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 事の始まりは二日前だった。

 大学三年生の石黒いしぐろ弘人ひろとはその日もいつもと同じように、アルバイトを終え自宅へと戻った。

「ただいま」

 言いながら扉を開けた弘人を、言い表しようのない感覚が襲った。何か絶対によくないことが起こるという感覚。或いはそれは既に、起こっているのかもしれないという恐怖。

 弘人が足元に目をやると、綺麗に並べられた妹、石黒四葉の靴を見つけた。

 恐怖は更に強くなる。息の詰まるようなその感覚を、しかし弘人は知っていた。

 弘人と四葉には両親が居ない。三年前の交通事故で、二人の両親は弘人たちの目の前でその命を落とした。そしてその事故の直前にも、弘人は同じ感覚を感じていた。

 かつてイギリスの哲学者はそういった分類不可能な感知能力を、第六感と名付けた。

 弘人の第六感はそのとき、弘人に命の危機を知らせていた。

「四葉?」

 呼びかけてみても答えは無い。間違いなく四葉の身に何かが起きている。そう考えた弘人の足は第六感からの警告を無視し、自ら死地へと足を踏み入れていた。

 階段を上って右手側、手前の部屋のドアが開いていた。石黒四葉の部屋のドアが。

 一歩その部屋に近づく度に、恐怖は強くなっていく。知りえるはずの無い死の瞬間が、近づいてくるのを感じる。それでも、弘人に足を止めることは出来なかった。

 そして遂に、弘人は四葉の部屋の前に辿り着く。

「四、葉?」

 部屋の中には黒い長髪の少女が居た。その姿は間違いなく、石黒四葉だった。

 けれど、強烈な違和感があった。

 身に纏う服はフリルやリボンがふんだんにあしらわれた可愛らしいものだ。そんなものは四葉の趣味ではない。しかしそうではない。

 四葉はいつも弘人が帰ってきた際にはおかえりと挨拶を返す。今日はそれが無かった。しかしそうではない。

「お前は、誰だ?」

 言い表しようのない致命的な違和感。弘人の目の前に立つ少女は石黒四葉であり、石黒四葉ではない。

 黒い少女はその手を弘人に向かい伸ばした。

 その動作一つに、弘人は明確な死の感覚を連想した。これから自分は死ぬのだと、そんな確信が弘人にはあった。

「だめッ」

 少女の小さな叫びと共に、その手が窓へと向けられる。瞬間、二枚の窓ガラスは粉々に砕け散った。

 何が起きているのか、弘人には全く理解が出来ない。

けれど一つだけ。たった一つだけ理解出来るのは。

「四葉」

 今目の前に立っているのは、間違いなく石黒四葉だということだった。

「お兄ちゃん」

 四葉は一言、震える声でそう呟くと、割れた窓から暗い夜空へと飛び立った。

 死の危機から解放されたのだということを、弘人は本能で理解する。

 割れた窓から冷たい冬の空気が部屋の中へと吹き込んだ。

 弘人は何が起きているのか、それすら理解しないまま。

「絶対に、助けるからな」

 自身に言い聞かせるように、小さくそう呟いた。


 時間は現在へと戻る。

目を覚ました弘人を迎えたのは見知らぬ天井だった。むき出しの混凝土が見える天井は、不気味な無機質さと冷たい印象を弘人に感じさせた。

弘人は上体を起こし、軽く周囲を見回す。どうやら弘人が現在いる場所は、どこかの廃墟のようだった。

「やあ、おはよう」

 どこまでも透き通った、それでいて酷く冷たい印象を与える声が無機質な部屋に響いた。

 弘人は声のした方向、部屋の入口の方に目をやる。

そこには、魔女が立っていた。

 魔女としか言い表しようのない存在が、そこに立っていた。

「おや、思ったよりも反応が薄いなぁ。もっと派手に驚いてくれると思っていたのだけれど」

 白い帽子を被り白い服を着た白い髪の魔女。その姿はとてもこの世のものとは思えない程美しく、それでいてどこか恐ろしかった。

 弘人は数秒の硬直の後、大きく溜息を吐いた。そしてこれは夢なのだと自分に言い聞かせるように、起こした上体を再び横たえる。

「おやおやおや、また眠るのかい?」

「……逆だ。眠るんじゃない、起きるんだよ。このクソみてえな悪夢からな」

 弘人は期待していた。再び目を覚ましたとき、そこにいつもの日常があることを。

自室で目覚め階段を降り、リビングの扉を開ける。そこではもう制服に着替え終えた四葉が朝食を食べており、おはようと声を掛けてくるのだ。

それ以上のことは何も必要ない。それさえあればそれでよかった。

