柔らかい彼女の

 傘下の村での惨劇から数日が経ち、村を渦巻いていた不安や心配、困惑は聖女オリビアの献身によって次第に消えていた。夜中に悪夢で目覚めることはあれど、ヴィクターとオットーも表面上の健康を取り戻し、日常を過ごすようになった。


 珍しく早朝から剣を振るヴィクターを見つけると、レオンが駆け寄り隣で剣を振り出した。


「もう大丈夫なのか?」


「体はこのように万全だよ。心の方は時間に任せるしかないかな」


 前世で死体を見るような生活をしていたわけでもなく、むしろ安全が担保されている日本で生活していたのだ。平気なふりをしていても、フィクションが現実として襲い掛ったことによる潜在的なダメージは深刻だった。


「オリビアさんにゆっくり癒して貰うことだな」


「今回ばかりはレオンの企みに乗ってやるよ」


「おっ、遂にやる気になったか」


「残念ながら、想像しているようなことじゃない。ほら教会って心の傷のケアしたりするだろ」


「そう言いながら実は、なんてな。ヴィクターにそんな度胸はないか」


「よくわかってるな。それじゃあ、そろそろオリビアが来る時間だから」


「汗臭いと抱き合った時臭うぞ」


 ヴィクターは頬に伝う汗を拭い、水浴び場へ向かう。レオンの冗談とは異なり、抱き合うつもりなど微塵もなかったが、汗臭い状態で彼女に会うことを嫌った故の行動だった。冷ややかな水を頭から浴び、汗の溜まる部分を重点的に、いつもよりも丁寧に洗い上げ、オリビアが村で使っている家の前で待つ。


 少しして現れたオリビアは、ヴィクターが家の前に居る状況にはてなを浮かべた直後、数日前のことを思い出し、慌てて手を引いて家の中へと入れた。


 王都中央協会大司教の娘にして聖女でありながら、十九の村をまとめる人間の部屋にしては質素なものだった。輝くものは部屋の端に置かれている小さな姿見だけで、家具類も必要最低限と呼べる程度、むしろ客人をもてなすことを考えると不足していた。


「何かあったの?」


「オリビアに癒して貰おうと思って」


「ひゃい?」


 深刻な話を身構えていたところに、普段の様子からは想像もできない言葉が飛び出したことで、年頃の少女は驚きのあまり変な声を出した。


「癒すって?」


「体の方は元気になったんだけど、やっぱりまだ心の方が変な気がして。教会でそういう人の対処もするって聞いたから」


「た、確かに教会で心的外傷を受けた人に治療することは多いね。私も一通り習ったから、それをしたらいいかな」


 乙女な妄想捗る今日この頃お年頃。オリビアはもう少しばかりピンクな想像を頭の中で広げていたせいで、恥ずかしさから早口になった。最近王都ではやっている恋愛小説の影響か、ポンコツを晒してしまったオリビアだが、その実力は本物で、救いを求める人に差し伸べることに私情を挟むことはなかった。


「私も一度盗賊に襲われた村を見たことがある。支援を始めて少しした時にこの村が襲われたの。何人も知っている人が死んだ。戦いの中で盗賊は一人残らず殺された。だからヴィクターの苦しみはよくわかる」


「よく立ち直れたね」


「実は全然立ち直ってないんだ」


 さらっと言ってみせたオリビアの瞳は遠く悲しみを見ていた。


「立ち直るなんて無理だと私は思う。だって生きていけたはずの人が死んだんだよ。ずっと心に残って当然。むしろ残らないといけないの」


「どうしてそう思うの?」


「だって、誰かが覚えておいてあげないとかわいそうじゃない。それに、人の死を簡単に受け入れれるようになるって、悲しいことだと思う」


 どこかのだれかは言った。人は忘れられて初めて死ぬと。オリビアの言葉は忘れなければいけない、早く治らないと、と焦る気持ちをすっかり拭い去った。


 目の前の少女が手を広げたことに、ヴィクターは疑問符を浮かべ、混乱する。家族や恋仲であれば、それが意味することは一つだったが、どちらでもなかったからだ。


「おいで」


 少女の一言は惑い迷い、自らの行く末すらわからなくなっていた少年の耳に、スーッと入っていった。


 上半身を覆うやさしさに心を任せ、ヴィクターはこの世界に来てから始めて涙を流した。ヴィクターが零す言葉をオリビアはすべて頷き受け入れた。


「お疲れ様。ここでは休んでいいからね」


 頭をなでる柔らかでしっかりとした手にヴィクターは意識を手放した。


「おやすみ」





 ヴィクターが目を覚ましたのは、夕方になってからだった。


「知らない天井に、オリビア?」


 鮮明ではないヴィクターの脳が認識したのは、初めて眺める天井と視界に映るオリビアの優しい笑みだった。脳が視覚情報からある一つの可能性を導き出した瞬間。意識は一気に覚醒し、とてつもない反応速度で起き上がった。


「ちょっとまって、オリビア。もしかして」


「頭をなでてたら寝ちゃったから、膝枕してたんだ」


 数日ぶりに悪夢を見ることなく熟睡できた理由がわかると同時に、とてつもない羞恥心がヴィクターを襲った。冗談で憧れの膝枕と言うことはあっても、オリビアにされたとなると話は違った。


「フフ。慌ててる。気持ちよかったでしょ」


「いや、まあ、うん」


「もう一回してあげようか?」


「ありがたいけど、ありがとう」


 動揺を隠せず、意味のわからない回答をする様子をオリビアは、ニコニコと楽しそうに見つめる。いつも自分の前にいる男の子が、あの一時だけは無防備な姿で寝息を立てていたことが、たまらなく嬉しかった。


「ヴィクター。調子はどう?」


「いい枕で寝れたみたいで、元気いっぱいです」


「もう。いい加減いつもに戻ってきてよ。話して、全部さらけ出して、一眠りして楽になった?」


「うん。おかげさまで、すっきりできたよ。何も解決してないからこれから考えないとだけど」


「今はそれでいいじゃない。どうしようもなくなったら、また私に話して。膝枕してあげる」


「その時はお願いする」


「それじゃあ。私は帰るね。おやすみっ」


「おやすみ。また明日」


 軽い足取りで村の入り口で待つ馬車に向かう少女を眺めながら、ヴィクターは感謝と不甲斐なさが混ざった思いを口にする。


「また救われちゃったな」


 その日の晩。眠れないヴィクターはベッドの上で思案にふける。


(まだ覚えてる。絶対に忘れない。もし僕が残っていたら、ベルネットで同じことが起こったかもと思うと、この選択もよかったのかな。だけど逃げることを選んだだけだし、正しい行いではないと思う。ならせめて、オリビアが救った価値があると思えることをしたいな。これ以上逃げなくてもいいように、強い力と心を持ちたい)


 後悔に囚われていた少年は、聖女の手によって自らで自らを縛っていた鎖を解かれて、初めて本当に前を向いた。そう簡単に答えが出る問題ではない。一生をかけて見つかるかどうかだ。だけど、ヴィクターは探すだろう。胸に彼女の言葉が残る限り。


 それは呪いでも祝福でもある。

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