第9話 嵐の強襲


 ごうごうと鳴るの烈風が一層強まり始めた。風烏アリエーゾは離れるどころか、その群れの数を増やしているらしい。イーリスはうつらうつらと微睡みから寝覚めた。眠ってしまっていたらしい。いったいどれ程時が経過ったのか。夜はまだなのか。そんな考えを巡らせて、イーリスは岩穴の外界そとへ出ようとした。――その時。

 

「ぎゃあああ――!」

 

 風烏アリエーゾの轟音をも掻き消すような絶叫が鳴り響いた。イーリスのいる岩場から然程離れていない場所だ。

「まったく、朔でも通常運転かい。奴らも飽きないね」

「イーリス、今の聲って!?」

 あの聲で目を醒ましたらしい。ペオニアの焦燥のある聲が鳴った。暗闇でその容姿すがた表情かおも視えぬが、イーリスは聲のしたあたりへ忍び聲で言い放つ。

「この昏さじゃあ、逃げ場所も定かじゃない。でも他の者も救わねばならない。悪いけど此処に隠れていておくれ」

「え、ええ。わかっているよ」

 応えるペオニアの聲は掠れ、揺らいでいる。イーリスは手探りでペオニアの手を引いて握った。その手は震え、視えぬともひしひしと恐怖が伝わってくる。ペオニアのその手は離すのを躊躇っているようにも思われた。イーリスは胸の痛む思いを感じたが、己の迷いを鞭打つようにして手を離し、大剣を引き抜いた。

 

「行ってくるよ」

 

 イーリスは一言告げ、忍び足で岩場を出た。真闇の外界そと冷気くうきつんざく叫喚で溢れかえっていた。イーリスは音を頼りに駆け出した。

 (みな散り々々になっているから、奴らも手こずる筈だ。その内にできるだけ多くを逃さねば)

 不意に、イーリスの視界の端で僅かに影が揺れた。目を凝らすと、数人の男女が坐りこんで抱き合い、其れをひとりが捉えているように視える。イーリスは大剣を握りなおすと高く跳躍し、そのひとりの首筋を蹴りつけた。ぎゃ、という苦悶の音が鳴らされると、抱き合っていたふたりが聲を上げた。

「イ、イーリスかい!?」

「ああ、そうだ。無事かい」

「擦り傷程度だよ。助かったよ」

 

 びょおびょお泣きながら、ふたりがイーリスに縋り付く。ただでさえ視界が塞がれているのだ。彼らの恐怖は尋常ではない。離れるのを恐れているのか、彼らはイーリスの腕を掴んで離さない。イーリスは低く、ふたりにしか聞こえぬようにして言った

「……あたしの居た岩場は少し離れている。そこにふたりとも、隠れてもらう」

「え、あたしらと居てくれないのかい?」

「他の者を救わねば」

「どうせ向こうはおしまいさ。頼むよ、傍にいておくれ」

「そうはいかない。ほら、立ちな」

 泣き立てるふたりをイーリスは立ち上がらせ、手を引いてペオニアの元へ運んだ。暗がりの中ふたりだけでは歩行あるけないので、連れて行く他ないのだ。これでは手遅れになってしまう。イーリスは焦燥を感じながらもふたりを岩場に押し込み、ふたたび叫喚の鳴る方角へ疾走はしった。

 

「相手は盲蓋めくらも同然!女を探せ。上背のある、でかい奴だ!」

 

 矢庭に真闇から男の聲が響く。どうやらイーリスを探しているらしい。イーリスは茂みに飛び込んで身を隠し、白装束と思われる者たちの動向を探る。彼らは手当たり次第に茂みや岩場を探っては聲を掛け合っている。そのそばには数人の混色ハオス。彼らは昊に還されることなく放っている。

 (そう言えば、さっきのふたりも直ぐに殺されていなかったな)

 不図、イーリスは思い出して思考を巡らす。混色ハオス比較くらべると五感の鋭い純色アグノスといえど、暗闇で視界が悪いのは同じである。態々、すべての混色ハオスを相手していれば、夜が訪れて星の光で視界が取り戻されてしまう。

