4-2

 目を開けた弘人の前に、一筋の川があった。どこまでも清らかで美しく、澄んだ水の流れる川が。

「何処だ、ここは」

 そう口にしながらも、弘人は薄らと理解していた。自身が今立つその場所が、此岸と彼岸の境であると。

「死んだのか、俺は」

 言いながら弘人は自身の脇腹に触れる。黒の魔女の攻撃によって抉られたはずのその傷は、きれいさっぱり無くなっていた。

 無くなっていたのは体の傷だけではない。その心に抱いていた罪悪感や後悔さえも、その心には存在しない。酷く空虚な空白だけが、弘人の胸の内にある。

「守れなかったのか、四葉を」

 そう口にしても、後悔が湧き上がることは無かった。それどころか、心のどこかで安堵感すら覚えていた。

「あんなに、人を殺したのに」

 罪悪感もまた同じように、その心から抜け落ちていた。最早弘人は抜け殻として、その川岸に立っていた。

「もう、いいのか」

 その胸の安堵がどこから来るものなのか、弘人はそれを理解していた。死んでしまえば、もう罪の意識に苛まれる必要は無い。その身に背負い込んだ罪からの解放が、弘人に安堵を与えているのだ。

 気付けば弘人の足は、川まであと一歩のところにあった。この川を渡れば楽になれる。弘人はそれを理解している。

 けれど最後の一歩を踏み出すことを、弘人の中の何かが拒んでいた。

「弘人!」

 自身の名前を呼ぶ声に、弘人はその顔を上げた。その目線の先には、二つの人影があった。

 男性と女性、二つの人影の正体を弘人は直感で理解した。その表情はわからずとも、弘人は二つのその視線に不思議な温かさを感じていた。

「父さん、母さん、ごめん」

 弘人の胸の奥から絞り出されたのは、そんな謝罪の言葉だった。人を殺してごめんなさい。二人を事故から救えなくてごめんなさい。そして絶対に守ると決めた四葉も。

 無意識のうちに川へと踏み出そうとしていた足は、しかし地面から動くことは無かった。

 弘人はその足首が、誰かの手に掴まれていることに気付いた。

「ああ、そうか」

 掴まれているのは足首だけではない。その腕を、その胴を、その肩を、その首を、その頭を十二本の腕が決して離さぬように握りしめていた。

「ごめん」

 弘人はその拳を強く握り締める。同じように十二の腕にも尋常ならざる力が込められていく。その腕の一つ一つが、弘人に怨嗟を伝えるように。

「俺は、そっちには行けない」

 その言葉に呼応するように、空虚だったその胸に、失った筈の感情が蘇る。後悔も罪悪感も、弘人がその一生をかけて背負うと決めた全ての負が。

「行くか」

 弘人は強く目を閉じる。その身を引き裂く様な苦痛が、弘人の意識を現実へと引き戻す。

 目を開けた弘人を迎えたのは、全身の激痛と視界に広がる暗闇。落下した混凝土によって出来た僅かな隙間が、弘人の命を繋いでいた。

 弘人は唯一動かすことの出来る右腕に力を込めた。すると一部の混凝土が崩れ落ち、新たに右足を動かす空間が生じた。そうして新たに動くようになった右足に力を込めると、今度は左足を動かす空間が生じる。気付けば弘人の周囲には、かまくらのような空間が出来上がっていた。

 ゆっくりと首を動かすと、弘人は積み重なる混凝土の隙間から僅かに射し込む光に気付いた。小さな混凝土の破片を退かすと、その光はほんの少しだけ明るさを増す。弘人は何かに導かれるように、光射す方向へと歩みを進めた。

