第10話 暖かな君


 ずっと傍にありたい、と思った。

 ――初めて遭った、あの日から。

 

 其れは己が生じた翌日の夜だ。夜の帳に覆われた昊は小さな宝石できらきらと目映く、何となしに真闇な樹林もりを未だおぼつかない脚で彷徨っていた。彩の地クローマの民は夜になるとみな、洞穴や茂みの中、樹上などに身を隠して眠るが、その日は眠る気になれなかったのだ。

 

「こら、こんな夜更けに何をしている」

 

 頭上から女の聲が鳴った。冷たい樹林もり外気くうきによく馴染む凛とした聲だ。クスィフォスはぼんやりと見上げて聲主を探すと、聳え立つ樫の木の上に、豊かな黄石トパーズ瑠璃ラピスラズリを垂らした女の姿があった。クスィフォスはあまりことばを識らない。何となく思いついたことばを返した。

「さんぽ」

「……いや、そうなのだろうが。こんな夜更けに出歩くもんじゃないよ。狼が出る」

「じゃあ、そっちいく」

 

 クスィフォスは女の元へ行こうとの幹に手をあてがうも、力が足りず何度も下に下ろされる。それでもむきになって何度も何度も試みていると、ふわり、と大きな手が伸ばされた。

「まったく。可愛い貌を傷だらけにするつもりかい。掴まりな」

 女のその手は、力強かった。軽々とクスィフォスを持ち上げ、樹上へいざなう。木の葉の隙間を潜り抜けて、開けた昊は眩しく、美しかった。何処までも広がる綺羅星には手が届きそうだ。クスィフォスは目を見開き、頭上に広がる佳景けしきに魅入った。

「わあ……すごい」

「ふふ、そうだろう。あたしの特等席さ」

「とくとーせき?」

「そうさ。そこらの混色ハオスじゃあ、この大樹は登れないからね」

「どーして?」

「どうしてだろうね」

 

 女ははぐらかすようにしてにやり、と嗤う。クスィフォスがきょときょとしていると、その大きな手で優しくクスィフォスの頭を撫でた。

「しかし、本当に美形な稚児ゾイーだね。それに漆黒の巫子セリノーフォスかと思っちまうくらいに綺麗な呂髪くろかみにその白銀はよく映える」

「せりのーふぉすってなに?」

「ひとりしか生じることのない、黒の純色アグノスさ。昼に双つ星を見たろう?あの双つ星のうち、漆黒の方の星に仕える巫子さ」

 ふうん、とクスィフォスは小さく聲を零す。クスィフォスを撫でる女の手は暖かかった。クスィフォスへ語りかける女の聲は暖かかった。その手にずっと触れていたい。その聲をずっと聞いていたい。この感情の名をクスィフォスは識らぬが、胸の奥がじんわりと熱くなることだけは知った。

 

 その暖かさを求めたくて、掴んでいたくてその日からクスィフォスは女――イーリスの元へ足繁く通うようになった。

 

「イーリス、弓の使い方や体術を教えて」

 イーリスは集落で一番の狩人だった。誰よりも早く疾走はしり、誰よりも大きな獲物を捕える。熊や狼に遭遇すればひらりと身體を操って、鮮やかに武器を操る。クスィフォスは狩りへ出掛けようとするイーリスにしがみついてせがんだ。

「お前、風邪治って間もないだろう」

「でも治った。俺もイーリスみたいになりたい」

「ははは、そりゃあ頼もしいこった」

 いつもの笑みを浮かべてイーリスが力強くクスィフォスの頭を撫でる。彼女がクスィフォスにまったく期待していないことは直ぐ判断わかった。そのことが酷く悔しく、きっと腕を上げて見せるとクスィフォスは躍起になった。

 

 周囲の混色ハオスからは、

「クスィフォスはイーリスにべったりだ」

「負けず嫌いのやんちゃっ子だ」

 等と笑われたが、それでもクスィフォスは弓や体術の腕を磨くことに必死になった。イーリスが普通の混色ハオスと異なることは直ぐに身を持って知った。どんなに鍛えてもイーリスのようにはなれないし、少し無茶をすれば怪我をするし風邪も引く。

 

「なんでそんなに頑張るんだい?」

 集落の誰かがそう、クスィフォスへ尋ねた。クスィフォスがいつもの走り込みを終えて弓の訓練をしようとしていたときだ。

「そうそう、俺も不思議に思ってた」

「せっかく美形で、愛想よくしてりゃ女なんて選り取り見取りなのに、なんでイーリスに固執するんだよ。」「イーリスって強いけど、美人でもないじゃん。というか俺たち男よりも強い時点で、なあ?」

 口々に捲し立てる集落の者たちに、クスィフォスは貌を顰めた。

「イーリスより弱いからって僻むなよ、糞野郎。俺が好きでやってんだから、構わねえだろ」

「そうだけどよ。守られっぱなしって厭じゃねえの?」

「自分が強くなればいいだけのことだろ」

 

 あの女のそばにあるためには、己が隣に立つに相応しくならねばならない。あの大きな手の暖かさも、あの優しい聲の暖かさも、手に入れるためには己が強くあらねばならない。周囲に哀れまれても、嘲笑われても。それでも。

「クスィフォス!狩りへ行くぞ」

 朗らかに響く、イーリスの聲。己の手を引く暖かな手。白い歯を見せて笑う彼女の隣にいるだけで、心が暖かくなった。彼女にはずっと笑っていてほしい。己の横でずっと聲を、熱を聞かせてほしい。きっと手に入れて見せる。きっと隣に立ってみせる。

 

「――クスィフォス!」

 

 視界の端で、己の名を呼んで大河へ落ちていくイーリスを、クスィフォスは柔らかな眼差しで見送った。


 きっと――……

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