第5話

「起きろ」

「んん……」

 その声に、雨月は目覚めて眠い目をこすった。

 雨月と香を見下ろすように、兵を従えた王の使者が立っていた。

 開け放たれた障子の向こうに見える外は、真っ暗。

「……今、何時だと思ってるのよぉ……」

 起床直後だからか、香は素の声で呟く。

「身を清めるのですか」

「そうだ」

 雨月が尋ねると、使者はうなずく。

 精進料理で体を内より清めた後は、やはり体の外側だろうということはすぐに予想がついた。

「……それよりお腹が空いたんだけど」

「夕餉を食べただろう。服に着替えてついて来い」

 女官が白い衣を雨月たちに渡す。

「一体なんなのよ」

 ぶつくさ文句を言う香を傍目に、雨月はさっさと着替えて廊下に出る。

 まだ日の出前。

 十分、夜と言ってもいい暗さ。そして吹き抜ける風の冷たさに思わず首をすくめてしまう。

 剥き出しになっている腕や首筋、足が今にも凍り付いてしまいそう。

「なにこれぇ!」

 香は一歩廊下に出た途端、身を震わせて部屋の中に引っ込んでしまう。

「何をしている。さっさと来い」

「さ、寒すぎるんです……。せめて日が出てから」

「駄目だ。朝一で行かねばならぬところがある」

 王の使者は顎をしゃくり、部屋に立てこもる香の首根っこを掴み、引きずるように廊下へ引っ張り出す。

 雨月にとってはこれくらいなんでもない。

(まさか実家でいじめられたことで我慢強さを得られるなんて、人生って分からないわね)