けれどそれさえも。

「そんな暇はないんじゃないかな? 石黒弘人クン。君が妹のことを思っているのならばね」

 突き刺すような魔女の声に、弘人は目を見開く。

「どういうことだ。お前、四葉の何を知ってる?」

 弘人は上体を起こし、純白の魔女を睨みつけた。

「おや、眠気は覚めたかな?」

 魔女は不敵な笑みを浮かべながら、そんな弘人の瞳を見つめる。

「なら少し、話をしようか」

 魔女はそう言うと、部屋の隅にあったパイプ椅子に腰を下ろした。

「簡単に結論から話そう。石黒弘人クン。君には私に協力してほしいんだ」

 弘人は眉を顰めた。

 しかし魔女はそんな弘人の様子を意に介さず話を進める。

「君には私の手足として、私の代わりに魔法少女を殺してもらいたい」

「何を、言っている?」

 突如飛び出した魔法少女という突飛な言葉に、弘人は自身の耳を、或いは目の前の女の頭を疑った。魔法少女などという存在が実在する訳が無い。そんな訳が。

「本当に理解出来ていないのかい? それとも、理解したくないのかい?」

 それは弘人の心の内を見透かしているかのような一言だった。

「まあどちらにせよ、実のところ君にもう選択肢は無いんだ」

 突き刺すような緊張感が部屋に張り詰めていた。

そんな緊張感の中で弘人はただ、指の一本すら動かすことなく魔女の言葉を待つ。最早それしか出来ることは無いと、本能がそう理解している。

「君の妹、石黒四葉を助けるためにはね」

 呼吸が止まった。否、呼吸を含む全てが、世界自体が停止する。そんな錯覚が弘人を襲った。

「どういうことだ?」

 絞り出した疑問の声が、静寂で満ちた部屋に木霊する。

「昨晩のことは記憶にあるかな?」

 魔女の言葉を聞き、弘人は記憶の扉に手を掛ける。

昨晩。最も直近の記憶。それは。

「ッ!?」

「良かった、忘れてはいないようだね。まあ君にとっては良くないことなのだろうけれど」

 魔女の言葉は弘人の脳には届いていなかった。

弘人は自身の両手を見つめる。小刻みに震えている両の手を。

記憶と共に昨晩の感触が蘇る。硬く冷たい鉄パイプの感触。それを全力で振るうときに込めた力の感覚。そして鉄パイプを伝い、手を伝い、腕を伝って脳に届いた、砕ける感覚。

砕く、感覚。

砕けてはいけないものを砕いてしまったと、あのとき本能はそう知らせていた。決して無かったことにはならない不可逆の破壊。

生命を奪う、その感覚。

「ぅうっ……!」

 胃から込み上げてくる何かを堰き止めるように、弘人は震えるその手で口を押えた。部屋に満ちる空気は冷たい。にも拘らず、弘人の額には汗が浮かび上がっていた。

 罪の自覚が、遅すぎる後悔が、濁流となって弘人を襲う。

 お前は人を殺したのだと。

「まあ、落ち着きたまえよ」

 魔女の冷たい声が、弘人の脳に突き刺さる。

 弘人は眼球だけを動かし、純白の魔女に目を向けた。

「自己嫌悪に陥るのは君の勝手だけれど、その前に私の話を聞いてくれるかい?」

 厭に落ち着いた声で、魔女は告げる。

 弘人は乱れた呼吸を整えながら、無言で魔女を睨みつける。魔女はその沈黙を、肯定の意志として受け取った。

「君の妹は今、戦いに巻き込まれているんだ。十三人の魔法少女による殺し合い、魔宴サバトと呼ばれるソレにね」

 そんなはずはないと、魔女の言葉を否定出来ればどれだけ楽だっただろうか。魔法少女なんて居る訳が無いと、殺し合いなんてある訳が無いと、そう否定出来ればどれだけ。

 しかし弘人は思い出してしまったのだ。昨晩の光景を。目の前に広がっていた地獄を。

 崩れた柱。崩落した天井。燃え、潰れ、滅茶苦茶になった車の数々。そして二人の少女。

 一人の少女は青紫だった。青紫の少女はゆっくりと、もう一人の少女に歩み寄っていた。

 一人の少女は黒だった。黒の少女は地面に倒れ、大量の血液を垂れ流していた。

 黒の少女は、確かに石黒四葉だった。

「その様子を見るに、心当たりはあるようだね」

 魔女の言葉に弘人は反応を返さない。しかしそれこそが肯定の意志を、言葉よりもわかりやすく魔女へと伝えていた。

「殺し合いは最後の一人になるまで行われる。私としては誰が生き残ろうが関係ないんだが、君にとってはそうではないだろう?」

 当然だ。弘人にとって四葉以上に大切な人は居ない。事故で両親を失った弘人にとって、四葉は唯一の家族なのだから。

