4
翌朝目覚めた河合は廊下の足跡に気付いた。足跡は玄関から河合の眠っていた部屋まで続いている。何気なく自身の足の裏を確認すると、まるで外を裸足で歩き回っていたかのように汚れていた。小さく溜息を吐き、河合は洗面所へと向かう。
「ん、おふぁよ~」
洗面所では椎名が歯を磨いていた。起きたばかりなのか、その目はまだほとんど閉じている。
「おはようございます先輩。シャワー、先使ってもいいですか?」
「ん~? いいよ~」
椎名はボーっと座ったまま歯ブラシを動かす。
「……先輩あの、服脱ぐんでいったん外出ててもらえると助かるんですが」
「んぁ、あ~ごめんごめん」
そう言うと椎名は寝ぼけ眼のまま洗面所から出ていった。朝が弱いというのは河合の知る椎名の数少ない弱点の一つだ。
長袖のTシャツを脱いだところで、河合は自身の体の変化に気付いた。背中にあったはずの蛇のような黒い線、その位置が変化している。線は河合の右手に巻き付くように移動していた。そして今度は、誰が見てもはっきりとわかるほどの速度で動いていた。
「はぁ……。これだから長袖しか着れないんだよな」
けれど河合にとってはそれもよくあることの一つだ。今はそんなことよりも汚れた足裏と廊下を綺麗にすることの方が重要だった。
「おや河合君、朝から掃除かい? 何とも殊勝な心掛けじゃあないか」
河合がシャワーを浴び終える頃には、椎名もすっかり目を覚ましていた。河合は濡れ雑巾を手に取り床や壁を丁寧に拭いていく。最初は廊下の足音を綺麗にするために始めた掃除だったが、折角だからとこの家を綺麗に保ってくれていた隣家の方への感謝を込めて家の中全体を掃除することにしたのだった。
「先輩は今日の確認ですか?」
「ああ、午後には予行もあるからね。改めて確認しておこうと思って」
食卓に座る椎名は資料の束に目を通していた。それは河合が受け取ったものの何倍も分厚く見える。
「結局、妹島さんの息子さん、俊輔さんでしたっけ。彼の件はどうします?」
「んーどうにもできないっていうのが正直なところだよね。あまりにも情報が少なすぎるし。でも、確かに気がかりではあるんだよね」
基本的に封印はその手順を知る一族が代々受け継ぐものだ。いずれ封印を引き継ぐ俊輔が『封人会』に何か思うところがあるというのは、『封人会』としても安易に放置できる問題ではない。
「予行の時に話を聞ければいいんだけど」
二時間ほど掃除に精を出した河合は、休憩がてら河合から渡された資料を改めて読み直していた。すると、車の中で軽く目を通したときには読み飛ばしてしまっていたある単語が目に入った。
「先輩、この生贄っていうのは」
「ああ、それかい? 昔はそういう文化があったってだけだよ。それに生贄って言っても実際に殺すわけじゃない。女の子を申への捧げものとして神社に一晩泊まらせるんだ。まあそれも今は無くなった文化だけどね」
「無くなったってことは封印には必要なかったってことですか?」
「そうだね。実際一度生贄を捧げるか否かで問題になったことがあったらしくてね。そのときに生贄は不要だとわかったから封印手順から省かれたんだ」
「その問題が起こったのって百四十四年前の?」
河合は車の中で読んだ記述を思い出し、資料の十九ページを開いた。百四十四年前、申の封印維持に失敗した事案の記録。失敗の原因として書かれているのは儀式の中断だった。けれど河合が気になったのはそこではない。それに伴って出た犠牲者、その死因が銃撃と書かれていることの方だった。
「なかなか鋭いねえ。そのときはどうしても生贄に納得できない人が居たらしくてね。封印の最中に銃撃が起こったそうだ。それによって封印の儀式は中断。その結果、一時的とはいえ申の封印が解除されてしまったってことらしい」
「そこ気になったんですけど。封印って一回失敗しただけで解けちゃうようなものなんですか?」
「いいや、普通の怪異ならそんなことはない。それこそ封印の更新が十年に一回だったりする怪異もあるよ。けど『干支』の怪異は別だ。個々の怪異としての力と言うか、存在強度が強すぎるんだよね。これも多分名前を付けたことによるデメリットの一つ」
『干支』は怪異に名付けるには有名すぎたのだと椎名は付け加えた。要するに名前の知名度が怪異としての強さ、封印のしづらさにブーストをかけてしまっているということらしい。それ故に他の怪異と比べても封印失敗の可能性、そして失敗してしまった際の危険性などが高いのだという。
「でもまあ申は最悪なんとかなるよ。うちの家系とは相性がいいから。それに今回は君も居るしね」
椎名は余裕そうにそう呟いた。
「まあ君の出番は無いに越したことはないんだけど」
その言葉を聞いた河合は、自身の緊張を解すように小さく一つ呼吸をした。
時計の針が十六時を回った頃。二人は封印の予行に立ち会うため、再び山の中の神社へと向かった。
神社に到着した二人を待っていたのは、妹島を含む五人の男たちだった。男たちは皆白い道着を身に着け、神妙な面持ちをしている。しかしその中には、それどころか神社のどこにも俊輔の姿は見えなかった。
「ああどうも『封人会』のお二方。今年もよろしくお願いします」
「ええ、こちらこそよろしくお願いします」
「すいませんねえ。本当は息子も立ち会う予定だったんですが、朝方から姿が見えなくて」
椎名が一瞬眉を顰めたことに気付いたのは、この場では河合だけだった。
「いえ、仕方ありません。予行を始めましょうか」
椎名は何事も無かったかのように微笑みながらそう言った。
「よっしゃあ! おめえら、予行だからって気ぃ抜くんとちゃうぞ!」
「「「「応!」」」」
男たちの野太い声が響く。そうして封印の儀式、その予行が始まった。
妹島を筆頭に五人の男は申に捧げる神楽を舞った。一般的な神楽とは異なり、そこに音楽は存在しない。武道の型のようにも見えるそれを、ただ申を祭るために舞う。十数分に及ぶ祭りを終える頃には、男たちは全身にびっしょりと汗をかいていた。
「……ありがとうございました。それでは今晩の本番もよろしくお願いします」
「はい、勿論です!」
「行こう、河合君」
返答を待たず歩き出す椎名を河合は慌てて追いかける。河合は神社を出る直前に一度振り返り妹島たちに頭を下げると、いつもより早足で歩く椎名の元へ走った。
「クソッ、面倒なことになったな」
椎名は歩きながら大きく溜息を吐いた。河合は椎名の不機嫌を感じ取り、余計な口は出さないことを決意した。
「河合君は今のを見て何も思わなかったのかい?」
しかしその決意は椎名から投げかけられた質問によってあっさりと打ち砕かれてしまった。
「えーと、すみません。特に何も……」
椎名はもう一度大きく溜息を吐くと自分の頭を掻き毟った。
「……すまない。苛立ちを君にぶつけてしまった。少し頭を冷やしたい、戻ったらシャワーを浴びさせてくれ」
「勿論どうぞ。でも、落ち着いたら話聞かせてくださいね」
「ああ、本当にすまない。君が冷静で助かったよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます