1-5
時は数分ほど前に遡る。
アンバーは自身を脅威として認識している。その確信が弘人にはあった。
それ故先程までのように正面からの交戦では有効打を与えづらい。であれば取れる選択は相手の意識の外からの攻撃、つまるところ不意打ちしかない。その結論に弘人は至った。
問題となるのは、不意打ちをどうやって成立させるか。しかしそれを考える時間は弘人には無かった。
そこで弘人が咄嗟に取った行動は、偶然か否か、この場における最適解だった。
弘人は窓の外を確認したとき、数日前のことを思い出した。四葉が魔法少女になった夜、家を飛び出す際に粉々に砕けた窓のことを。
それはアンバーの知らない筈の、意識の外にある筈の情報だった。
確信は無かった。けれど迷っている暇もなかった。窓枠に足を掛けた弘人は一か八か、窓の外から右側の部屋へと移動した。妹、石黒四葉の部屋へと。
しかしその先が弘人には無い。生きるか死ぬかの場面において、弘人の思考はその場しのぎ以上の回答を持ち合わせていなかった。
けれど。
『君はそこで待機だ』
けれど弘人は一人ではなかった。
『不意打ちのタイミングはこちらで指示する。それまで息を潜めていてくれ』
廃墟から弘人を見つめる眼の主。白の魔女、白薊莇はそう告げた。
弘人は咄嗟に口を押える。呼吸の音一つが、彼の生死を左右する。全身に血液を送る心臓の音すら、今の弘人には耳障りに思えた。
「まだ、この部屋に居ますよね」
隣の部屋からアンバーの声が聞こえる。弘人の部屋へと続く足跡は、奇跡的にレッドへリングの役割を果たしているようだった。
『静かに扉を開けろ』
白薊の指示に従い、弘人は扉へ手を伸ばす。その瞬間、何かが粉砕される音が聞こえた。
「居ない?」
呟く様なアンバーの声には、困惑の感情が含まれていた。
『そのまま静かに廊下に出るんだ』
弘人はゆっくりと、決して足音を立てないように一歩を踏み出す。二度目三度目と続いた破壊音に合わせて、弘人は自室の入口の前に立った。
「まさか本当に飛び降りた?」
目の前に、背を向けたアンバーの姿があった。アンバーはその手に新たな斧を作り出すと、ゆっくりと窓に向かって歩く。背後を警戒しているような様子はない。今なら。
『まだだ』
しかしそんな弘人の思考を、酷く冷たい白薊の声が制止した。
『彼女が窓に近づくのに合わせて、ゆっくりと近づくんだ』
白薊は知っている。最も油断が生じる瞬間は、勝利を確信した瞬間であると。それ故敵を完全に殺しきるその瞬間まで、白薊が油断することは決して無い。
アンバーと弘人、二人の脚を動かすタイミングは完全に一致していた。けれどその歩幅は違う。アンバーが窓枠に近づき、弘人がアンバーに近づく。その距離は段々と縮まっていく。
そしてアンバーは窓枠の前に辿り着く。それと同時に、弘人はバットを大きく振りかぶった。
「なら、どこに」
『今だ』
振り向くアンバーの頭を、金属バットが捉える。不意打ちは完璧と言って差し支えない形で成功した。
アンバーの肉体が倒れていく。それはまるで、糸の切れた操り人形のようだった。
そこに追い打ちをかけるように、弘人はバットを振り下ろした。頭を目掛けて何度も何度も。
悲鳴はなかった。助けを請う声もなかった。部屋の中にあるのは、ただただ鈍い音だけだった。その音は何度も、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も。
そして時間は現在へと至る。
弘人は荒い呼吸でただ立ち尽くしていた。
叩き壊されたクローゼットやベッドの破片が散らばる自室に、動かなくなった黄橙の魔法少女。そんな現実感の無い光景を、その手に残る感触が現実であると弘人に伝える。
『お疲れ様、と言いたいところだけど。まだだ、石黒弘人クン』
「……魔晶とやらか」
『そうだ。君はまだ、魔晶を破壊していない』
魔晶。それを魔法少女の核であると、白薊は弘人に説明した。魔法少女の胸に埋め込まれたそれを破壊することが、彼女たちの死を意味すると。
弘人は地面に横たわるアンバーの胸に触れた。少女らしい柔らかな肉の感触の中にただ一点、異質な硬さが存在した。
震える右手を抑えるように、弘人はバットを両手で強く握り締める。
そうして大きく息を吸い、横たわる少女の胸元を目掛けて、僅かに歪んだ金属バットを弘人は全力で振り下ろした。
弘人の手に、砕ける感覚が伝わる。昨日のソレとはまた違う、硬いものが砕ける感覚が。
黄橙の魔法少女だったソレは、その姿を元の小柄な少女のものへと変えた。つい十数分前、弘人が家の前の路地で話した普通の少女の姿へと。
「すまん白薊。少し、イヤホン外す」
弘人は白薊の返答を待たずにイヤホンを外すと、ふらふらとした足取りで洗面所に向かった。
洗面所の鏡に、今にも泣きだしそうな情けない男の顔が写った。それを見た途端、ここまで弘人を繋ぎとめていた何かが切れてしまった。
「う、うぅぅ……ぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……」
崩れ落ちるように膝をついた弘人は、震える両手で自身の顔を覆った。
魔法少女を殺した。少女を殺した。人を殺した。既に超えてしまっていた一線の重さが、今更になって弘人にのしかかる。
「あ、ぅあぁぁぁぁぁ……」
殺さなければ殺されていた。だからこれは正当防衛なのだ。しかしそんな言葉は、今の弘人には何の救いにもなりはしない。
全身の震えが止まらなかった。口からは意味の無い呻き声が漏れ、大粒の涙が頬を伝う。
怖くて怖くて仕方がない。人を殺してしまったという事実が。人を殺してしまった自分が。
そうしなければいけなかった。妹の為にも、自分の為にも。そう思い込もうとしても、湧き上がる恐怖は消えはしなかった。
部屋に戻れば、また死体を目にすることになる。少女の死体を。自分が殺した少女の死体を。
それが酷く恐ろしかった。恐ろしくて恐ろしくて仕方が無かった。
けれど。
「よつ、は……」
けれど弘人に逃げるという選択肢は無かった。妹が、四葉が巻き込まれている以上。
「四葉……」
弘人は震える手で洗面台の蛇口を捻る。両手で器を作るようにすると、その手で流れる水を受け止めた。冬の水の冷たさが弘人の両手を突き刺す。弘人は両手から溢れるそれを、自身の顔面に叩きつけた。
「……やるんだ」
鏡に映る自身を睨みつけながら弘人は呟く。
「他の誰でもない、お前がやるんだ」
今更戻ることは出来ない。その手の汚れは、もう決して落ちることは無い。
「お前が殺すんだ、石黒弘人」
故に殺すしかない。恐怖に打ち震える自分を。情けない自分を。人間、石黒弘人を。
弘人は震える拳を握り締め、鏡に映る自分へと叩き付けた。
ひび割れた鏡の破片の幾つかが、重力に従い落ちてゆく。
割れた鏡は弘人の姿を酷く歪に映し出す。自身の心すら殺すと決めた、歪な男の姿を。
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