第5話
そして、その日の週末の夜、片瀬が竹中のアパートにやって来た。
「こんばんは」
「ど、どうぞ」
どうしよう。マジで照れる。竹中は動揺が隠しきれなかった。
「あ…、えと…、何か、荷物多い?」
「お泊まりセットです」
「え?」
竹中は、カアッと自分の顔が赤くなるのが分かった。口に拳を当て、わざとらしく咳払いをする。
「冗談ですよ?」
片瀬にからかわれ、より顔が赤くなる。そんな顔を見られたくなくて、少し距離を置いた。
近くにいるとヤバい。欲望が抑えられなくなりそうで…。大事にしたいんだ。せっかく許された彼氏の座を壊したくない。ゆっくり愛を育てて行きたい…。
竹中は、心からそう思っていた。
「前に、もうここには来られない、って言ってたから…」
「あれは、付き合ってもないのに、アパートに出入りするのは良くないんじゃないかな、と思って。曖昧な関係になっていくのが怖くて。あの時はまだ、自分の気持ちにも整理が付いてなくて」
「課長代理のこと?」
「違います。あの人のことは、もう本当に何とも思ってなくて、竹中さんのことを好きになってる自分を認めたくなかったんです」
「…どうして?」
「竹中さんのこと、信じきれてなくて。手癖悪いって聞いてたし、かなり遊んでるって聞いてたので…。もう傷付く恋愛はしたくないって、ずっと思ってたし。でも、信じようって思ったんです。俺のことを好きだと言ってくれてから、五ヶ月くらい過ぎて、その間、竹中さんのこと見てて、信じよう…って」
「うん」
一瞬、見つめ合うが、竹中がすぐに瞳を逸らす。
「ごめん。あんまり見ないで。俺なりに一生懸命我慢してるから」
「我慢?」
「何か、付き合ってすぐとかって、がっついてるみたいじゃん?そういうのじゃなくて、渉流のこと大事にしたい気持ち、強いから…」
「分かりました。じゃあ、今日は帰ります」
片瀬が立ち上がり、掛けてあったコートを手に持つ。
「え?」
「せっかく付き合えることになったのに、何だか無意味ですね。近寄ると距離を置かれたり、見ないでって言われたり…。俺に告白してくれてから、俺が竹中さんを受け入れるまで、ずっと我慢してたんじゃないんですか?」
「ごめん。俺…」
「心配しなくても、俺は竹中さんのこと信じてますよ?竹中さんの方こそ、俺のこと信じてないんじゃないんですか?」
片瀬が玄関のドアノブに手をかける。竹中がその手を慌てて止めた。
「ごめん。無神経なこと言って悪かった。頼むから、帰るなんて言うなよ」
「大切に想ってくれるのは嬉しいけど、そんなこと言われると悲しいです」
「本当にごめん。俺、今まで真面目に付き合うとかなかったから、どうしていいか分かんなくて。ここに恋人呼ぶのも初めてで、緊張しちゃって…」
「俺は、もっと竹中さんと触れ合ったりしたいです」
「うん。俺も。渉流とめちゃくちゃイチャイチャしたい」
愛おしくて、背後から片瀬を思いっきり抱きしめる。
「本当にお泊まりセット持ってきたんです。いつもは家に帰ってたけど、恋人なら朝までゆっくりして行ってもいいのかな…と思って」
「うん。まさか、渉流から誘ってくれるなんて思ってなかった」
「ち、違います!誘ってるワケじゃありません」
「うん。誘ってないんだとしても、俺がもう限界だから…抱くよ?」
片瀬の頬に手をやり、自分の方へと向けると、竹中はその愛らしい唇に自分の唇をそっと重ねた。
ズクン、と全身が疼く。
「もう無理。渉流…」
勢い良く手を引き、寝室へと向かう。パチン、と部屋の電気を消すと、竹中は片瀬をベッドに押し倒して、自分の上着を全部脱いだ。オレンジのベッドの枕元の柔らかい光の中、片瀬の上着を胸までたくし上げると、その白く綺麗な肌に、竹中は容赦なく吸い付いた。
「ん…」
渉流から洩れたその声を吸い込むように、竹中は強く唇を奪う。
「好きだ、渉流。どうしようもないくらいに」
キスの合間に零れる、竹中の想い。
「本気なんだ。ダメだって思うのに、こうしたくてたまらなかった」
もう一度唇が重なり、舌が絡み合う。そして、
「時間をかけてゆっくりしたいのに、俺が持ちそうにない…」
竹中が片瀬の耳元で囁くと、二人の影が激しく重なり合った。
「俺、すんげぇ幸せ。もうあんな色っぽい顔、誰にも見せるなよ」
腕枕をしながら、頭を撫でる。竹中を見つめる愛らしい瞳。渉流が自分のものになったことが、こんなにも嬉しくて、心から離したくないと思った。
普段は真面目な顔で仕事をして、無表情で澄ましているくせに、ベッドの中では、恥じらいながらも妖艶で、そこに色っぽさが増す。竹中は、そのギャップにも、もう確実に溺れてしまっていた。
