6

 椎名が辿り着いたのは村の中でも一際大きな家の前。表札には妹島の文字があった。椎名は走ったことで乱れた息を整えると、玄関の扉に手をかけた。鍵のかかっていないその扉をゆっくりと開けると、酷く不快な臭いが鼻を突く。椎名は靴も脱がないまま、妹島家の中へと足を踏み入れた。

「雪ちゃん、早く逃げよう!」

 家の奥から青年の声が聞こえた。どうやら不快な臭いの元も家の奥にあるらしく、椎名が奥へと進むごとにその臭いは強さを増していった。そしてその方向からドタドタと慌ただしい足音が聞こえてきた。椎名はその足音を待ち構えるように廊下の真ん中で立ち止まる。

「雪ちゃん早く!」

「やあ、こんにちは。いや、もうこんばんはの時間かな」

 曲がり角から現れたのは少女の手を引く青年だった。少女の服はところどころはだけており、上からサイズの合っていないパーカーを羽織らされている。

「お前『封人会』の! なんで!?」

 青年は椎名を見るとそう叫んだ。

「くっ、雪ちゃんこっち!」

 青年は少女の手を引き曲がり角を引き返していく。

「ああ、おにぎりは彼の仕業か」

 なんで。その一言で椎名の疑問の一つが解消された。彼が『封人会』を知っているのはまだいい。封印の関係者と言うことで説明がつく。しかし『封人会』の人間を見て驚く理由にはならない。ならなぜ驚いたのか。それはこの場に来るはずのない人物だからだ。彼の想定では河合も椎名もまだ寝ているはずだったのだろう。

「こっちに居ないとなると河合君の方か……」

 椎名は呟きながら青年の後を歩いて追う。ドタドタと急ぐ足音が、ある部屋で止まる。椎名は一つ呼吸を置いてその部屋へ向かった。

「来るな!」

 椎名が部屋の入口に立つと、中に居た青年は震える手で猟銃を椎名に向けた。部屋の中には怯えた様子でうずくまる少女と、胸から血を流し倒れている男性の姿があった。

「君が殺したのか?」

「黙れ! そこをどけ!」

「逃げたいなら君の後ろにある窓を使えばいいじゃあないか。何故それが思いつかなかったのか、教えてあげようか?」

「うるさい黙れ! 早くそこをどけって言ってるんだよ!」

「君が憑かれているからだ」

 椎名は青年の目を真っ直ぐ見つめながら一歩足を踏み出した。青年の目は既に正気のソレではなく、故にこそ椎名は彼の目を見つめ続ける。

「来るなって言ってんだろ! 死にたいのか!」

 叫びながら青年は猟銃の引き金に震えるその指をかける。けれど椎名は止まらない。ゆっくりと一歩ずつ青年に向かって歩く。

 そしてとうとう、その銃口が椎名の胸に触れた。

「あ、ああ、ああああ……」

 すると突然、青年は怯えたように一歩後ずさった。けれどその瞳だけは真っ直ぐと椎名の目を見つめている。

「あああ、見てる! 見てる!」

 次第に青年の焦点が合わなくなっていく。震えも大きなものとなり、遂には猟銃を落としてしまう。椎名は地面に落ちた猟銃を軽く蹴り飛ばす。

「ああ、神様! 違う、違うんです!」

 青年は地面に両膝をつくと、何かに祈るようにうずくまった。その目は既に椎名のことなど見ていない。

「何が、起きて……」

 うずくまっていた少女は目の前で起きた不思議な事象に困惑している様子だった。

「こんばんは、えーっと雪ちゃん? 少し訊ねたいことがあるんだけど、いいかな?」


 神社には辿り着いた河合はその中に、一つの人影を確認した。

「『封人会』の、何でお前がここに居る」

 妹島俊輔。妹島家次期当主にして申の封印の伝承者。彼は石の階段に座り、煙草の煙を吐き出しながら立ち上がった。

「まあいいや。なああんた、あんたはこの封印の巫女文化、知ってるか?」

「巫女文化……?」

「ああなるほど。『封人会』が知らねえってことは、やっぱり全部クソジジイのでっち上げか」

 俊輔は吸いかけの煙草を地面に捨てると、それを靴で踏みつけた。

「今年の巫女は俺の幼馴染なんだ。雪って言ってな、昔から大人しい奴だった」

 俊輔の言葉を遮るべきではないと、河合は直感で理解した。それと同時に既に事態が悪い方向へ進んでいるであろうことを、そしてすでに取り返しのつかない段階にあることを、今度は本能で理解した。

「巫女の仕事は本番に向けて穢れを落とすことらしい。そんな大義名分であのジジイは若い女に奉仕させてたんだよ。十何年もな」

 俊輔は自嘲するように笑いをこぼす。

「俺も最初はそういうもんだと思ってた。ガキの頃からそう教えられてきたからよ。だけどあるとき気付いちまったんだ。それも儀式の内なら、何故『封人会』はそれを記録しねえのかってな」

