第4話
そして、週明けの月曜日の夕方のことだった。
竹中から、仕事終わりの片瀬へと電話がかかってきた。
「健康診断ですか?」
「そう。明日、職場の健康診断に来るだろ?何時頃にこっちの本局に来る予定なのかな、と思って」
「局長からは、十時頃にって言われてますけど」
「あ、じゃあ、俺もその時間に合わせることにする」
「そんなこと、可能なんですか?」
「可能にするんだよ。じゃあ、明日…」
そして、電話が切れた。
翌日の健康診断、当日のことだった。一緒に検診を受けようと、片瀬の姿を探していた竹中は、片瀬が梶尾課長代理に手を引かれて、どこかへ連れて行かれる姿を目にし、慌てて後を追いかけた。
「何ですか?」
屋上へと向かう階段の踊り場から、片瀬の声が聞こえて、思わず身を隠した。
「納得いく理由を聞かせて欲しい。急に別れると一方的に言われても、俺は承知した覚えもないのに、携帯の番号も替えて、一体どういうつもりだ?」
「そっちこそ、俺と付き合ってる間に、奥さんが妊娠したじゃないですか」
「不倫と理解してて、付き合っていたんだろう?」
「違います。俺は、梶尾さんが奥さんとうまくいってなくて離婚するって言ってたから。一緒に住もうって言ってくれたから、心も体も許したんです」
真実を知った竹中は、足元から崩れてしまいそうだった。
「もう一度やり直したいんだ」
「無理です。もうすぐお子さんも産まれるんでしょ?それに、これ以上、奥さんのことも傷付けたくありません」
「渉流。俺はまだ渉流のことが好きなんだ」
片瀬の腰を引き寄せて、梶尾は片瀬の顎に手をかけると、自分の唇を片瀬の唇へと寄せて行く。
ダン、ダン、と、わざと大きな音を立てて階段を上り、竹中が二人の前に立ちはだかった。
「そういうことだったんですか…。俺、全然知らなくて…」
「竹中さん!」
「何も知らず、告白までして、一人で浮かれて、すげぇバカみてぇ…」
竹中は静かに呟くと、ゆっくりと歩き出し、力ない足取りで階段を降りて行った。
「待って下さい」
竹中を追いかけようとする片瀬の腕を梶尾が勢い良く握る。
「渉流!」
「離して下さい!もう梶尾さんとは、よりを戻す気はありませんから!」
そう言うと、片瀬は梶尾の腕を思いっ切り振り払って、急いで竹中の後を追った。
「竹中さん」
階段を降りて行く竹中に追い付いて、腕を引く。片瀬は、その竹中の顔を見て、ひどく驚いた。
頬をいくつも伝う涙。唇をきつく噛み締めていた。
「かっこ悪いな、俺…」
そう言って、制服の袖口で涙を拭う。
片瀬は、ブンブンと激しく首を横に振った。
「…悪い。一人にして」
スルリと腕を抜くと、竹中は、長く続く局社の廊下を一人で歩き出した。片瀬は、そんな竹中に何も声を掛けられなかった。
そこに、不意にポン、と肩を叩かれて振り向くと、安永が立っていた。
「どうしたの?こんなところで。健康診断、もう終わったの?」
片瀬は思わず安永の腕にしがみついた。
「安永さん…。どうしよう…」
「どうした?」
「梶尾さんとの会話、竹中さんに聞かれて…」
「バレたのか?」
片瀬がコクン、と頷く。
「竹中は?」
「一人にしてって言って…」
「…大丈夫。心配ないよ」
「泣いてたんです」
「え?」
「竹中さん、泣いてたんです。でも、俺、竹中さんと付き合ってるわけじゃないし、弁解するのも変だと思って、何も声を掛けられなかったんです」
あの竹中が泣くなんて、マジで渉流君に惚れ込んでるんだな…と、安永は心の中で呑気に感心していたのだった。
竹中の携帯に着信音が鳴り響く。安永からだった。
「はい」
「どこにいるんだよ?こっちはお前の配達の分まで回ってきてるんだぞ」
「安永…。お前は知ってたのか?片瀬さんと、課長代理のこと」
「はあ?何だよ、仕事中に」
「いいから答えろよ!」
「…付き合ってる時のことは知らない。別れたあとに、翔汰と渉流君から、一緒に飲みに行った時に聞いた」
「何で教えてくれなかった?」
