第4話 三人の英雄①
ビンジャー地区。
それはペクシーラ国と海洋になかば幽閉された自治区である。
現ペクシーラ国王の弟、俺の叔父は、一人の息子を生んだ。
ガジャ・ペクシーラ。
俺のいとこにあたる彼は、ナヤクであった。
世界にナヤクが生まれ始めてから三百年。
世界はまだ滅ばぬかわりに、いまだ誰も「扉」の向こうを踏破していないらしい。
神の時間感覚とは人間とは違うものなのだ、と思いつつも、いつ滅びがくるかもわからない世界で、ナヤクは神に等しい存在である。
そして、ペクシーラ国の王族には、この三百年かならずナヤクが生まれていた。
俺の祖父、先代の王もそうであった。
祖父は、己の次男の家系にナヤクが生まれたことが許せなかった。
あるいは、ガジャ・ペクシーラが己の代替として誕生したということを認められなかった。
彼が生まれたことが、己の死期が近づいていることの証左に思えてならなかった。
ゆえに、祖父は孫を「扉」に送り、己のナヤクとしての力を発揮して壁を作り、国に戻れぬようにした。
ガジャが失ったのは己の母であった。
祖父は己の経験から「扉」に挑み続ければいずれガジャは死ぬと踏んでいた。
しかしながら、ガジャも祖父と同じく、失ったものよりも得たものの方に執着があったらしい。
ガジャは積極的に「扉」の攻略に挑まなかったのだ。
そうして生まれたのがビンジャー地区である。
もともと貧民街であったその地区は、「扉」の存在とナヤクであるガジャがいることで選民思想を持ち、ペクシーラ国に対して己の正当性を主張するようになった。
2年前、俺が10のときだった。
ガジャ・ペクシーラによって壁の一部が破壊された。
祖父が崩御したのに合わせての進行であった。
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星辰を見上げつつ、かの星々と遜色のない美貌を持つ少女が、誰に語るともなく独り言ちる。
その声を聴く者は果たしてあったのか。
「あれは大きな雷でした。眩いばかりの光のあとに、轟音が2つでした」
ビンジャー地区を望む、最後の砦の小城、その最上階であった。
ヴェガリーヤは、あたかも己の記憶がその視路に映写されているかのように、はっきりとした眼差しだった。
「雷の音、それから雷が壁を突き抜ける音、それだけで畏怖を抱くのに十分でした」
「貧民街にいた私は、その時、一瞬で希望を抱きました」
「ここにいる人は大丈夫だ、と。なぜなら壁で隔たれただけで、向こうもこちらも、元は同じ貧民街の者、彼らが狙うのはペクシーラの中心、王城だと思いました」
「私は、怯えきっていたのです。その怯えが自分を律しようとして誤った希望を抱かせたのです」
「いいえ、私が怯えていたのは、私が死ぬことではありません。ここで起きうるであろう惨劇に、でした。元は同じ町で暮らしていた者同士が殺し合う。そんなのは、無情に過ぎます」
ヴェガリーヤの瞳から涙が落ちる。
彼女は神に懺悔するように、言葉を紡ぎ続ける。
「恐れていたことは、すぐに起きました。私たちに戦う術はなく、それはまさに惨劇だったのです。子どもと若い女は連れ去られ、老人たちは寝ながらに殺され、男どもは執拗なまでに暴力を受けてから命を絶たれました。すべての憎悪がそこに渦巻くようでした」
「そんな生暖かい残虐の嵐の中で、私が出来たのは、死に行く人の最後の言葉を聞くだけでした。何も、何もできなかったのです」
「私はそれでも、なんとか進みました。相手の目から逃げながら、少しずつ惨禍の中心に。そして、伝えたかったのです。こんなことはやめてください、と。無責任だと笑いますか?ビンジャー地区の人々は、確かにひどい仕打ちを受けました。狭い土地に追いやられ、外部からも閉ざされ、貧困は進み、希望もない。恨むのも当然だと、でもそれでも、やめてください、と言いたかったのです」
ヴェガリーヤは、そこで星を見上げるのをやめた。
もうその天蓋は己の心の中に写し取って満足だと言わんばかりに。
「その時、1人の少年が現れたのです。たった一人で」
「おそらくこの小城から走ってきたのだと思います。それでも、およそ人の速度からは考えられないほど、誰よりも早く」
「信じてもらえないかもしれませんが、彼が現れた時、私は死んでいたのです」
ヴェガリーヤは己の首をさする。
「確かにその時、私の首には、まだ年端もいかない少年兵の短剣が刺さっていました。ああ、この少年のことは恨むまいと、その血に塗れた頬を撫でたのです」
「しかし、私は死にませんでした」
「喉を貫いた短剣はまるで奇術のように、何事もなく地面にカランと落ちました」
そして、とヴェガリーヤは胸の前で手を組む。
「彼は、ヴァルタードは、驚き呆けた私に言ったのです」
「なぜ、お前の足はそっちに向いているのか、と」
「10歳の少年にお前と言われたことに、ちょっと憤慨してしまった自分に驚きました。私は何か、大きなものに支えてれているような安心感に、正常な動きをしている心を感じました」
「私は争いを止めるためだと言いました。すると彼は馬鹿にしたように笑って、お前に止められるのか、と問いました。もちろん答えは否です」
「もし、俺がこの争いを止めることができるとして、お前はその代償を払う覚悟はあるか、と彼は続けました。もちろん私は肯じました」
そこからヴェガリーヤは黙った。
胸の中で、幾度も反芻した言葉の応酬。
もうそれは、彼女の心音に溶けて体を流れる血のように巡っていく。
たとえ死ぬとしてもか
死ぬとしても
それは利他の美徳か?
いえ、我執我欲からです。
なら契約だ。俺がこの争いを止める。その代わり、お前には一生自由はない。
これは悪魔との契約でしょうか。それとも神ですか?
はは、どっちでも好きな方でいい。そうだな、お前は美しいから、悪魔との契約にした方が話が立つだろ。
「彼がそう言ってから、彼は誰一人殺せず、誰一人殺させなかった」
ヴェガリーヤは、これで話は終わりと言わんばかりに、大きなため息をつく。
その青い瞳は、もう現実を見ていた。
「そうして偽物の聖女が生まれたとさ、おしまい」
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