 使者と共に向かったのは、井戸。

 兵士が井戸から水を汲み、それを桶へ移していく。

「ま、まさか……」

 香が顔を青ざめさせながら呟く。

「これを頭からかぶれ」

「む、無理です! そんなことしたら死んじゃう……!!」

 香が情けなく嫌がり、抵抗する。

 そんなやかましい声を聞きつつ、雨月は桶を持つと、意を決して頭からかぶった。

「……っ!!」

 体が芯から凍り付いてしまいそうな冷たさに顔をしかめてしまう。

「お前の姉は無事にやったぞ。お前も早くやれ」

 雨月は、兵士から渡された厚手の布で体を包み込む。

「そんな……」

「やらなければ、城より叩き出すほかないな」

 香はぶるぶると小刻みに震えながら桶へ近づく。

 今すぐにでも止めてもらえるのではないのかと期待する眼差しを使者へ向けるが、それは無駄な努力に終わる。

 観念した香は桶を震える手で持ち上げ……。

「こんなのやってられないわよ!!」

 香は兵士に向かって桶の中身をぶちまけたかと思うと、走り出した。

「捕まえろ! まったく……。どうなっているんだ、お前の妹はっ」

 使者が苛立ちを隠さずに言った。

「申し訳ありません」

「とりあえず、お前だけでも来い」

「はい」

 使者に従って向かった先は別の部屋。

 その部屋では二人の女官が、待っていた。

「ここで支度を調えよ。外で待つゆえ、出来たらすぐに呼べ」

 使者と別れた雨月は女官に手を引かれ、鏡の前に座らされた。

 そこでまず、濡れた髪をしっかり乾かすところからはじまる。

 そして服を着替えさせられ、その上で念入りな化粧をほどこされる。

「準備が整いました」

 女官が外で待っていた使者に告げる。

 使者は値踏みするように、しげしげと雨月を眺めるとうなずく。

「いいだろう。こっちだ」

 いつの間にか太陽が昇っていた。

 今日も雲が少なく、良い天気になりそうだ。

 建物を行き来する役人の姿も多くなる。

 彼らは使者と擦れ違うたび深々と頭を下げ、それから雨月に気付き、同僚とひそひそと話をしながら去って行く。

 やがて目の前に、翡翠色の小さな橋が見えてくる。

 その橋の向こうにあるのは、都にきてこれまで見たどんな建物よりも艶やかな装飾と彩色で飾られた御殿。

 そして御殿を守護する兵士たちもこれまで以上に物々しく、背筋が寒くなるような緊張感を帯びていた。

 使者は腰に帯びていた袋から、翡翠色の玉を取り出すとそれを兵士たちへかざす。

 どうやらその玉が、通行証の代わりらしい。

 そんな風に通り抜けた関所が三つはあっただろうか。

 ようやく御殿の奧へ達する。

 雨月は服で何度も手の汗をぬぐわないといけないくらい緊張していた。

 左右に女官が正座で待機する長い通路の先に、閉ざされた分厚い扉。

 使者は、雨月を振り返った。

「これより先で見たものは決して他言してはならぬ。もし他言したことが判明すれば、お前の一族、使用人にいたるまで処刑される。分かったか」

「は、はい」

 雨月は声が上擦りそうになるのをこらえ、うなずく。

 使者が再び前を向き直ると、扉の左右に配置された兵士に合図を出す。

 二人の兵士によって扉が左右に開けられる。

 扉の向こうに広がるのは、十畳ほどの空間。

 御簾がかかり、その向こうに何があるのか分からなかった。

 しかしここまで物々しい警備の先に待っているものが何かなんて、すぐに分かる。

 青龍王をおいて他にない。

「膝をつけ」

「は、はい」

 使者はその場に正座をすると、御簾に向かって深々と頭を下げた。雨月もそれに倣う。

「主上のご様子はいかがです?」

 横柄だった使者がそこではじめて王ではない人に、丁寧な言葉をかける。

 その相手は背中の曲がった、小柄な老女。

 老女は七十くらいだろうか。

 背中の半ばほどまで伸びた白髪を赤い玉のついた髪紐で縛っている。

 老女は小さくかぶりを横に振った。

「新しい者を連れてまいりました」

 老女は目を閉じたまま、うなずきもしない。

 その深い皺の中にある表情、それはあきらめ。

 これまで何人もの治癒術士が連れてこられては、何の成果も出せなかったのだろう。

 今回も失敗すると、老女は思っているのだ。

「……御簾をあげよ」

 老女が告げれば、御簾の左右に控えていた女官が紐をたぐれば、御簾がするすると持ち上がる。

「御簾の向こうへ」

 使者に促された雨月は立ち上がると、ゆっくり御簾の先へ足を踏み入れる。

 小さく息を呑む。

 そこには美しい銀髪の麗人が寝かされていた。

 その顔は引き攣り、歪み、苦しげな呼吸を繰り返している。

「……蒼天、様」

 それは間違いなく、子どもの時に出会った、桜と笑顔のよく似合うあの方だった。

 ――この世界では弱き者が生きづらい。それでは国として不完全だ。私は弱い者こそ、前を向いて、笑顔になれる世界にしたい。

 そんな理想を語っていた、あの方。

「……どのような病なのか、教えてください」

 雨月はそう呟く。

「そんなことをお前が知る必要はない。さっさと自分のするべきことをしろ」

 使者の険しい声に怯みそうになるが、雨月は言う。

「都には大勢の、腕にも血統にも優れた異能遣いがいらっしゃるはずです。ですが、誰も治せなかった。だから田舎まであなたは治癒術士を連れてきたのですよね。一体、陛下はどのような病なのですか。治癒術士が治せぬ病が本当に存在するのですか?」

「無駄口を……」

「――蝕魔、そう呼ばれているもの」

 使者の声を遮り、答えたのは老女。

「古来より王を蝕む病。それを治しえたものは、未だかつていない」

「おばば様……っ」

 使者が声を上げるが、老女は嘆息する。

「白壁。治癒術士を何人連れて来ても無駄ぢゃ。所詮、人ごとき身には治せぬ……」

 雨月は、血の気を失った王の顔を見つめる。

(父上、申し訳ございません。お約束を破ります)

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