第9話 矜持
木登りで汚れたシルヴィアは使用人が慌てて連れて行った。
ルシオは残ったロベルトに対して苦笑いしながら話しかける。
「いや、申し訳ありませんロベルト様。お嬢様がご迷惑をおかけしたみたいで」
「別に。迷惑なんてかけられてない」
対するロベルトは素っ気ない態度である。実際には胸中は混乱していて、気の利いた返しが出来ないだけなのだが。
「いつもはこんな事無いんですけどね……やっぱり近しい歳の方が来るから、少し陽気になっている様です」
「陽気……?」
話していてもまるで表情の変わらないシルヴィアを思い浮かべて、陽気という言葉の意味を咀嚼するロベルト。
「ええ。きっとロベルト様に対していい所を見せたかったんでしょう。あんな事があったのに、また木に登るなんてよっぽどですよ」
「あんな事とは何だ?」
ルシアの微笑ましいと言わんばかりの表情にロベルトは疑問を抱く。
「まだ小さな頃に木登りをしていて落ちてしまった事がありましてね。その頃から利発的な方だったのですが、小さくない怪我を負ってしまって」
「……怪我」
「それが面傷だったので、屋敷中騒然としましてね。ロベルト様もご覧になられたでしょう? 当の本人も暫くは木を見るたびに怖がっていましたよ」
苦笑しながら過去を懐かしむルシオに、ロベルトの胸中で得体の知れない感情が湧き上がる。
──なんだそれは。
つまりロベルトが見たシルヴィアの額にある傷跡は、昔木登りで落ちた際についた傷という事だ。
ルシアが怖がっていたという様に、シルヴィアにとってそれはトラウマの様な物だったのだろう。
なのに、手拭い一つ取るためだけに、また木に登ったというのか。
『いい子じゃねえか。貴族としての矜持ってのが何なのかちゃんとわかってやがる』
周りの者たちから貴族の矜持を持てとしつこく言われてもずっとロベルトはそれが何なのか分からなかった。
その答えがシルヴィアの中にある様な気がして、ロベルトは認めたくない気持ちが腹の内で暴れるのを感じた。
「……悪いが、茶会は遠慮させてもらう」
『せっかく準備してくれてるのに、なんて事言うんだお前!』
ロベルトの自分勝手な言い分に、だがルシオは一切気を悪くした様子を見せず、微笑んで腰を曲げた。
「わかりました。お嬢様も非常に残念がるでしょうが、そうお伝えしておきます」
「……惜しむ事はないだろ」
「いえ。ロベルト様は音に聞く英雄の生まれ変わりと謳われた御方ですから。お嬢様は随分と興味を持っておいででしたよ。勿論私も」
「噂は噂でしかない。下らん」
ロベルトはその場を後にした。
――――――――
公爵家夫人の部屋をノックすると、中にいた使用人が扉を開けた。
そこには茶を嗜むマルタ夫人と、母親であるカーラがいた。
「ロベルト……どうしたの? 中庭でシルヴィア嬢とお茶をしていたんじゃ?」
「母様。これ……」
ポケットから取り出した手拭いを渡すと、カーラは少し怪訝そうにそれを受け取った。
だが、それが先ほど風に飛ばされた自らの物だと気づくと、驚愕の後に口元を抑える。
「これ……取ってくれたのね」
「いえ、俺は何も──」
自分は何もしてない、と口にしようとした時、カーラの伸ばした腕に頭を抱き抱えられる。
「ありがとうロベルト。やっぱり貴方は優しい子」
カーラの腕の中で、ロベルトは消え入りそうな声で言う。
「まだ……持っていたんですね。それ」
「当然よ。ロベルトが私にくれた物だもの」
久しぶりに近づいたカーラから、懐かしい匂いが香って、ロベルトは胸が引き裂かれる様な思いを抱いた。
「やっぱり噂は当てにならないわね。いい息子さんをお持ちじゃない」
カーラの向かいに座っていた公爵夫人マルタが優しい笑みを浮かべた。
「マルタ様。申し訳ありません上の空で」
「いいのよ。そう……大切な息子から貰った物なら、名残惜しさもあるものね?」
「ええ。自慢の息子です」
──やめろ。
「それにしても、うちの長男はそういう機微というのがわからないのよね。ご子息の事を見習わせたいわ」
──もうやめてくれ。
「ロベルト? どうかしたの?」
カーラの言葉に漸く顔を上げたロベルトだったが、自らの母親の顔を直視する事が出来なかった。
俯いたまま、どうにか言葉を絞り出す。
「いえ……少し疲れたので、涼んできます」
「そう。無理はしない様にね」
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