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「これ、先輩の車ですか?」

 椎名に連れられた河合は小さな赤い車に乗せられていた。

「そうだよ、私に似て可愛いだろう?」

「先輩に似てるとはあんまり思いませんけど、確かに可愛い車ですね」

 二人乗りのレトロ調な車の中で、河合はスマートフォンの画面を見つめ頭を悩ませる。

「さっきから君は何をしているんだい? わからない問題とかだったら先輩が教えてあげようか?」

「……出席日数の確認ですよ。突然予定にない外泊が入ったもので、単位を落とさないか確認してるんです」

「おやまあそれは大変だ。で、どうだい。大丈夫そうかい?」

 何も悪びれる様子のない椎名だが、買え愛にとってはいつものことだ。河合は小さく溜息を吐いた。

「……ええまあ何とか」

「ははっ、それは何より」

そんな会話をしているうちに、二人を乗せた車は小さな神社の前に到着した。人影一つ見当たらない境内には僅かに紅くなりはじめた葉がひらひらと舞っている。河合は一つ小さく深呼吸をして、すたすたと歩く椎名の少し後ろをついて歩く。社務所の前に辿り着いた椎名は扉を開け、その中へと入っていった。

「お邪魔します」

 少し緊張した様子の河合のことなどお構いなしに、椎名は社務所の奥へと進んでいく。そして四方を障子で仕切られた部屋に辿り着くと、その障子を勢い良く開けた。

「たっだいまー!」

 椎名の元気な声が響いた部屋の中心には、一人の老婆が座っていた。老婆はゆっくりと二人の方を向くと、にっこりと優しい笑みを浮かべる。

「あらまどかちゃん、おかえり。隣の方は、えーと……」

ゆうです。お邪魔してます」

「あぁ、河合君。今日はお兄さんの方なのね」

 老婆の名前は椎名澄江すみえ。この神社の先代神主にして椎名円の祖母。そして河合にとっては命の恩人の一人でもある。

「お母さんは?」

すいなら会合に出掛けたよ。だからほれ」

 澄江は懐から封筒を取り出し、円へと手渡した。円はその中身を確認する。

「九月ってことは、兵庫かい?」

「うん、兵庫。兵庫くらいならギリ車で行けるかなー」

「え、先輩兵庫まで車で行くつもりですか?」

「うん、そのつもり。だからいつもよりちょっと早めに声かけたんだよ。あの車、ああ見えて高速にも乗れるし、途中休憩しても大体九時間くらいで着くかな」

 その後河合は数十分に渡って新幹線で行くことを提案したものの、結局その提案は採用されず、兵庫へは車で向かうことになった。

「それじゃあ明日の夜迎えに行くから、準備しといてね」

 ウキウキとした笑顔の椎名に対して。

「……はい。待ってます」

 河合はそう答えることしか出来なかった。


 アパートへと帰った河合は、さっそく荷物の準備に取り掛かっていた。とは言っても数着の着替えとスマートフォンの充電器くらいしか荷物はない。

九月になったとはいえ、まだ蒸し暑い残暑の日々が続いている。だというのに鞄に詰め込まれたシャツは全て長袖のものだった。もしこれが七月であっても八月であっても彼の荷物の中身は変わらないだろう。別に彼は長袖を心から愛する長袖愛好家というわけではない。真夏に長袖でいれば汗を大量にかき、脱水症状で救急車に運ばれたことさえある。それでも彼には長袖を着なければならない理由があった。

「……シャワー浴びるか」

 大方の荷物をまとめた彼は一日の疲れを洗い流すために浴室へと向かった。

汗で肌にへばりついた長袖のシャツを脱ぐと、鍛えられたその肉体が空気に触れる。適度な筋肉量に抑えられた肉体は、椎名とは別方向の美を感じさせるほどだ。

けれどその背中に、異質に映るものがある。八の字を描くように背に刻まれた黒い線は、よく目を凝らせば蛇の鱗のように見える。そしてそれは言われなければわからないほどゆっくりと、けれど確かに、動いていた。


河合悠の命は、本来であれば三年前に失われていた。燃え盛る森、少女の死体、そしてへび。十八歳の七月、暑さも本格的になり始めた夏。彼の人生は大きく歪み狂ってしまった。否、正しく動き出したと言うべきか。


「あっそうだ。お祖母ちゃんが『妹さんは元気?』だって」

 翌日の深夜。河合は再び椎名の車に乗せられ兵庫へと向かっていた。

「あー……まあ元気ですよ。最近はずっと寝てる気がしますけど」

「元気なら結構結構。あ、そうそう。鞄の中に資料入ってるから、移動中に出来るだけ読んでおいてね」

 河合は椎名の鞄を開け、中に入っていたクリアファイルを取り出した。端をホチキスで留められた三十ページ程の紙束、その表紙には『怪異:申(さる)について』と記されている。

「今回はサルですか」

「そ、申。猿じゃなくて申ね」

 怪異。道理では説明のつかない不可思議な事象。或いは単純に化物。おおよその人間がその文字を目にしても創作の中の世界、架空の物事だと思うだろう。それこそが彼らの仕事がし問題無く為されていることの証左である。