 (彼奴あいつら、暗闇に乗じて、目の上の瘤であるあたしを始末しようって魂胆か。つまり……)

 

 狙いは己のみ。

 

 イーリスはすっくと立ち上がり、高らかに聲を張る。

「薄ノロ、あたしは此方こっちだよ!」

 その瞬間、送者ディミオスの注意がイーリスへ向けられた。騒々ざわざわと草地を踏みしめる足音がすべてイーリスへ向かう。イーリスは敢えて大聲で彼らを喚びながら、後退して疾走はしり出した。

「追いついてみな」

「追え、追え!」

「捕らえろ!」

 イーリスは音だけの世界を駆け抜けた。ごうごうと鳴る風音が周囲の音を遮断さえぎる故、すべての音を聞き分けるのは至難の業。イーリスは全神経を持って音を聞きながら渓流を飛び越え、茂みを、藪を抜け、ひたすらに進む。追い付かれそうになれば大剣を振るい、跳躍して蹴り上げる。そしてまた進む。最早もう、己は此処までかもしれない。そんな思いが脳裏をよぎるが、それでもイーリスは疾走はしり、大剣で追手を薙いだ。できるだけ遠くに、できるだけ多く。

 

 (しまっ……)

 

 眼前に流れる大河に、イーリスは瞠目し急ぎ足を止めた。この付近の地理に疎いわけではなかったが、あまりに風烏アエリーゾが五月蝿く、路を誤ったらしい。振り返れば三方から白服の追手。このまま河に飛び込めば逃げ遂せるかもしれぬが、其れでは此処に居る追手はみな、後日でも混色ハオスの元へ行くだろう。できるだけ、数を減らさねば。イーリスは唇を噛み締めると振り返り、大剣を振り翳した。

 

「この、馬鹿女!」

 

 矢庭に、少年の一喝が轟いた。イーリスは目を見開き、思わず聲を上げる。

「クスィフォス!?なんで此方こっちに来たんだ!戻れ、この馬鹿!」

 イーリスが説得しようと聲を張るも、前方から呻き聲や叫び聲が次々と鳴り、クスィフォスが向かっていることを知らされる。イーリスは急ぎ大剣を握り直して前方へ疾走はしろうとするも、目前の白装束に立ちはだかられる。

「くそ。こいつ、ちょこまかと!」

「腕力は大したことない、殺れ!」

 送者ディミオスが暗がりの中騒ぎ立てる。その中央でクスィフォスは短剣を振るい、突き進んでいた。白装束の刃が頬を、腕を、背を、脚を掠め、時には肉を抉るが、それでも彼は立ち止まらない。黒曜石オブシディアンを爛々と燃やし、イーリスの元へ向かうことだけを目指している。

 

「クスィフォス、いいから早く逃げな!」

 イーリスがふたたび聲を張る。クスィフォスはその聲を逃さない。全精力を持って聲主の方角へ駆けた。跳躍して目前の白服の肩に飛び乗るとその首筋を抉り、飛び降りて直ぐに別の白服の腱を断つ。横にいた白布の刃が脇腹を刺すが、その得物を掴んで引き寄せてその白布の胸を突き刺す。そうしてまた前へ進み、クスィフォスはイーリスの元へ飛び込んだ。

「逃げるわけ、ねえだろ。馬鹿女」

「クスィフォス、なんで……!」

 クスィフォスの肩に触れると、ぬるり、と生暖かいものが触れてイーリスは口を噤んだ。暗闇で全容ようすは視えぬが、少年の荒い呼吸音と鼻を突く鉄錆の臭いで、彼は満身創痍であろうことは知れる。

 

「言っただろう、あんたの無茶は放って置かねえって」

 

 刹那。 

 クスィフォスがイーリスを突き飛ばした。きっと最後の余力をすべて振り絞ったのだろう。イーリスは留める事もできず、大河へ放られる。イーリスの視界の向こうで、クスィフォスがにやり、と嗤った。

 

「――クスィフォス!」

 

 イーリスの叫びは虚しく木霊し、掻き消された。

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