第2話

雨月が家についたのは、日が西の山に沈み、薄暗くなった頃。

 周囲に大きな塀をめぐらせた鏡家の邸宅の周囲には篝火が焚かれ、周囲を明るく照らし出す。

「ご苦労様」

 雨月は笑顔で門番たちに話しかけるが、彼らはちらっと雨月を一瞥するだけで、すぐに視線を元に戻してしまう。その間、一言も発さない。

 しかしそんなことはいつものこと。

 雨月は別段気にすることもなく、敷地に入った。

 そしていつものように台所へ行く。

 くつくつと煮えた汁物や魚の香ばしい香りが満ちている。

 お腹がぐぅ、と鳴った。

「ちょっとあんた! 何してるんだよ! まさか、奥様とお嬢様の夕食を盗もうとしてるんじゃないでしょうねっ!」

 怒声が聞こえ、雨月はそちらを見る。

 そこにいたのは、この家の使用人。顔に覚えがないから、最近来たばかりなのだろう。「足を洗いたいから、たらいを借りようと思って」

「あっそ。じゃあ、ちゃんと綺麗にしておきなさいよねっ」

 邪魔くさそうに言うと使用人はさっさと奧へ引っ込んだ。

(まだ父が生きていた頃の屋敷とはまったく別物ね……)