 怪異と呼ばれる存在は、遥か昔から世界中にあった。それらは決して世界の法則に囚われることなく、それ故様々な被害を人類に与え続けた。

 それら理外の存在である怪異に対して、人類はいくつもの策を講じ抗った。その内効果があったのは僅か三つ。けれどその三つで、人類は怪異の殆どを封じることに成功した。

 一つ、名前を与えること。

 二つ、姿を与えること。

 三つ、それらを祭ること。

 現在日本に存在する膨大な数の怪異、その殆どがこの三つを継続することによって封じられている。そう、継続だ。最も大事なのはそれらを継続し続けること。一度名を与え、姿を与え、それを祭ったところで、それらを知る者が消えてしまえばその効力は消失する。それを防ぐため怪異の名を姿をその祭り方を代々受け継ぐ一族が今もなお全国各地に存在する。

 そしてそれら怪異の封印手順を蒐集、管理する団体が存在する。『封人会ふじんかい』と呼ばれるその団体を立ち上げ、今もなおその中核にある一族。それこそが椎名家だ。割り振られている担当封印記録怪異は『干支』の名を冠するモノたち。日本に現存するモノの中でも最も封印等級の高い十二の怪異。今回二人が封印の更新及び記録に立ち会う申もその内の一つだ。

「サルって言うと日光とかのイメージが強いですけど兵庫なんですね」

「それは三猿のイメージからかな? あとはそうだね、滋賀県の日吉大社なんかも猿を神の使いとしていたりするね」

「なのに兵庫なんですか?」

「あれ、前に説明しなかったっけ。怪異はそういう伝承とは基本的に切り離して考えるんだよ。あくまで人間が申という名前と姿を与えただけに過ぎないからね。申の位置が兵庫なのは本州を十二分割したときの九に当たる箇所がそこだったってだけだよ」

「じゃあ日光とかその日吉大社? とかは全然関係ないんですか?」

「うーん、そこがめんどくさい話でね。資料の十九ページにも書いてあるんだけど、全くの無関係とも言えなくなっちゃったみたいなんだよねー」

 河合は椎名の指定した十九ページに目を通す。そこに書かれていた内容は今から百四十四年前、封印の維持に失敗した事案の記録だった。

「視覚や聴覚の消失……?」

「そうなんだよね、それ以前の記録では申の怪異にそんな性質は確認出来なかった。というのもそれ以前の失敗事案がそこから更に五百年以上前に遡るからなんだけど。それでその五百年の間に何が起こったかと言うと、日光東照宮の建立ってわけ」

「三猿由来の性質が増えた?」

「おっ、鋭いね。名前を与えた弊害なのかな、その名前に関する性質を取り込んでいるっていうのが今のところの『封人会』の見解。だからその事案以降封印重要度の見直しがされたんだ」

 十二の干支の怪異の中にも封印の重要度が制定されており、最も低いのがうさぎ、最も高いのがりゅうとされている。これらは封印の難易度や失敗時の怪異自体の危険性によって決められている。

「まあ三年前のアレで重要度制度に対する疑問の声も上がってるんだけどね」

 椎名のその言葉を、河合はただ黙って聞いていた。


 出発からしばらく経過した後、二人はサービスエリアで休憩をとることにした。時刻は午前四時過ぎ。車を降りた河合はフードコートを訪れていた。テーブルの上にはずらりと売店で買った軽食が並べられており、その半数が既に食べ終えられている。

「相変わらずよく食べるね、君は」

 そんな光景も椎名にとっては既に見慣れたものであり、特段驚きもせず河合の対面に座る。

「そんなに食べて太らないと言うんだから、世の女性たちからしたら羨ましいことこの上ないだろうね。あっ、ポテト貰っていいかい?」

 食べ物で口が一杯の河合は首を縦に振った。椎名はそれを見て微笑むと、数本のポテトを指でつまみ口へと運ぶ。口の中のものを水で喉の奥へと流し込んだ河合は、そんな椎名に申し訳なさそうに口を開く。

「楽な体質ってわけでもないですけどね。食費もかかりますし。そういう意味でも『封人会』には本当にご迷惑おかけしてます」

 現在河合は住居や生活費を『封人会』からの援助を受けることで生活している。当然生活費の中には食費も含まれており、常人の数倍の量を必要とする河合の食費は月に十万円に到達することもある。昼食は学食で済ませる、買い物は業務スーパーで行う等の工夫をしてもその額に到達してしまうのだ。仕方ないとはわかっていても、河合の真面目な性格ではどうしても負い目を感じてしまうのだった。

「君の現状は私たちにも一因があるんだ。むしろ現状維持しか手段が無いことを謝りたいくらいだよ」

 言いながら椎名はポケットから煙草とライターを取り出した。

「あっすみません。煙草はちょっと……」

 椎名が一本煙草を咥えると、河合が慌ててそれを止めた。

「あれ、君、煙草ダメな人だったかい?」

「ああいえ、僕は別に良いんですけど、妹がうるさくて」

 椎名は納得したように数度微笑みながら頷くと、席を立った。

「妹さんが言うなら仕方ない。少し外で吸ってくるよ」

「申し訳ないです」

 椎名は数度手をひらひらと振って自動ドアの外へと歩いて行った。河合はその背中を見送りながら食事を再開した。

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