「何で、って、渉流君の過去の恋愛のことをいちいちお前に言うのか?その方が変だろ」
安永が、小さくため息を吐いた。
「…悪い。頭の整理がうまく出来てない。許せないんだ。あいつが片瀬さんのこと抱いてたかと思うと、すげぇムカついて。今日だって、俺が出て行かなかったら、あの二人、絶対にキスしてた…。俺、正直、ここまで片瀬さんに本気になってると思ってなかった」
話す竹中の声は、今にも泣き出しそうで、震えていた。
「お前にだって過去はあるだろ?しかも、まともな過去じゃない。それを責められたらどうするつもりなんだ?とにかく、早く戻ってこい」
そして、プツリと電話が切れた。
竹中が重い足取りで業務場所に戻ると、梶尾と安永が午後からの配達の段取りをしていた。
梶尾が竹中に気付き、近寄る。
「お前が渉流のことを好きだったなんて知らなかったよ。渉流は表面はクールで澄ましてるけど、ベッドの中ではかなり乱れるんだ。肌は白いくせに、後ろの大事なところは綺麗なピンクで、俺をくわえ込んだら、キツく締め付けてなかなか離してくれないんだぞ?」
竹中は、梶尾の胸ぐらを両手で掴むと、そのまま勢い良くロッカーへと梶尾の背中を叩き付けた。
ガシャン!!と激しい音が局内に響き渡る。
「竹中!やめとけ!」
安永がすぐさま止めに入る。そして、竹中の耳元で
「こんなことで将来を無駄にするな。手を出したらクビだぞ?何よりも、渉流君が傷付く。落ち着け」
キツい口調でたしなめる。
竹中は、胸ぐらを掴んでいた手を素早く離すと、その手で横の壁を思いっきり殴った。
「…人として、今の大人げない発言はどうかと思いますよ。梶尾課長代理」
そう言い残して、その場を去った。辺りは、しばらく静まり返り、騒然としていたのだった。
「もう、すごかったんスよ。竹中さんが課長代理の胸ぐら掴んじゃって。あれ、安永さんが止めに入らなかったら、マジでヤバかったっスよ」
山庄郵便局へたまに集荷に来る、若いアルバイトの子が、興奮気味に話す。
「へぇ…。で、ケンカの原因は何だったの?」
局長が尋ねる。
「さぁ…。そこには安永さんしかいなかったし、聞いても詳しく教えてくれなくて。何か、仕事のことで揉めたって言ってましたけど。しかも、竹中さん、三週間お休みするんですよ?この年末の忙しい時期に」
「え?謹慎?」
「ケガしたんですよ。壁を殴った時に右手の甲にヒビが入ったとかでギプスすることになって。バイクも乗れないし、運転も出来ないんで」
「うわーっ。ツイてないねぇ。まあ、若いうちはいろいろあっていいのかもね。僕も昔はよく上司と揉めたなぁ」
局長が呑気に昔を懐かしむ横で、片瀬は表情を強張らせていた。そこに局の電話が鳴った。片瀬が出ると、安永からだった。
「あ、渉流君?安永だけど。竹中がちょっとケガしちゃって。悪いんだけど、仕事終わってから広長整形外科に寄って、竹中のこと迎えに行ってくれないかな?俺が行こうと思ってたんだけど、あいつの配達分の郵便が回ってきて、残業になりそうなんだ。他に頼める人もいなくて」
「分かりました。大丈夫です。行きます」
「ごめんな。よろしく。竹中にも、渉流君が行くこと伝えておくから」
そして、電話が切れた。
仕事が終わり、片瀬はすぐに病院に駆けつけた。そこで椅子に腰かけて俯いている竹中を見つけ、静かに近寄った。
「大丈夫ですか?」
ギプスが痛々しい。
「全治三週間だって」
竹中が、弱々しい笑顔を見せる。
「何があったんですか?」
「別に、大したことじゃないから…」
「集荷の人から聞きました。梶尾さんの胸ぐらを掴んだって。安永さんが止めに入らなかったら、ヤバかったって…」
「俺が寛容じゃなかったんだ。課長代理が片瀬さんのこといろいろ言うから、ついカッとなって…」
「いろいろって…?」
「まあ、いいじゃん。会計済んでるし、もう行こう。悪いけど、アパートまで送ってくれる?安永に連れてきてもらったから、車ないし。ま、この手じゃ、運転も出来ないんだけど」
