2-3

『何をしてる弘人クン! 早く逃げろッ!』

 瞬間、弘人の全身が危険信号を放った。思わず弘人は後方へ飛び退く。

「あァ? 何だこの状況は」

 これまで感じたことの無いほど明確な、死そのものがそこに立っていた。

「ッ!?」

 事故に遭った人間は、瞬間的に世界がスローモーションに見えることがあるという。タキサイキア現象と呼ばれるソレは、脳が危険を感じたときに起こす誤作動が原因とされている。

 弘人の脳は、或いは弘人の本能は、瞬間的にその人影を命の危機だと認識した。

『――てるかい!? 弘人ク――』

 イヤホンから伝わる白薊の声は、不安定に途切れていた。

「電波か……!」

 白薊と弘人を繋いでいるのは、所詮スマートフォンから放たれる電波でしかない。走行中の地下鉄内においてそれは、あまりにも不安定で頼りないものだった。

「お前、魔法少女じゃァ無えよなァ」

 開いたドアの外側から、死を放つ少女が車内へと足を踏み入れる。

 刹那、その姿は朱色に染まった。

『弘人クン! 今すぐ逃げろッ!』

 ノイズ交じりの白薊の声が弘人の耳を劈いた。

『彼女が朱の魔法少女、ヴァーミリオンだ!』

 そんなものは言われなくても理解出来た。朱色の長い髪を靡かせるその姿は、間違いなく魔法少女のソレだ。

 では、何が違うのだろうか。これまで戦ってきた魔法少女たちと朱の魔法少女は。

 答えを探す時間は無かった。アナウンスと共にドアが閉まり始める。逃げるのなら弘人は今すぐにその足を動かさなければいけない。

 けれど。

『弘――ン!?』

「アイツの能力を教えろッ! 白薊ッ!」

 逃げるべきではないと、弘人はそう判断した。

「お? よくわかんねえが、テメエもこっち側だな?」

 ヴァーミリオンの朱色の目が、弘人を敵として認識した。全身を針で突き刺されるかのような、極限の緊張感が弘人を襲う。ここから先は、一手のミスも許されない。

「まあ待ってろよ。コイツを殺したら相手になってやっからよ」

 しかしその目は、すぐにオレンジへと向けられた。

『殺させるなッ!』

 鮮明になった白薊の声と同時に、弘人の体は前方へと跳ねた。

「来ないでってばッ!」

 その叫び声はヴァーミリオンの体を車内の壁へと叩き付ける。しかし、弘人はそうはならなかった。

 オレンジの叫びとほぼ同時に、弘人の耳に破裂音が届いた。耳鳴りを起こさせるほどのその音は、弘人がオレンジの言葉を認識するのを阻害していた。

 白薊は知っていた。強制を発動する為の条件の一つが、相手が自身の言葉を聞くことであると。要は言葉を弘人に認識させなければいい。彼女の言葉より大きな音で、その認識を阻害させなければいいのだ。

 だから白薊は両掌に魔力を込めた。拍手で大きな音を出す要領で、掌同士の魔力が弾ける音をマイク付近で出したのだ。咄嗟の機転によるその行動は、十分すぎる成果をもたらした。

 ヴァーミリオンに隙が出来たことによって、弘人の目の前には二つの選択肢が現れた。

 ヴァーミリオンを攻撃するか、オレンジをヴァーミリオンから離すか。

 弘人は後者を選んだ。自身の口元を押さえるオレンジの手を、弘人の手が掴む。

「触らな――」

「いいから来いッ!」

 オレンジの言葉を弘人は大きな声で遮る。オレンジはその手を弘人に引かれる形で立ち上がり、よろめく足で駆け出した。

 七両目、六両目を弘人とオレンジは駆け抜ける。

『弘人クン、何をするつもりだい』

 白薊のその問いに答える余裕は、今の弘人には無かった。

 五両目を抜け四両目へと辿り着いたところで、オレンジの体力は限界を迎えた。

「ぐ、ぅふっ……」

 その場に倒れるオレンジは、口から血を垂れ流していた。

「何、なの……魔法少女っ、とか……殺し合いとか……」

 オレンジはその瞳に大粒の涙を浮かべる。それは床へと流れ落ちると、血液と混ざり合い消えていく。

「私まだ……死にたく、ない……だけっ、なのに……」

 弘人は泣きながらそう呟くオレンジに肩を貸し、ゆっくりと車内の椅子に座らせた。自分たちが居た八両目の方に目をやると、既にヴァーミリオンが立ち上がっているのが見えた。弘人はオレンジの肩に手を乗せ、その目を真っ直ぐと見つめる。