まどろむベッドの中、竹中が不意に片瀬に聞いた。
「どうして課長代理は、俺に渉流のありもしない話を聞かせたんだろうな」
「たぶん、噂を流したかったんじゃないんですか?俺が遊び人だって悪い噂が流れれば、あまり人が近付かなくなって、自分の元に戻ってくると思ったのかもしれないですね」
「そっか…。課長代理の意に反して、俺は渉流を誘いに行ってしまったワケだ」
「とんだ誤算だったでしょうね」
片瀬が、クスクスと笑う。
「でも、そのおかげで、渉流とこうやって出会えたから、逆に感謝だな」
「俺も…です」
二人は笑い合って、そしてキスをし、お互いをギュッと力強く抱き締めた。
「竹中、ちょっと」
ある日の朝、竹中が梶尾に呼び出された。
「え?新人の研修ですか?」
「ああ。来週から新しい非常勤が入って来るんだ。お前が担当して仕事を教えてやって欲しい」
「何で俺が。同じ班長なら、別に安永でもいいでしょ」
「安永の班の奴が先週から一人入院してて、人手不足なんだ。だから、頼んだぞ」
竹中は、しぶしぶ、
「分かりました」
と返事をした。
その時、竹中は梶尾の策略と、新人を指導するということの重要さに、あまり気付いていなかったのだった。
「おはようございまーす。今日からお世話になります、友田結です。よろしくお願いしまーす」
高い、猫なで声が局内に響き渡る。
「ああ、君が今日から入社した子?」
「はい!よろしくお願いします」
小柄で華奢な、愛想の良いカワイイ女の子だった。
「いいね、竹中君。こんなカワイイ子と一緒に行動できて」
局長が、仕事を教えるために横に立っていた竹中に声を掛けた。
「いや、仕事なんで」
竹中が片瀬を気遣ってか、冷静に答えた。
「やだー。竹中さんステキだから、私の方が嬉しいんです。ね?」
友田の手が、さりげなく竹中の肩に触れる。
「じゃあ、ここにハンコお願いします」
友田が言うと、局長が嬉しそうにハンコを押す。
「局長の手、大きくて男らしいですね。私、こういう手、大好きなんです」
と、友田が言ってのける。
「ありがとう」
局長の鼻の下が伸びているのを片瀬はしらけた目で見ていた。
「じゃあ、行こうか」
竹中が促す。
「あ、はーい。やだ、待って下さいよー。竹中さん、足早すぎー」
キャッキャとした声が遠ざかる。
何だ、あれ。ここは飲み屋じゃないんだぞ。片瀬は少し不機嫌になった。
友田か竹中と一緒に集荷に来るようになってから、片瀬は意味もなく、いつもの冷静さを欠いていた。あの甲高い声に、仕事中とは思えない態度や言動。それがとても鼻について仕方なかった。
「ごめん。仕事が忙しくて、しばらく会えそうにない。落ち着いたら連絡する」
と、ある日、竹中からLINEが届いた。
片瀬は、
「分かりました。お仕事頑張って下さい」
とだけ返信した。
局で会えたとしても、局長と竹中、そして友田の三人で話して、本局へ帰って行く日がほとんどだった。そのうち、友田が一人で山庄郵便局に来るようになった。
「仕事、慣れた?」
局長がニコニコと話かける。
「はい!竹中さんがとても優しく教えてくれたおかげで、すごく助かりました。竹中さん、カッコいいし、仕事も出来るし、今でも分からないことがあったらすぐに電話しちゃいます」
「そっかぁ。竹中君も嬉しいだろうね」
「やだー。だといいんですけど。私、実は狙おうかな、って思ってて。でも、局長もステキです」
相変わらず友田はテンションも高く、キャッキャしていた。
「実は今度、竹中さんと飲みに行くんです。超楽しみなんです!じゃあ、失礼しまーす」
友田の言葉に、片瀬は一瞬、動けなくなった。
俺と会う時間はないのに、友田さんと飲みに行く時間はあるんだ…。そう思うと、心がやるせなくなった。
そして翌日、局長が席を外している時に、友田が山庄郵便局の荷物と書留を持って来た。片瀬が「お疲れ様です」と声を掛けて、受領印を押すと、突然「局長呼んで下さい!」と言われ、仕事でトラブルでもあったのかと思い、慌てて呼びに行くと「局長の顔が見たかったんです!」と言い放った。
友田が帰ったあと、片瀬の口から思わず、
「何なんですか、あの子!もう二度手間なので、これからは局長がずっとあの人の受領のハンコ押して下さいよ!」
と、めずらしく感情的な言葉が出た。
「あんなことぐらいで腹を立てて、片瀬君は心が狭いよ。仕事として割り切って、ちゃんと自分の立場をわきまえて下さい」
局長が片瀬に注意を促した。
さすがの片瀬も、その言葉に納得がいかず、
「立場をわきまえていないのは、友田さんの方じゃないんですか?何で注意しないんですか?」