「教えてくれないなら、直接、梶尾さんに聞きに行きます」
片瀬のキツい言い方に、竹中は一瞬、表情を曇らせた。そして、重い口を開く。
「片瀬さんのベッドの中での様子をいろいろ聞かされたんだよ。だから、つい頭にきて…。やっぱ、好きな奴のそういう話、聞きたくないじゃん。俺、片瀬さんのことに関しては、感情が抑えられないっつーか。二人が付き合ってたって知っただけでも、ショックだったのにさ…」
そこまで言うと、竹中がキュッと唇を硬く閉じた。
「ごめんなさい」
片瀬が、竹中のあまりにもの辛そうな表情を見て、思わず謝った。
「片瀬さんは何も悪くないよ…」
「そんな程度の低い人と付き合ってた自分が情けなくなります」
「いいじゃん。向こうも俺を挑発したいくらい、片瀬さんのこと好きだったってことだろ?」
悲しそうな笑顔だった。本当は言いたいことがたくさんあるはずなのに、それを抑えて必死に耐えているように見えて、片瀬の心が少し痛んだ。
「本当に大丈夫ですか?」
竹中をアパートまで送ってきた片瀬が、心配そうに声を掛ける。
「何とかなるだろ」
「右手だし、食事とかお風呂とか、何かと都合悪いんじゃないんですか?ご実家の方も、飲食店経営してて、お昼も夜も来られないんですよね?」
「何かあったら安永に連絡して来てもらうよ」
竹中が言うと、片瀬がしばらく考え込むように黙る。
「あの…」
「ん…?」
「俺、しばらく来ます。やっぱり少しは責任あるし…」
「いいよ。無理しなくて」
「してません。俺が来ると迷惑ですか?」
「そんなこと…」あるわけがない。竹中が心の中で呟く。
「じゃあ、一回家に帰って、準備したらまた来ます」
それから片瀬は、仕事が終わってから毎日竹中のアパートに寄り、夕飯作りのついでに、翌日の朝食と昼食の準備をし、何とか片手で頭と体は洗えたものの、お風呂上がりにドライヤーを使えない竹中の髪を乾かしてくれたりもした。洗濯や掃除など、献身的に竹中の世話をしてくれたのだった。
ある日、早く研修が終わり、買い物をして竹中のアパートに着いた時のことだった。片瀬は、もらっていた合鍵で鍵を開け、玄関のドアを開くと、珍しく室内が暗く、そして奥の部屋から男女のクスクス笑う声が聞こえてきた。
「もう帰れよ」
「やだ。もう一回してから。久しぶりのH、気持ち良かったんだもん」
「ダメだって。もうすぐお客さん来るから。ほら、早く服着ろよ」
「意地悪。私とお客さん、どっちが大切なの?」
「仕方ないだろ。また今度誘うから…。この部屋、片付けなきゃだし。早く帰れって」
片瀬は耳を疑った。まさか、いくら付き合っていないとはいえ、自分を好きだと言ってくれた竹中が、女を連れ込んでいるとは思わなかったのだ。ましてや、自分が竹中の世話をしている最中に…。
「バカみたい…」
買ってきた夕飯の食材を下駄箱の棚の上に置いて、玄関を出ようとした片瀬の前に、
「渉流?どうした?今日は早いんだな。今、歩いてレンタル屋に行ってきたとこ」
竹中が嬉しそうに笑顔を見せる。
「竹中さん?」
片瀬が、しばらくジッと竹中を見る。
「ん?何…?」
竹中が、照れたように、少し目を背ける。
「中にいたのかと。声がしたから…」
「あ、弟が彼女を連れて遊びに来てて。帰れって言っといたんだけど、まだいた?」
片瀬は、部屋に入ろうとする竹中のダウンジャケットを引っ張った。
「どうした?」
竹中が振り返る。
「良かった…」
片瀬が小さな声で呟いた。
「何が?」
「いえ。何でもないです」
片瀬は、ダウンジャケットからすぐに手を離した。
「おい!お前らもう帰れよ!お客さんが来るって言ってあっただろうが!」
竹中が叫ぶと、
「ヤバっ!早く服着ろって!」
ドタバタと物音がして、慌てて男女二人が別部屋から出てきた。
「ごめん、兄貴。また!」
「お邪魔しましたー」
二人は、そそくさとアパートを出て行った。
