第15話 共に往く


 風烏アエリーゾが冷たい風をひとつ、吹き渡らせた。夜の帳が下りた昊の宝石が強く瞬く。白と黒の神殿の前。始まりの泉カスレフティスの水面にひとつ、波紋が渡った。――それも刹那。

 イーリスとクスィフォスは後方へ疾走はしり出した。

 

「――追え!」

 

 時を同じくして、送者ディミオスの軍勢が聲を上げる。イーリスはすぐさま、背後に回った白服を蹴り上げ、大剣で斬り裂く。クスィフォスは目前で足留めをしようとする白装束の首を長槍で突き刺して横に薙いだ。双つ星の神域はあっという間に赤黒い花弁はなの咲き乱れた。ふたりは白と黒の柱の間を潜り、駆け抜ける。クスィフォスが白服の顎を砕きながら、聲を張る。

「おい、出口どっちだ」

「このまま抜けた先だ。というかお前は何処から這入ったんだい」

「あ――、五月蝿え!どうせ気絶してたよ!」

 イーリスが跳躍し、クスィフォスの後方より忍び寄った白布を蹴り上げる。白布は哀れにも鼻の骨を曲げて崩れ落ちる。イーリスは髪の色を戻したことにより、本来の力を取戻し、より早くより強くなっていた。クスィフォスにはそれが悔しく、己の努力が足りていないのだと思い知らされた。それでも、せめて今、出来る限りの力で隣に立ちたい。無様に捕らえられてイーリスの荷物になるような真似を繰り返したくはない。

 クスィフォスが長槍を回して持ち直すと、聲を張り上げた。

 

「――イーリス!」

 

 イーリスが白服から飛び退くのと同時に背合わせになるようにして立つ。傷が開き、鉄錆が滲み出ていたが、クスィフォスはそれでも明るい聲を出す。

「言っただろう。俺はあんたと共に戦いてえんだ」

「は!?」

 イーリスが素っ頓狂な聲を上げつつも白服の槍の一突きを躱す。クスィフォスはその白服の脇腹を深々と槍で抉る。イーリスは困惑顔で大剣を振るいながら、鴉羽に刃を潜ませた少年の方を向く。クスィフォスはあの黒曜石オブシディアンを爛々と輝かせ、痛みで頬を紅潮させていた。

「あんたの為ならなんだってやれる。それはあんただからだ」

「何を急に……!それに、それはあたしのことを」

 イーリスは大剣で白服の首を刎ね、背を薙ぎ払う。叫喚の中、それでもイーリスは絞り出すように言葉を紡ぐ。

「それはお前が、あたしを知らなかったからだよ……!」

 

「違う」

 

 クスィフォスがイーリスに詰め寄る、顔と顔が息遣いを感じるほどに近くなる。その黒曜石オブシディアンはイーリスの何色でもない透明の瞳を真っ直ぐと捕えて離さない。金剛石ダイヤモンドよりも色鮮やかで、蛋白石オパールよりも澄みきっている。そして朱や靑、黄や翠と色が重なり合って映し出される。――これは、虹だ。雨烏シーネフォの読んだ雨が掛ける天弓だ。何者にでもなれる、架け橋だ。

 (ああ、これは)

 強く美しい、とクスィフォスは思った。まるで彩の地クローマに新たな何かをもたらし得るような、予感。あの日己を暖かな手で掴んだように、きっと彩の地クローマにも手を伸ばすだろう。そうやって己の先を往く――けれども、そんな彼女だから。クスィフォスはくすり、と小さく笑うと目元を和らげた。

 

「あんたが、イーリスだからだ。混色ハオスだとか、純色アグノスだとか、そんなのは関係ない。――どんな髪の色をしていようと」

 

 イーリスは目を見開いた。この奇妙な髪の所為で、何年も孤独ひとりだった。ようやく出逢えた友には先立たれ――最早もうきっと理解し合える者には出逢えないだろう、と心の何処かで諦めていた。

 

 (ああ)

 あの日、あの夜。濡烏の少年を見付けたのは己ではないのかもしれない。彼が、己を見出してくれたのかもしれない。何者にもなれない己を、イーリスとしてくれる、己よりうんと年嵩の浅い少年。何も云わず、隣りにあることを日常としてくれる、美しい少年。そして今、眼の前で優しい眼差しを向けて、己と共にありたいと云ってくれる――ひとりの男。

 (この子は、こんなにも大人びていたのか)

 イーリスはクスィフォスの頬に口吻くちづけした。やんわりと優しく。その黒曜石オブシディアンが驚きで見開かれ、貌を赤くしていることすら愛おしく思える。イーリスはにやり、と嗤ってみせる。

 

「追いついてみな、クスィフォス。共に行くのだろう」

 

 イーリスは疾走はしる速度を上げた。風烏アエリーゾのように颯爽と駆け抜け、次々と送者ディミオスを潜り抜けていく。立ち塞がれば、鮮やかな所作で大剣を操り、音を上げさせる間もなくその首に一筋の抉り傷を残す。

 クスィフォスはさらに頬を紅潮させ、笑みを零した。いつもの、クスィフォスの好きなイーリスだ。舌なめずりするよいに唇を滑ると姿勢を整え、駆け出した。イーリスの元へ。イーリスの隣へ。

 白と黒の向こうに生い茂る繁みが視える。夜の帳が僅かに開け、瞬く翠玉エメラルド紫水晶アメジスト紅玉ルビー灰簾石タンザナイト黄石トパーズ瑠璃ラピスラズリのある昊の地平に黒瑪瑙オニキス金剛石ダイヤモンドの双つ星が僅かに顔を出している。

 

 ふたりは共に疾走はしっていた。上背のあって無骨な体躯をした女と、中背でしなやかな美しい少年。あべこべなふたりは同じ方角へ向かってひたすら、駆け抜ける。クスィフォスは叫ぶようにして言った。

「あんたに相応しい男になって、あんたの隣に立ちたい。だから、待ってろ」

 イーリスは目元を和らげ、白い歯を見せて応える。

「やってみな」

 

 夜の帳が上がった。地平より黒瑪瑙オニキス金剛石ダイヤモンドの双つ星が昇り、周囲を明るく照らし出す。黎明の光の中、ふたりは遠い彼方に消えて行った。

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