と、言い返した。
「部署も違うし、僕たちに配達の方に口を出す権利はないから」
局長が言うと、片瀬は唇を噛み締めた。
「分かりました…。非常識な行動を取る友田さんに問題があるんじゃなくて、それに腹を立ててる心の狭い僕が悪いってことなんですね」
「あ、いや、そうじゃなくて…」
「もういいです。よく分かりました」
納得がいかなかった。自分が悪いとは思えない。なぜ、そこまで言われなくてはいけないのかと、本当に悔しい思いが心の底から溢れてくる。
それから片瀬は、仕事以外のことでは局長と口を聞くことをやめたのだった。
それから一週間が過ぎた。片瀬と局長との仲は険悪なままだった。誰かに相談したくても、出来ずにいた。一人、部屋で落ち込むところに、インターホンが鳴った。
「はい…」
玄関の扉を開けずに、返事だけをする
「あ、片瀬渉流さんにお届け物です」
「はい。今開けます…」
静かに扉を開けると、郵便配達の人が立っていた。
「竹中さん…」
「同じアパートの人に配達があって。仕事中なんだけど、渉流に会いたくて、つい寄ってしまった」
竹中が嬉しそうに笑うが、そこからすぐに笑顔が消えた。
「どうした…?おい、渉流」
片瀬は黙って首を横に振った。
「ごめん。大丈夫…。仕事に戻って」
「でも、お前、泣いて…」
「何でもない」
バッと玄関の扉が大きく開き、そして勢い良く閉じた。竹中が片瀬を強く抱き締める。
「何があった?」
「…俺が悪いんだ。友田さんの、目に余る行動に一人で腹を立てて。局長に、これから友田さんの時は局長がハンコを押して下さいって言ったら、心が狭いって言われて。仕事としての立場をわきまえるように、って注意されて。俺、納得いかなくて、非常識な友田さんより、心の狭い僕が悪いんですね、って言ってしまって…」
「…いいじゃん」
「え…?」
「自分の気持ち、言えたならいい」
「でも、局長と話せなくなって…」
「ちゃんと挨拶してる?」
「…うん」
「向こうもしてくれる?」
「うん」
「だったら、少しずつ話かけて…。様子見ながらさ。大丈夫。あの人、郵便課にいた頃から優しい人だから、ちゃんと分かってくれるよ」
「仕事が辛いとか、他のことで泣くならいいけど、友田さんのことなんかで悩むな」
「…うん」
「局内でも、みんな振り回されてて。でも、今は本当に人が足りなくて、ああいう人でも雇うしかないんだよ。女性だから、キツく言えないのもあるし」
「でも、ああいう人、配達の男の人たちはみんな喜ぶと思う。竹中さんも、友田さんの非常識な行動なんて分からないでしょ?」
「人によるだろうな。喜んでる人もいるけど、安永とか、かなり冷たくしてる。俺も、もう担当外れたし、基本、配達に出る時はみんな一人になるし、あんまり関わってない感じかな。また人が増えれば、状況も変わるだろうから、心配しなくていい」
「うん」
「泣くな。渉流は悪くないんだから」
「…ん…」
涙が溢れて、言葉にならなかった。
竹中に抱き締められるだけで、こんなにも気持ちが落ち着くだなんて、自分でも思ってなかったのだ。
「…友田さんと飲みに行くって、本当?」
そんなこと、本当は聞きたくなかった。それでも、自分の中に仕舞い込んでおく方が辛くて仕方なかった。
「え?」
「友田さんが、今度竹中さんと飲みに行くって言ってたから…」
「ああ。今度、定年退職する人の送別会があるんだ。たぶん、その事だろ?俺はその日夜勤だから行かないけど」
「そっか…」
「何?心配してたの?」
「うん。少しだけ。ごめん、仕事中なのに、長く話してしまって…」
「俺が渉流を裏切るワケないだろ?もっと信用しろよ」
片瀬の顎を持ち、顔を上げさせると、竹中は容赦なく唇をふさいだ。激しく口付けを交わすと、
「早くゆっくり会いたい。渉流といっぱい触れ合いたい」
竹中が、もう一度、片瀬を強く胸に抱く。
「うん。俺も」
「めっちゃ好き」
「うん」
そして、もう一度、唇が重なった。
竹中が配達に戻ったあと、自分の心がとても穏やかになったような気がして、翌日、片瀬は朝一で局長に謝った。
「局長。先日はすみませんでした。局長と気まずいまま仕事をして行くのは嫌なので、僕はもう普通に話したいと思っています」と。
「いや、僕のほうこそ悪かったよ…。もっと違う言い方があったと思うし…。友田さんのことは、僕も非常識な子だと思ってるから、片瀬君の言うこともちゃんと理解してるよ。本当にごめん」
と、局長も謝ってくれたのだった。
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