「あいつら、また…。ごめん。びっくりしたよな。ここではそういうことするな、って言ってあるんだけど…その…」
「最初、竹中さんが女を連れ込んでるのかと思いました。声も似てたし…」
「え?マジで?うわー。信用ないんだな、俺…」
ブツブツ言いながら、借りてきたDVDを棚に置く。
片瀬がクスクスと笑う。
「明日の土曜、ギプスが取れたら、俺、もう来なくていいですよね」
「え?…ああ」
竹中が大きく息を吐く。課長代理との過去を知って、挑発されて、ケガまでして落ち込んでいたところに、渉流が仕事帰りに毎日寄ってくれることになって…。平日だけじゃなく、土日も一緒にいてくれて、下の名前で呼ぶこともできるようになって…。悪いことばかりじゃないと、本当に幸せな時間を過ごせていた竹中は、ショックのあまり、肩を落とした。
「月曜日から、仕事も復帰するんですよね?回復が予定より一週間以上も早くて良かったですね」
片瀬が夕飯の準備をしながら嬉しそうに話かける。
「これからも来てほしいって言ったらどうする?」
竹中が、低い声で呟いた。
「え?すみません。水の音で良く聞こえなくて…」
「ギプスが取れても、これからも来てほしいって言ったら、迷惑?」
片瀬が、キュッと水道の蛇口をひねり、水を止める。
「好きだから、これからもこうやって渉流と過ごしたいって思うのは、俺だけ…?」
竹中が、俯く。
「忘れてました」
「何が?」
顔を上げて、片瀬の整った顔を見る。
「竹中さんが、俺のことを好きだっていうことを…です。こういうことしちゃいけなかったんだ、って、今気付きました」
「俺が誤解するから、ってこと?せめて勘違いくらいさせてくれよ。渉流が来てくれてた一週間とちょっと、本当に幸せだったんだ」
「すみませんけど、もうここには来られません」
片瀬の口から、竹中を打ちのめすような残酷な言葉が出た。
「…分かった。ごめん。今の忘れてくれていいから。俺、あっちの部屋片付けてくるから、準備できたら呼んで」
胸が苦しくて、喉の奥が苦い。結局、渉流は、本当にただ責任を感じて俺の世話をしてくれていただけだったんだということが、身に沁みて分かったから…。
それから、片瀬から竹中に何の音沙汰もなく、年も越し、二ヶ月が過ぎた頃だった。会いたいと強く願うのに、ハッキリ振られてしまった以上、自分から連絡する気にもなれなかった。それでも竹中は、毎日毎日片瀬のことを考えていた。苦しくて切なくて胸が痛い。失恋て、こんなにも辛いものなんだと思い知らされる。
その日も、肩を落としながら歩いていると、アパートの玄関の前で待っている人影があった。
「あ…。良かった」
竹中に気付いて声を掛けてきたのは、片瀬だった。竹中はものすごく驚いて、急いで走り寄った。
「渉流?どうした?寒いだろ?中に入れよ」
「いえ。今からお客さんのところに行かなきゃいけなくて。本当は前もって連絡しようと思ってたんですけど、今日に限って、休憩も入れないくらい窓口が忙しくて」
「そっか…」
「今日、竹中さんが携帯を見てはため息を吐いてたって、夕方の集荷に来た時に安永さんが言ってました。誰かからの連絡を待ってたんですか?」
「…分かってて聞くなよ。もう振られてんのに、未練がましいとか思ってる?」
竹中の言葉に、片瀬がフワリと微笑む。
「これ」
片瀬が、小さな紙袋を差し出す。
「え?」
「今日、バレンタインデーなんで、チョコレートです。いろいろ迷惑かけたし…」
「あ、ありがとう。マジで嬉しい。迷惑かけてたの、俺の方なのに。ありがとな」
竹中は、その紙袋を両手で丁寧に受け取った。
「じゃあ…」
と、片瀬は踵を返す。そして竹中の方を振り返ると、
「それ、一応、本命チョコなんで」
と言って、足早にその場を去ったのだった。
竹中は、まるで夢の中にいるような気分になり、寒空の中、しばらくそこに呆然と立ち尽くしていたのだった。
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