 弘人は今になって青緑の魔法少女の言葉の意味を理解した。

 何故弘人は魔法少女を殺すことが出来たのか。 

 何故十三人目に巻き込まれた、最も素質ある魔女の器が四葉だったのか。

 そして何故弘人は、死を回避することが出来るのか。

 弘人の手が、最後の混凝土を退かす。その目線の先には、黒の魔女の姿があった。

「……何故、まだ生きている」

 弘人の存在に気付いた黒の魔女は、振り返りながらそう問いかけた。

 その問いの答えこそ、これまで全ての疑問に対する答え。弘人が今、ここに立つ理由。

「俺が、お前を殺す存在だからだ」

 黒の魔女を見つめながら、弘人ははっきりとその言葉を口にした。

 今回の魔宴は、石黒弘人が黒の魔女を殺すための魔宴だった。そして魔宴という呪いを破壊し、魔法という存在を世界から抹消する為の。四葉が十三人目として巻き込まれたのも、弘人があの日青紫の魔法少女を殺したのも、そして白の魔女、白薊莇と出会ったのも。

 全てはこのときこの瞬間、弘人が黒の魔女を殺すための道筋だった。

 黒の魔女が黒の魔晶、黒の魔法少女を切り札として用意したように、世界の強制力は石黒弘人という存在を、切り札として用意した。

 故に弘人はこの世界にあって、唯一黒の魔女を殺すことが出来る存在。魔法の存在を抹消せんとする、強制力の代行者。それが世界によって与えられた、石黒弘人の役割だった。

「貴様が私を殺すだと? 笑わせるなよ」

 言いながら放たれた黒の魔女による射撃。弘人はそれを避けると黒の魔女へと歩き始めた。

「貴様は私を殺せない。貴様の攻撃は意味が無いんだ」

 放たれる射撃は次第にその速度と威力を増す。今の弘人にはその一発一発が、命を奪う一撃に等しい。

「何故わからない? 強制力の代行者であろうと、貴様は所詮人間だ。ただの人間が魔女を殺すことなど出来る筈が無い」

 一歩ずつ、弘人と黒の魔女の距離が縮まっていく。しかしどれだけ近づこうと、黒の魔女の射撃が弘人に当たることは無い。

 そしてとうとうその距離は、互いの手の届く範囲にまで縮まった。

 そこで弘人は気付く。黒の魔女のその瞳が、既に自身を見てはいないことに。

「何故だ、何故世界は魔法を否定する」

 その問いに弘人は言葉を返さない。返す言葉など、弘人は持ち合わせていない。

「元はと言えばそちらが与えた力だろうに」

 その口から放たれる怨嗟の言葉も、弘人に向けられたものではなかった。世界の敵対者たる黒の魔女。その敵意は文字通り、今存在するこの世界に対して向けられていた。

「だからこれは復讐なんだ、この世界に対する」

 黒の魔女の漆黒の瞳が弘人の姿を捉える。強制力の代行者たる、石黒弘人という人間へと。

「邪魔をするなよ」

 二人の瞳二つの視線、二つの殺意が交差する。

「代行者ッ!」

 黒の魔女は自身が最も得意とする魔法をその拳に乗せて振り抜いた。

 それは破壊の魔法。その手に触れる一切を法則や理を無視して破壊する魔法。黒の魔女の世界に対する怨嗟を象徴する魔法。世界を呪った黒の魔女が望んだものはただ一つ。魔法を否定するこの世界を、破壊することだった。

 そんな黒の魔女の全霊、怨嗟、願いの一撃を、弘人は躱しその手を伸ばす。

 黒の魔女の世界に対する怨嗟など、弘人には全くもってどうでもよいことだ。世界から与えられた役割も、強制力の代行者という肩書も、一切合切全てがどうでもよい。

 弘人の右手が黒の魔女の喉へと触れる。弘人はようやく届いたそれを決して手放さないように、その右手に全霊の力を込める。

「がッ……!?」

 喉から押し出された空気が、呻き声と共に黒の魔女の口から漏れ出た。

 弘人はその勢いのまま、黒の魔女を押し倒す。

 白薊が言ったように、魔女ももとは人間だ。それ故その体には血が流れ、また呼吸をすることで生きている。そしてそれらが止まってしまえば、魔女であろうと死に至る。

 故に狙うのは喉だった。運よく頸動脈を押さえることが出来れば数秒で、、そうでなくとも数分でその意識を刈り取ることが出来る。そしてその隙を作り出すために、弘人は黒の魔女から近接攻撃を引き出さなければいけなかった。