 太陽が完全に沈んでしまったのだろうか。森の中にある神社に、ゆっくりと夜の帳が落ちていく。

「もともと飲んだくれの親父のことなんて好きじゃなかったけどよ。そのときはじめて殺してやりてえって思ったんだ」

 俊輔の言葉を聞きながら、河合は怪異の基本的性質の一つを思い出していた。

「でも俺は頭よくねえからよ。どうやって殺そうかずっと考えてたんだ。そしたらある日夢に神様が出てきてよ。教えてくれたんだ、全部上手くいく方法を」

 怪異、その中でも動物の名を与えられたものの多くに見られる特徴。それは、人間に憑りつくこと。

「だからよ」

 河合のスマートフォンが鳴った。椎名からのメッセージにはただ一文。

『俊輔は申に憑かれている』

「なあ、邪魔しないでくれよ。『封人会』」

 刹那、俊輔の姿が消えた。直後河合は腹部への衝撃と共に後方へと吹き飛ばされていた。

 怪異に憑かれたものに起こる変化は大まかに二つ。精神性の凶暴化と膂力の異常強化。その尋常ならざる膂力から繰り出された一撃は、たった一瞬で容易く人間の命を奪う。

「ははは、なんだ。こんなに強いんだったらわざわざ銃とか用意する必要無かったのか」

 そのはずだった。

「……あ? 何で立ってんだよ、あんた」

 しかし河合は立ち上がった。それはつまり、河合が普通の人間ではないことを意味していた。

 俊輔の姿が再び消える。頭を狙った俊輔の蹴りは、しかし河合の頭を捉えることはなかった。蹴りを避けた河合はそのまま俊輔の足をがっちりと掴むと、上空へ思い切り放り投げた。

「おいおいおいおい、どういうことだよ!」

 放り投げられた俊輔の体は弧を描くように宙を舞う。異常なのはその距離。俊輔と地面との距離は10m程離れていた。そんな高さからの落下にも関わらず、俊輔は軽々と着地する。

「どういうことだよ! これは神様の力なんじゃねえのかよ!」

 俊輔は河合に向かって叫ぶ。しかし河合は既にそこには居なかった。

「何処にッ! なッ!?」

 俊輔の視界が揺らぐ。それが足払いによるものだと気付くよりも先に、河合の拳が腹部を捉えた。俊輔の肉体が地面にめり込む。

「ぐッ、ガハッ!?」

 俊輔は咄嗟に河合の腕を掴むと、先程河合がそうしたように思い切り空中に放り投げた。

「ぐッ! フーッ……フーッ……」

 河合は着地の衝撃を受け身で逃がしながら体勢を立て直す。その口の端から一筋の赤い線が垂れた。

「は? 用済みってどういうことだよ! おい神様!?」

 河合の視線の先では、俊輔が頭を抱え苦悶の声を上げていた。

「クソッ! ふざけんな! ああ、ぐ、あああああああ!」

 到底人のものとは思えない獣のような叫び声が夜の山に反響する。

 次に河合の目と合った彼の目は、既に人間のソレではなかった。

「見ルベカラズ」

 突然河合の視界が完全に闇に包まれた。次の瞬間、再び河合の腹部に衝撃が走る。再び大きく後方に吹き飛ばされた河合の肉体は、数本の木にぶつかりながら停止した。

「三猿か……!」

 椎名から渡された書類に書かれていた申の新たな性質。河合は俊輔の発した言葉から視界の暗転がその性質によるものだと理解した。

 けれどそれを理解したところで状況は変わらない。人間が得る情報のおおよそ九割は視覚によるものだ。それを失った河合は立ち上がることこそ出来るものの、自身から何かを仕掛けることは出来ない。

「貴様、タダノ人間デハ無イナ」

 声が聞こえる。それは先程と変わらず俊輔のものであるはずなのに、明らかな異質さが感じ取れた。河合は全神経を聴覚に集中させ、声の主が放つすべての音に意識を向ける。

「あぁ、ぐッ!」

「ホウ、防グカ」

 尋常ならざる速度で放たれた俊輔の蹴りを、河合は両手を盾にして防いだ。音だけで避けることは出来ない。そう判断した河合は、防御に徹することを選んだ。

「ナラ、コレハドウダ」

 次々と襲い来る攻撃を河合は全て受けきることしか出来ない。しかしそれにも限界というものがある。その瞬間が訪れると、河合は崩れるように地面に倒れた。

「あ、ぐッうぅ……ハァ……ハァ……」

 何本も骨が折れているのがわかった。いくら常人よりも丈夫な河合の肉体とは言え、無敵のロボットというわけではない。皮膚は切れ、肉は裂け、骨は折れる。そうしていつかは死に至る。怪異と人間との絶対的な差がそこにはあった。

「聞クベカラズ」

 河合の世界から音が消えた。暗く静かな世界。次の攻撃がいつ来るのかも、もうわからない。死の一文字が河合の頭を過った。

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