5

 民家に戻った河合は資料に三度目を通しながら髪を乾かす椎名を待っていた。すると突然、まだ外も明るいにも関わらず、急激な眠気に襲われた。普段感じることのないような突然の睡魔に、河合は机に倒れるように眠りに落ちてしまった。

 その音を聞いた椎名は洗面所からひょっこりと顔を出した。リビングでは椅子に座ったまま食卓に突っ伏すようにして河合が眠っている。それを見た椎名に特別驚いた様子はない。

「やっぱりか。問題は、どっちが仕掛けてきたかだね」

 ぶつぶつと独り言を言いながら長い黒髪をゴムでまとめると、キッチンに向かいコップに流しの水を注いだ。

「お~い、河合く~ん? 起きてくれ~河合く~ん。……言葉による反応は無しと」

 椎名はコップを机の上に置き、河合の肩を揺さぶる。しかしよほど眠りが深いのか、河合に目覚める気配はない。

「はぁ……私も本当はこんなことしたくないんだよ? だけど起きない君も悪いよね。よし行くぞぅ、はいドーン!」

 椎名は誰に説明しているのか、早口で言い訳を重ねると、とても楽しそうにコップの水を河合の頭にぶちまけた。

「冷たっ! えっ何!?」

 河合は突然ぶちまけられた水の冷たさに飛び起きる。状況への理解が追い付いていないのか、驚きの表情で周囲をきょろきょろと見回す。椎名はそんな河合の様子を手を叩いて笑って見ていた。

「あれ、そういえば俺いつの間に寝て……」

「まあまあ河合君、ふふふっ、落ち着いてくれ。そのことも含めて、ふふっ、話がある。その前にシャワーを浴びてくるといいよ。くふっ、濡れた床は私が拭いておくから」

 河合は意味の分からない状況に困惑しつつも、笑いを堪えきれていない椎名に促されるまま洗面所へと向かった。


「それで、色々聞きたいことはあるんですけど、まずどうして先輩は僕に水をかけたんですか?」

「それは君が起きなかったからだよ。私としても非常に心苦しかった」

「先輩めっちゃ笑ってましたけどね」

「ははは」

「はははじゃないんですよ」

 河合がシャワーを浴び終えると、いつも通りの様子に戻った椎名がリビングで待っていた。河合はそんな椎名の様子に胸を撫で下ろし、椎名の向かいの椅子に座った。

「それじゃあ、今起きている出来事をまとめようか」

 そう言うと椎名は机の下に置かれた鞄から書類の束を取り出し、机の上に置いた。それは今朝方椎名が目を通していた書類の束だった。

「これは車の中で君に渡した書類、その完全版だ。ここから私が不要だと判断したものを除いて編集したものを君に渡した。つまり君には意図的に隠していた情報がいくつかある。今からそれについて説明する」

 椎名は分厚い書類をパラパラとめくると、あるページを開きそこに書かれた一文を指さした。

「封印の綻びについて?」

 そこに書かれていた内容はこうだ。数年前から封印に携わる妹島家の儀式に対する意識の低下傾向が見られ始めた。それによって年々封印の質が低下しており、いずれ封印が解けるであろうことが『封人会』上層部によって予想されているらしい。

「前回の封印失敗は百四十四年前、そこから十二年の周期が十二回だ。何かが起こるとすれば今年なんだよ。だけどこれはあくまで予測だった。不確定事項で君の精神に負荷をかけたくなかったんだけど」

 河合は先程までの椎名の様子を思い出していた。河合にはわからなかったが、椎名には妹島たちの儀式の質の低下が見てとれたのだろう。

「最悪の場合、僕たちの仕事が封印の維持ではなく再封印になるってことですよね」

「ああ、考えたくはないけれどね」

 再封印。それはつまり怪異と対峙することを意味する。河合の脳裏に三年前の光景がフラッシュバックする。燃え盛る森、少女の死体、そして巳。河合は両の手を強く握り締めた。

「そしてもう一つ。今回『封人会』は現椎名家当主である母ではなく、私たちを指名したんだ」

 これまでも河合は椎名と共に『干支』の怪異の封印に立ち会ってきた。そしてそこには必ず椎名円の母、椎名翠の姿もあった。しかし今回は違う。椎名と河合だけで封印に立ち会うというのは今回が初めてだった。

