第3話
「――……」
雨月はうっすらと目を開ける。
久しぶりに、あの夢を見た。雨月の人生の中でもとても華やいだ時間。
しかし目を開けた時、そこに満開の桜も、父も、蒼天も存在はしない。
あるのは、狭い部屋に閉じ込められた自分だけ。
時間の感覚がない。
今が朝なのか夜なのか。
ここに閉じ込められてどれだけの日数が経過しているのかすら……。
日々、お椀一杯のお粥しか食べていない体は弱っていた。
それでも負けたくない、と雨月は強く思う。
あんな二人に屈してやるものか。
雨月が泣けばあの二人が悦に入るだけ。それだけは絶対にできない。
体を起こし、壁に背中を預ける。
それだけで体力のなくなった体では息が上がる。
と、扉ごしに外の物音が聞こえてきた。
何十人という使用人たちが忙しなく働く屋敷。
物音くらい当たり前のようにするからそれ自体、おかしいことは何もない。
しかしきこえるのは忙しなく行き来する、慌てたような足音。
宮音は忙しない物音を何より嫌うから、どれだけ急の用事を言いつけられても使用人たちは罰を恐れて、決して廊下を駆けるようなことはしない。
しかし今は勝手がちがうらしい。
その時、ガタガタと部屋の扉が揺れると、扉が開けられる。
使用人が苦々しい顔で立っていた。その手には着物を入れたつづら。
「立って」
「何かあったの?」
「いいから、立ちなさいよっ」
「悪いけど、お腹がすいて立ち上がれないわ。誰かに手伝ってもらわないと」
「ったくもう!」
雨月の腕を乱暴に掴もうと使用人が手を伸ばしてくる。
「……乱暴にされたら、叫んでしまうかも」
その瞬間、使用人の顔によぎった焦りを、雨月は見逃さなかった。
(なるほど。来客ね。それも、相手は治癒術を受けに来た人ではない。もっと高貴な方……)
一瞬、さっき見た夢の影響のせいか、蒼天のことが頭をよぎる。
しかしそれはさすがにありえない。
(……高貴な方の使者という可能性もあるわね)
使用人は「もう」と苛立ちつつも、廊下に顔を出して偶然通りかかった別の使用人を呼びつける。
「立ち上がらせるから手伝って」
「こいつ、罰を受けてるんじゃ……」
「知らないわよ。着替えさせないといけないの」
「どうしてよ」
「質問ばっかりねっ。知らないけど、奥様が連れて来なさいと仰るのよ。で、こいつはこいつで、お腹が空いて立てないとかぬかすの」
「そうだ。ついでにご飯もおねがい」
盛大にお腹の音が鳴った。
「あんた、覚えておきなさいよ」
「大丈夫。記憶力は確かだから」
というわけで、食事がもってこられる。握り飯と味噌汁、そしてお水。
ほかほかに温かくて、これまでの食事で最も極上だ。
目の前の使用人を苛立たせるために、ゆっくり味わって食べる。
あとで何をされるか分からないが、それでも使用人に急き立てられ、命令通りに動くことに比べればぜんぜん良い。
「ごちそうさま」
「じゃあ、これに着替えて」
つづらに入っていた着物は外出着。
こんなに美しい着物、数年ぶりだ。
「待って。体が汗で気持ち悪いの。湯浴みは無理でも、体くらい拭かせて。お母様に呼ばれているのでしょう。汚い格好で行けば、逆鱗に触れてしまうかも」
「あんた、いい加減に……」
「私が汚い格好でお客様の前に出るようなことになったら、どのみちあなたが罰を受けることになりかねないのよ?」
「く……」
別の使用人が桶にお湯をため、布と一緒に持参してくる。
体をしっかり拭い、それからようやく着物を着る。
使用人たちが「覚えてなさいよ……!」とにらみつけてくるが、受け流す。
「それで、どこへ行けばいいの?」
「応接の間に行って」
「行って? 待って。この着物は動きにくいのよ。こういう時には使用人が手を引いて優しく先導するのが普通じゃない?」
「あんたねえ……」
使用人が青筋を浮かべる。今にも暴れ出しそうだ。
「私が遅れた理由を、あなたのせいだと言ってもいいのよ。そんなこと、私にさせないで」
雨月はこれみよがしに右手を差し出す。使用人は右手を掴むと、先導していく。
「早すぎる。もう少しゆっくり歩いて」
そして応接の間の前まで連れてこられる。
「失礼いたします、奥方様。雨月お嬢様をお連れいたしました」
雨月は危うく笑い出しそうになるのを、必死でこらえた。
(お嬢様? いつも、あんた呼ばわりのくせに? 相当な御方がいらっしゃっているようね)
「入っていらっしゃい」
(あの女のよそ行きの声、虫唾がはしるくらい気持ち悪いわね……)
襖があけられる。
打ち掛けをひるがえし、雨月がしずしずと部屋に入る。
下座に宮音と香。
そして上座には、二十代と思しき、赤い髪に金色がかった瞳を持つ青年。
