それだけである。

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