「私たち椎名家は確かに君の味方だ。けれど『封人会』の中にはそうではない人間も居る。困ったことにね」

 椎名は深く溜息を吐いた。

「お偉いさん方曰く今回の件で君たちの有用性を示せということらしい。すまないね。私たちも残念ながら『封人会』全体を自由に動かせるわけじゃあないんだ。この話も本来は口にするなと上から釘を刺されていたんだけど、そうも言っていられなくなってしまった」

「……要するに、今回の件を解決して実力で黙らせてやればいいってことですよね。いいじゃないですか、わかりやすくて」

 そう言い放った河合の声は僅かながら震えていた。椎名はそんな河合の右手を両の手で包み込み、河合の瞳を見つめる。

「私は君たちを信じてる。何もないことが一番だけど、もしものときは頼りにさせてくれ」

「はい、任せてください。って俺が言うのも変なんですけどね」

 河合は照れくさそうに笑った。それを見た椎名もつられて笑う。その場にあった重苦しい空気が和らぐのを二人はともに感じていた。

「さて、問題は今言ったことだけじゃない。次は君がなぜ突然眠ってしまったかだ」

 椎名は一つ咳払いをすると、気を取り直すように次の話題を提示した。

「一応訊ねておくんだけど。君、昨日は夜更かしとかしてないよね?」

「はい、昨日は早めに寝ましたね」

 椎名はそれを聞いて納得したように数度頷いた。

「過去にこういう経験はないんだよね?」

「あー、眠くなることはたまにあります。昨日の昼もそれで寝ちゃいましたし。けどさっきみたいなのは初めてですね」

「なら原因は何だと思う、河合君?」

 椎名は不敵に微笑みながら、河合に質問を投げかけた。それが解答を既に持っているときの投げかけ方であることを、河合は即座に理解した。

「その聞き方から察するに、先輩は答えわかってる感じですよね」

「ああそうだね。まあ絶対とは言い切れないが、九割九分正解だろう」

「原因……。すみません、ちょっと思い浮かばないです」

「はぁ……。本当に君は優しいというかなんというか。悪い言い方をすれば警戒心が無いねえ」

 椎名はキッチンからお盆を取ってきた。河合もそのお盆には見覚えがある。昨晩青年が差し入れとしておにぎりを持ってきてくれたときのお盆だった。

「お盆が何か関係あるんですか?」

「答え合わせの時間だね。おそらく昨晩のあのおにぎりには睡眠薬でも盛られていたんだろう。疑い深い私は食べなかったけれど、結果としてそれは正解だったというわけだ。そして問題は、誰が何のためにそうしたかだよ」

 誰が何のために。それを考えるにはまず二人が眠ってしまった場合、何が起こっていたかを考える必要があった。二人が眠ってしまった場合、怪異の封印に立ち会い記録する者が居なくなってしまう。そうなることを望んでいるのは誰なのか。

「俊輔さん……ですか?」

 河合の頭に浮かんだのは妹島俊輔だった。と言うよりも二人に対して行動を起こす理由、それが存在しそうな人物は『封人会』に警戒心を抱いている彼しか思い浮かばなかった。

「うーん……そう、だよね。やっぱり」

 椎名はどこか納得のいかない様子で何かを考えているようだった。

「百四十四年……申……まさか、いや、あり得るのか?」

 ぶつぶつと独り言を呟いていた椎名は、何かに気付くと突然資料を手に取りめくり始めた。そしてその手があるページで止まると、視線は資料に向けたまま、真剣な声で河合に告げた。

「……すまない河合君、急いで神社に向かってくれ」

「えっ、はい!」

 その様子から何かを汲み取った河合は急いで玄関に向かう。

「ああちょっと待って! その前にこれ」

 椎名の声で急停止した河合に、椎名は鞄から取り出した腕輪を投げて渡した。

「どっちの腕でもいいから付けておいてくれ。それで合図を送る」

「合図……? ああ、なるほど。わかりました!」

 河合は腕輪を右の手首にはめ、民家を飛び出した。

「申、最も人間に近い怪異か。まさかここまで厄介とはね」

 椎名もスマートフォンをズボンのポケットにしまうと、鍵もかけずに飛び出した。しかしその足の向かう先は神社ではなかった。

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