 弘人は倒れた魔女に馬乗りになると、その左手も喉へと伸ばした。その両手に全霊の力と殺意を込めると、白く華奢なその首を強く強く絞めつける。

 黒の魔女は抗うように、その手で弘人の腕に触れる。しかし薄れゆく意識の中では破壊はおろか、肉体強化の魔法すら満足に発動することが出来ない。

 それは一見してみれば、凄惨な殺人の瞬間であった。男が女に馬乗りになり、両手でその首を絞めている。じたばたと一心不乱に藻掻くその肉体は、数秒の内に動かなくなった。

 それでもなお、弘人は首を絞め続ける。その漆黒の瞳は、虚ろに虚空を見つめている。

 それでもなお、弘人は首を絞め続ける。小さな口の端からは、気泡の入った唾液が泡としてだらしなく垂れ流されている。

 それでもなお、弘人は首を絞め続ける。魔法を放ち、致死の一撃を繰り出していた手足は、ただ力無く垂れ下がっている。

 それでもなお、弘人は首を絞め続ける。すると黒の魔女の体は、その全てが影に吸い込まれるようにして消滅した。

 それが、黒の魔女の死だった。

 全てが終わった。けれど弘人の胸中に達成感は無かった。今に弘人にあったのは、その手に残る細い首を絞めつける感覚だけだった。

「はは、よく……やったよ……弘人、クン……」

 今にも消えてしまいそうな声で、白薊はそう言った。

「白薊!」

 弘人は地面に倒れる白薊のもとへ駆け寄る。

「無茶、するな……弘人クン……。君も、重症、なんだ……」

 弘人は急いで上着を脱ぐと、それを白薊の肩へと巻き付けた。

「何を、しているんだい……弘人クン……。君は早く、四葉ちゃんを……」

「黙れ。それ以上喋るとアンタの命に関わる」

 そう言うと弘人は白薊をおぶった。

「おい、おい……」

 何かを言いかけたところで、白薊の意識は限界を迎えたらしい。しかしまだ、その呼吸は続いているようだった。

 弘人は白薊をおぶったまま、少し離れた地面に横たわっていた四葉の体を担ぎ上げた。二人分の体重を持って歩くのは、今の弘人にはあまりにも重労働だ。

 しかしそれでも、弘人は一歩ずつ出口へと進む。黒の魔女によって抉られた脇腹から、大量の血液を垂れ流しながら。

「二人、だ。俺は今度こそ、二人とも助ける」

 弘人の脳裏にはかつての海での光景があった。

 あのときの弘人は、四葉一人しか救うことが出来なかった。それによって、見知らぬ少女の命が失われた。誰かを助ける為に弘人が伸ばす手の届く範囲は、四葉一人で精一杯だった。

 ならば今はどうか。今の弘人の手の届く範囲は、あのときと何も変わっていないのだろうか。

 その答えを示すように、弘人はゆっくりとその足を進める。

 十二人の魔法少女を救うことは出来なかった。どころか四葉を救う為に、弘人は彼女たちの命を奪った。四葉一人を救えればいいと、そう思っていた。

 それはきっと諦めだった。無力な自分を肯定するために、出来るわけないと諦めた。背負うことから逃げたのだ。

 けれど今は違う。奪った命その罪の重さと、助けたいと思う二人の命の重さ。弘人はそれを天秤に掛けるのではなく、その身一つで背負うと決めた。

 こうして此度の魔宴は、一人の人間によってその幕を下ろした。

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