深い緋色の上衣に、白い袴をまとう。
上座に座れる人物、それはただ一人、貴族の上に立つ方――王。
しかし目の前の男は王ではない。
ということは、男は王の使者。
「香ったら。座る場所が間違ってるんじゃない? 女当主であるお母様が真ん中なのは当然として、長女が左、次女は右のはず……」
二人が驚いたように、雨月を見つめる。
しかし王の使者の前で、ぼろはだせないだろう。
この後、何が降りかかろうがどうとでもなれという気分だ。
「そ、そうだったわね。香、お姉様に席を譲りなさい」
「お、お母様……」
「使者様の御前よ?」
宮音の声が険しくなる。
香は立ち上がるとしずしずと、宮音の右隣に座る。
「妹が無調法で申し訳ございません。あらためまして、鏡家の長女、雨月と申します。遅れましたのは、少し支度に手間取っておりまして」
「いや、構わん。で、これで全員ということでよろしいかな」
「左様でございます」
宮音がうなずく。
使者はごほんと小さく咳払いをする。
「鏡家の治癒術士たちに命じる。都にのぼれ、とのご沙汰だ」
「それはまたとない栄誉。して、いつ……」
「今よりただちに」
「それは、何故」
「こちらは命令を伝えているにすぎん。それに疑問を差し挟むことは許されていない」
「申し訳ございません!」
宮音は慌ててひれ伏す。
(治癒術士を至急、都へ? ということは王が病に? でも都にはそれこそ一流の治癒術士たちがいるはず)
いくら何でもこんな田舎の治癒術士を呼びつけるのは不可解だった。
「今よりただちに出立する」
「あ、あの……着物など必要なものがございますので、お時間をいただきたいのですが」
香を、使者は冷たい眼差しで睨み付ける。
「ただちに、と言ったはずだ。最低限の服は持参している。旅の間はそれで我慢せよ」
「お、お待ち下さい……」
「何だ?」
呼び止めたのは、宮音だった。
「あの、娘が……長女の雨月が遅れましたのは体調が優れないからでございます……」 雨月が異能を持っていないと思っている、というより、父からそう聞かされている宮音からすれば焦るのは当然。
もし雨月が異能を持っていないことが知れれば家の恥だ。
かといって異能を持たぬ人間――不能者の存在を暴露することも、自尊心の高い宮音にはとてもできないことだろう。
「治癒術士が体調不良? であれば、妹が治せばいい。娘二人を遠い都にやるのは不安があるのだろうが、我々が責任を持って世話をするゆえ、安心せよ」
「あ……は、はぃ……」
宮音が「お前も何か言いなさいよっ」と言わんばかりに雨月をにらみつける。
しかし雨月はわざとそれに気付かぬふりをして、立ち上がった。
「では参りましょう」
※
使者と共に外に出た雨月と香が目の当たりにしたのは、これまでこのあたりでは見ることがなかった大勢の人間。
護衛や荷物持ちなど大勢の人々が門前に、一分の乱れのなく列をなしていた。
好奇心の強い村の人たちが、行列を遠巻きにしている。
「お前たちはあれに」
使者は牛車を指さす。
「い、一台ですか?」
香が恐る恐るという風に尋ねる。
雨月と一緒に乗らなければならないかもしれないのが不快なのだろう。
「当然だ。あれは二人は余裕で乗れる。なにか問題でもあるのか?」
「……いえ」
「だったらさっさと乗れ」
別の人間に案内され、雨月たちは牛車に乗り込んだ。
「……どうして私がこんな女なんかと……」
という香の愚痴は聞き流す。
そして村を出立した。
牛車が動きだすなり、向かい合わせに座っていた香が目をつり上げた。
「どういうつもりよっ。あんたは無能……」
「静かにしなさい」
「なっ!? あんた、誰に向かって……」
「私のことがばれれば、鏡家の威信に傷がつくことが分からない? そうなったら、あなたの母親はなんと言うでしょうね」
「ぐ……」
香は悔しそうな顔で、言葉につまる。しかしすぐにいやらしい笑みを見せた。
「そういうあんたこそ、無能者ってことばれたら、処罰は避けられないわよ」
「……私の心配は私がするから、あなたは自分の心配だけしてなさい」
(言いたいことを好きなだけ言えるのは、やっぱり最高ね)
「家に戻ったら、容赦しないから……」
これまで使用人に好き放題言ったのだ。
こんな家屋敷に戻ることになれば殺されるかもしれない。
(あんな地獄みたいな家に戻る理由なんて何もない)
都には大勢の人間がいる。そこに紛れてしまえば、見つけ出すのは困難だろう。
見ず知らずの世界で暮らすほうが、息の詰まる田舎で虐げられて生きるよりもずっとましだろう。
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