「だから君には、石黒四葉を除く魔法少女たちを殺してもらいたい。君の妹を助けるためにね」

 魔女は弘人という天秤、その左右の皿に重りを乗せた。

 片方の皿には、十二の命が乗っている。見知らぬ魔法少女たち十二人の命が。

 もう一方の皿には、一つの命が乗っている。たった一人の、石黒四葉の命が。

 それは酷く残酷な問いのように思えた。明確な正しい答えなど決して存在しない、存在してはいけない問い。

「何を悩んでいるんだい、石黒弘人クン」

 酷く冷たい魔女の声が、弘人の脳を突き刺した。

「君は勘違いをしているのかもしれないが、これはトロリー問題では無いんだよ」

焦りや混乱を無理矢理排除するようなその声が、弘人の思考を透き通らせる。

 そう、これはトロリー問題では無いのだ。どちらの選択をしても、犠牲になる命の数は変わらない。

 つまり今、問われているのは覚悟だった。

 弘人という天秤に問われているのは、妹一人の為に他の人間を殺せるか、その一点に過ぎなかった。

 そしてその答えなら、既に決まっている。決まってしまっている。

 それ故既に片方の皿は重りの数を減らしてしまっているのだ。弘人は既に、十二人のうち一人をその手にかけてしまっている。

「……なんで、俺なんだ?」

 決まり切っている答えを口にすることを避けるように、弘人は魔女へと問いかけた。

「それは私が聞きたいくらいだよ。君は魔法少女を殺してしまった。殺せてしまったんだ。本来そんなことは出来る筈がないのに。それが理由だよ」

 魔女の返答によって、弘人の僅かな時間稼ぎはあっさりと終わりを迎える。その役目を十分に果たさぬまま。

 二人きりの部屋に沈黙が訪れる。

 覚悟なら既に出来ている。あとは協力すると、そう口に出せばいいだけだ。妹一人の為に他人の命を奪うと、自分にはその覚悟があると口に出せばいいだけなのだ。

 しかし弘人にはそれが出来ない。それが過ちであると知っているから。弘人の理性は彼を人たらしめるために、その言葉が口から放たれることを阻害する。

 そんなものは、既に手遅れだと言うのに。

「迷うのは当然だ。それを恥じることは無いよ。けれど君が迷えば迷うほど、そうして時間が過ぎ去るほど、君の妹は命の危機に晒されることになる」

 まるで銃口を突き付けるように、魔女は弘人に決断を迫る。魔宴と呼ばれた殺し合い、それが既に始まっているのであれば、今この瞬間も四葉は命の危機に瀕しているのだ。

 故にこそ、弘人は諦める必要がある。まともな人間であることを。しかしそれを決断するには、弘人に与えられた時間は短すぎた。

「けれど、どうしても迷うというのなら一つ提案をしようか」

 そんな弘人に、魔女は手を差し伸べる。

「私は今君に、殺し合いに身を投じろと言っている訳だ。君に命を懸けろとね」

 そう。魔女が弘人に求めているのは、魔法少女を殺す覚悟だけではない。その命すら危険に晒せと、そう言っているのだ。それに対してはいわかりましたと頷くことの出来る人間は、最早人間と呼べるものではないだろう。

 命を奪い奪われる覚悟、そんなものが一般人に出来る訳が無いのだ。

「決断が出来ないのは当然のことだ。健全な人間であれば誰だって、死にたくも殺したくもない筈だからね」

 やけに優しい魔女の声色が、弘人には厭に不気味に聞こえた。

「だからこうしよう」

 一瞬の静寂が、永遠のように感じられた。魔女の口からどんな言葉が放たれるのか。弘人にはそれが酷く恐ろしく感じられて仕方が無かった。

「君が私に協力しないのであれば、私は君の妹を殺そう」

 どんな思考よりも早く、弘人の肉体は動いていた。先程まで呼吸をするので精一杯だったその肉体は、限界まで押し込まれた発条のように弾け、魔女の胸倉を掴む。

「どうだい? やる気になったかな?」

 しかし魔女に動揺するような様子は無い。この場におけるイニシアチブの所在は明白だった。

「……何なんだよ、お前は」

 弘人の問いに魔女は僅かに目を見開く。その表情からは確かに、驚きの感情が見てとれた。

「そうか、名乗り忘れていたね」

 魔女の手が、胸倉を掴む弘人の腕を掴む。病的なまでに白いその手からは、確かな体温が感じられた。

「私は魔女。白の魔女、白薊しらざみあざみだ」

 そう名乗る魔女の白い瞳は、真っ直ぐに弘人の瞳を見つめていた。

 白く、どこまでも白く濁ったその瞳が。



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