 あの頃の使用人たちはことごとく追放され、今はまるで他人の家だ。

 たらいを抱えて、井戸へ。そこで井戸水を溜める。

 一日歩き通しで、さらに井戸水を汲むのは骨が折れるが、文句を言ってはいられない。

 たらいで足をしっかり洗い、手ぬぐいでしっかり拭く。

 それからたらいを洗って台所へ戻すと、雨月は母屋に入り、自分の部屋へ向かう。

 と、目の前に見馴れた艶やかな着物をまとった少女が、まるで雨月を待ち構えていたように目の前に現れた。

 誰もが振り返るような可憐な少女。

 艶やかな黒髪に、黒目がちな瞳、鼻は小さく、唇にはうっすらと紅を差す。

 雨月の、八歳下の異母妹の香である。

 しかしその見た目と中身が合っていないことは、誰より雨月がよく分かっている。

 香りは、雨月からすれば陰険で、狡賢い狐とでも呼べばいいだろうか。

 香がわざわざ待ち受けていたということは、先程、台所で鉢合わせた使用人が知らせたのだろう。

「香、悪いけど、あなたに付き合う体力はないの。今日はくたくたなの。話なら明日にして……」

「あんた、貧乏人を助けてきたわけ?」

「……あなたには関係ない」

「はあ? 誰に向かって口を聞いてるの。恥さらしの分際で。この家に生まれながら、治癒術一つ使えないなんてねっ!」

 雨月は内心でため息をつく。

 本当にこの家にいるとため息が尽きなくて困ってしまう。

「それでも私は、私にできることをしたいの」

「偽善者ぶっちゃって。ほんっと不快な女ねっ」

「偽善でも何でもいい。あなたには関係ないでしょう。やっているのは私だけ。あなたに迷惑はかけてない」

 香と関わるのは時間の無駄だ。

 雨月はさっさとこの場から立ち去ろうと歩き出す。しかし擦れ違おうとした瞬間、腕を乱暴に掴まれてしまう。

 雨月は痛みに顔をしかめた。

「お母様が言ってたわ。あんたが無能なのは、あんたの母親がアバズレで別の男との子ども――」

「私だけじゃ飽き足らず、お母様のことまで侮辱するつもり……!?」

 母のことを言われ我慢できなくなって掴みかかる。しかしそれを待っていたかのように角から使用人が二人飛び出して来た。

「無様ね」

 香は薬箱を蹴る。

 棚が空いて、薬草や道具が床にぶちまけられる。

「うわ、なにこれ。この山菜、萎れてる。まさかこんなもの食べようっていうの? それとも私たちの食事にでも入れて腹をこわさせようっていう魂胆?」

 香は鼻で笑い、山菜を繰り返し踏みつけた。

 それを見ていた使用人たちがゲラゲラと笑う。

 同じ父親を持っていることが信じられないほどの暗い表情に、鳥肌が立ってしまう。

「――何を騒いでるの」

「あ、お母様っ」

 香が薄気味の悪い猫撫で声を出す。

 やってきたのは、父亡き今、鏡家の全てを取り仕切っている雨月の義母、宮音。

 雨月が十歳の頃、宮音は父のもとに嫁いだ。

 彼女は結婚当初は雨月にも優しく接してくれていた。雨月もそんな宮音になついていた。

 しかし雨月が十六歳の時に父が亡くなってから、豹変した。

 雨月から部屋を取り上げ、まるで使用人同然の暮らしをさせた。

 それに抗議をした昔から鏡家に使えている使用人たちをことごとく追い出し、雨月を孤立させたのだ。

 どんな失敗をしても香ならば許し、些細なことで雨月をなじり、いたぶった。

「お姉様がまた勝手に貧乏人どもの治療をしたみたいなの! 我が家の恥さらしを注意するのは、当然のことでしょっ!」

 宮音が汚らしいものでも見るように、じろりと一瞥する。

「まったく。今のあなたを長柄様が見たらなんて言うでしょうね。情けないっ。あなたたち、この子を部屋へ連れて行きなさい」

「お母様、許すつもり?」

「安心なさい、香。出来の悪い子にはしっかり罰を与えないとねえ」

「あは!」

 香が嬉しそうに微笑む。

「な、なにをするつもりなのっ!?」

「貧乏人どもと関わるなとあれほどきつく言って分からないのなら、体に教え込むしかないでしょう」

「や、やめてっ! 離しなさいよ……!」

 抵抗するが、ただでさえ食事もまともにあたえられていない生活を送っている雨月は抗えない。

 そのまま使用人たちに引きずられ、部屋代わりの物置へ薬箱もろとも放り投げられる。

「反省するまで部屋から出さないから。安心なさい。食事はあげる。死なない程度に、ね」「お母様、それ、最高の罰よ。思い知りなさいよ、無能っ!」

「いやっ。ど、どうしてそんなこと……!」

 雨月は扉に手をのばすが、寸前で閉められてしまう。

 そしてつっかえ棒でもされてしまったのだろう。扉を開けようとしてもびくともしなかった。

「お願い、開けて! 誰か! 聞こえてるんでしょ! お母様、申し訳ございません! 反省しますから! だから閉じ込めるのはやめてください……!!」

 しかしどれだけ声を上げても、帰ってくるのは香たちの浅ましい笑い声だけ。

(お父様、お母様……どうして、私を置いていってしまったのですか……)

 扉にすがりついたまま、雨月は泣き崩れた。



 風に散った桜吹雪の無効で、美しい立ち姿のあの人を見た時、当時十二歳の雨月の胸は高鳴った。

 それは目の覚めるような美しい人だった。

 抜けるように色白の肌、青みがかった灰色の瞳に通った鼻梁、薄い唇。頬から顎にかけて描かれる美しい曲線。

 なにより、雨月が目を奪われたのは、絹のように美しい翡翠色の髪。

 それが腰まで伸ばされていた。

 父がうやうやしく頭を下げ、「殿下」とその人に呼びかける。

 澄みきった眼差しが、雨月を優しく見つめる。

「その子は?」

「娘でございます」

「鏡、雨月と申します……」

 雨月は深々と頭を下げた。

「私は皇太子の蒼天だ」

「皇太子……蒼天、様……」

 この人が、と雨月は呆然として眺める。

 それは父から何度も教えられてきた。

 こんな田舎ではない、山を越えた向こうには都というこの国の中心があり、そこには青龍様というとても立派な御方がいらっしゃる、と。

「こら、しっかり殿下と言わないか」

「で、殿下……」

「申し訳ございません。田舎者の無調法で……」

「構わぬ。それにしても見事な桜だ。物見遊山の途中に見かけてな、つい間近でみたくなったのだ。雨月」

「は、はい」

「お前はこの桜が好きか?」

「大好きでございます、殿下」

「蒼天で構わない。殿下と呼ばれると肩がこってしまう」

 蒼天は柔らかく微笑んだ。笑うと、ますます魅力的になって、雨月は目を離せなくなってしまう。

 雨月はちらっと父を見る。父がうなずいてくれるのを確認し、「蒼天様」と言い直した。

 父の視線を背中に強く感じるたび、雨月は後ろを気にしてしまう。

「おい、長柄。お前は家の中へ引っ込め。私は雨月と話したい。お前がいては雨月が自由に話せないらしい」

「し、しかし……」

「皇太子の命に逆らうのか?」

 蒼天は冗談めかして言う。

 父は「とんでもございません!」とひれ伏し、何度も繰り返し繰り返し雨月を心配するようにちらちらと見ながらも、下がっていった。

「さあ、食べろ」

 蒼天は自分に出されたお茶菓子を差し出す。

「ですが」

「気にしていただろう。遠慮するな」

「……い、いただきます」

 雨月はおまんじゅうを頬張った。

 蒼天は目を細めて微笑み、同じようにまんじゅうを食べる。

「これはうまいな」

「はい、皮にはヨモギを、それから餡には落花生を細かくくだいたものを混ぜております」

「お前が作ったのか?」

「ばあやが作ってくれました。私はそのお手伝いを……」

「そうか。ここはのどかだな。都とは大違いだ」

「都とはどういう場所ですか?」

「どういう……? そうだな。にぎやかだな。この村の何十倍も大勢の人々が暮らしている」

「それは……想像もできません」

「確かにな。一度、都へ来い。案内をしてやろう」

「本当ですか!」

「ああ。だが都はにぎやかだが悪いことを考える人間も多いから、来る時には気を付けろ。はは、すまない。怖がらせるつもりじゃないんだ。……本当に色んな人間がいる」

 蒼天は何かを考えるように物憂げに呟くと、手の平に偶然落ちた桜の花びらを優しい眼差しで見つめる。

「そういえば鏡家はたしか治癒術士の家系だったな。お前ももうどれくらいの人を癒やしたのだ?」

「わ、私はまだ見習いの身なので……」

「そうか。だが誰もが治癒術士の治療を受けられないんだったな」

「そ、そうです。お金が必要なので」

「それが悪い訳ではないんだ。力を使いすぎれば術者が消耗してしまうからな。だが、私は、そんなこの世界の当然と思われていることを変えたいのだ。この世界では弱き者が生きづらい。それでは国として不完全だ。私は弱い者こそ、前を向いて、笑顔になれる世界にしたい。私が王になったあかつきには――っと、すまない。難しい話をしてしまったな。こんな話、するつもりなどなかったのにな」

 蒼天が頭を撫でてくれる。

 その手つきが優しく、嬉しさに頬が火照ってしまう。

「いえ、蒼天様のお考えは素晴らしいと思います! 弱い人たちが元気に生きられる世界……見てみたいですっ!」

「そうか、では、頑張るとしよう」

 蒼天は優しく微笑んだ。

 この時の経験が今も雨月の中に息づいていた。

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