「おい、アンタ。要件だけを簡潔に言うぞ」

 今にも閉じそうな瞼から覗くオレンジの瞳も、同じように弘人を見つめていた。

「このままじゃ俺もアンタも死ぬ。だから俺に協力しろ」

 オレンジに反応はない。反応する力さえも、今のオレンジには残されていない。

「アンタが動けるようになるまで俺が時間を稼ぐ。さっきの魔法が使えるようになったら動きを止めてくれるだけでいい。俺が、アイツを殺す」

 イヤホンの向こうから、白薊の溜息の音が聞こえた。

「俺と一緒にアイツを殺すか、二人揃ってアイツに殺されるかだ。俺はアンタを信じるぞ」

 それだけ言うと、弘人はオレンジの肩から手を離しゆっくりと立ち上がる。

『正気かい?』

 呆れたような声色で白薊はそう言った。

 オレンジがどれだけの時間で動けるようになるかなど、弘人にわかるはずがない。その上でオレンジが弘人に協力するかどうかも、わかるはずがない。

 そしてそんなちっぽけな、何パーセントあるのかもわからないような確立の為に、弘人はこれからヴァーミリオン相手に一人で立ち回らなければならない。

 誰がどう見てどう考えても、弘人の行動は正気の沙汰では無かった。

「白薊から見て、アイツが誰かにやられると思うか?」

 しかし当の弘人は、不気味なほどに冷静だった。

『わからない。が、好戦的である以上戦闘能力は高いだろうね』

「だから今ここで殺す。その矛先が四葉に向く前にな」

 弘人の行動原理は常に妹の四葉だ。その為になら人も殺すし、自分の命さえも危険に晒すことが出来る。

「白薊、アイツの固有魔法を教えろ。あるなら対策も」

 その言葉には有無を言わせぬ迫力があった。

 そして白薊は気付く。既に弘人のその目には、一切の迷いが無いことに。アンバー戦で槍を避けたそのときと、同じ瞳をしていることに。

『朱の魔法少女、ヴァーミリオン。固有魔法は生命を与える、だ。彼女は無機物に対して命を吹き込み、使い魔として操ることが出来る。自由度の高い魔法だから明確な対処法は無い』

 白薊は弘人の瞳に漆黒を見ていた。どこまでも透き通った、迷いのない黒を。

「理解した。サポートは任せる」

 そう言うと弘人は大きく息を吸い、ヴァーミリオンを迎え撃つ為後方車両へと歩き出した。


「よお」

 六両目で、弘人とヴァーミリオンは対峙する。力の差は歴然。その場に立つのは狩る者と狩られる者だった。

「テメエ、何者だよ。魔法少女って感じじゃあねえよな」

「ただの人間だよ。アンタと違ってな」

「へえ……。その割には、随分と落ち着いてるな」

『頭、来る』

 弘人は首を傾け射撃を躱す。その後方から、ガラスの砕ける音が響いた。

「ただの人間には見えねえんじゃねえの、これ」

 駅へと辿り着いた電車は再び停車する。ゆっくりとドアが開き、そして。

『来る』

 閉まる。それが開戦の合図だった。

 ヴァーミリオンはドアからドアまでの距離を瞬時に詰め、破裂音を伴う蹴りを放つ。

「おっ、避けんのか」

 弘人はそれを最小限の動きで躱した。しかしアンバーのときと違い、反撃をする余裕はない。次々に襲い来る拳を、蹴りを、ヴァーミリオンの攻撃全てを、考えうる最小限の動きで躱し続ける。

『射撃右足』

 次第にその攻撃に射撃が混ざり始める。蹴りを躱せばその先に射撃が、射撃を躱せばその先に拳が。しかしそれでも、ヴァーミリオンの攻撃は弘人には届かなかった。

「何なんだテメエは」

 ヴァーミリオンのその問いに返答する余裕も今の弘人には無い。まるで未来を見ているかのように、全ての攻撃を紙一重で避け続ける。

 するとピタリと、ヴァーミリオンの攻撃が止まった。

「ははっ! おもしれえじゃねえか」

 ヴァーミリオンの手が鉄製の手すりに触れる。

 すると手すりは、その命を主張するかのようにうねり始める。

「なぁ、テメエにはこれが何に見える?」

 厭らしく笑みを浮かべながら、ヴァーミリオンは弘人に問いかける。

『固有魔法だ』

 朱の魔法少女の固有魔法、無機物に生命を与える。

「答えは、蛇だ」

 金属製の手すりは、その姿を蛇へと変えていく。

『来る』

 弘人の目と、金属製の蛇の目が合う。

「ッ!」

 弘人の頭目掛けた飛び掛かった蛇は、しかし獲物を捕らえることなく地面へ落ちる。

 厄介なのは、それが一度では終わらないこと。

 金属の蛇は狙いを弘人の脚に定め、飛び掛かる。それを躱した弘人の体は、大きく後方へと吹き飛んでいた。

『弘人クン!?』

「流石にこうなりゃ避けられねえか」

 拳を振り抜いたヴァーミリオンは、小さくそう呟いた。

 弘人の脇腹に遅れて激痛が走る。しかし叫び声は出なかった。自身の役割を忘れた肺によって、弘人は呼吸すらままならない状態になっていた。

 立たなければいけない。まだここで死ぬわけにはいかない。どれだけ強くそう思おうと、弘人の体は動かない。それどころか、今の弘人には手足の感覚すらなかった。

『弘人クン、早く立つんだ! 弘人クン!』

 無茶を言うな。そんな言葉すら今の弘人には紡げない。ゆっくりと歩いてくるヴァーミリオンの姿が弘人の目に映る。

 それは明確な死のヴィジョンだった。弘人の死は、朱の魔法少女の形をして、もうすぐそこまで迫ってきていた。

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