第8話 白刃刺す


 混色ハオスの行列は切り立った岩場でその歩を滞らせた。静かだった風烏アエリーゾが群れをなして嵐を呼んだのだ。ごうごうと音を立てて木々の枝葉を巻き上げて、渓流の水を激しく唸らせる。仕方無しに岩場の隙間や大樹の下でみな、足を休めて風烏アエリーゾの群れが過ぎるのを待った。

 

「なかなか、止まないな」

 

 岩穴の中でイーリスは独り言ちた。その傍らでイーリスとともに坐して昊を見上げていたペオニアがこくり、とひとつ頷き、口を開く。

 

「これは夜になっても止まないかもしれないね」

「はあ……朔でただでさえ視界が悪いってのに」

「まあ、それは純色アグノスも同じだろうけど」

「彼奴らは混色ハオスより動くものをよく捕える目を持ってるからね。油断ならないよ」

 

 イーリスが言い終わると、ふたりの間に静寂が下りる。風烏アエリーゾの唸り聲ばかりが響き渡って、それ以外の音をすべて掻き消されてしまう。どれ程経ったのだろうか。イーリスが何となしに傍らを見ると、ペオニアは膝を抱えて蹲り、すうすうと寝息を立てていた。

 

 (疲弊つかれていたんだね……)

 イーリスは目元を和らげると、己の外套マントをペオニアの肩に掛けてやった。

 

「イーリス」

 

 唐突なクスィフォスの静かな聲が頭上より降り、イーリスは心の臓が止まりそうな思いをした。面を上げると、其処には濡烏の少年。襤褸の外套マントをはためかせて、岩穴を塞ぐようにして立っていた。イーリスは聲を絞り出すようにして、ことばを零す。

 

「どうしたんだい?」

「……なんだ、ペオニアは寝てんのか」

「ああ。流石にずっと歩行あるき通しだったからね」

 

 それもそうだな、と呟くと、クスィフォスがずいと革の水袋をイーリスへ押し付けた。

「あんた、ずっと何も口にしてねえだろ。せめて水は飲め」

 暫し、イーリスは眼を瞬かせた。

「ああ……そういや時期タイミングを逃していたね」

 恐々と手を伸ばして水袋を受け取り、イーリスは水を煽った。よほど乾いていたらしい。水が酷く美味く感じた。目前に佇むクスィフォスの表情は暗闇で視えない。せめて夜の帳が下りれば綺羅星の光で視えるのだが。何となしに気不味くなるとイーリスは目を伏せ、真闇まくらで視えない足許を見詰めた。 

「……クスィフォス」

「何?」

 クスィフォスのその聲は普段いつもと変らぬ冷ややかな聲音こわね。イーリスは気不味くなり目を泳がせるも、それでも口を開く。

「そんな処に立っていたら、寒いだろう?……中に這入ったらどうだ?」

 

「いいのか?」

 

 しんとした、鋭さのあるクスィフォスの聲に、イーリスはぞくり、とする。

 (この子の聲は、こんなにも大人びていただろうか)

 イーリスは俯向いた。瞳を揺らし、言い淀む。するとクスィフォスが静かに続ける。

「矢っ張り、昨夜のこと意識してるんだろう?」

「……あのな、クスィフォス」

「どうせ、気の迷いではないのか、だとか勘違いなんじゃないのか、だとか聞くんだろ」

「……」

 図星を指されて、イーリスはぐうの音も出せない。ちらりと横へ視線を送ると、真闇な向こうで薄ぼんやりとしたクスィフォスの影が僅かに揺らぎ、やおらイーリスの腕が引かれた。

 

「わっ、おい、クスィフォス!?」

「先に断っておくが、俺の気持ちは気の迷いでも勘違いでもないからな」

 イーリスの耳元でクスィフォスの低い声が鳴る。僅かに熱の籠もった息が掛かり、イーリスは赤面し、クスィフォスの腕を押し退けようとするが敵わない。イーリスは上擦った聲を張る。

「糞餓鬼、年寄りのばばあを揶揄るのも大概に……!」

「誰が揶揄ってるって?」

 イーリスの腕を掴むクスィフォスの力が強まり、真闇まやみの中で、ぎらりと黒曜石オブシディアンが妖しく光る。少年が男の貌をして嗤っているように思えた。そのことがとてつもなく恐ろしく感じ、イーリスは全身の力でクスィフォスの腕を振り解き、後退った。 

「クスィフォス、いい加減、冗談は止せ」

「……俺は一度も冗談は言ってねえよ」 

 クスィフォスの気配が僅かにイーリスから離れる。彼も後ろへ下がったのであろう。内心で安堵しているのを感じずにはいられない。イーリスは俯向いて黙した。クスィフォスも数瞬黙りこくったが、静かに口を開いた。

 

「俺は、あんたの為ならなんだってやる。あんたが触れるなって云うなら触れないし、死ねって云うなら死んでやる。でも、あんたがひとりで無茶するのだけは見過ごさないし、聞き届けてやらない。俺はあんたに守られる存在じゃなくて、あんたと共に戦う存在になりてえんだ。あんたの隣に立てる男に、なりてえんだ。――だから、少しは俺を頼れよ」

 

 クスィフォスの低い聲は何処までも静かで淡々としている。まるで知らない誰かを目前にしているようで、イーリスは動揺を隠せない。言葉が何も音にならず、ただただ、俯向いてやり過ごすしかイーリスには出来なかった。そうしてずっと沈黙を貫いていると、クスィフォスの気配が岩穴を離れ、何処かへ行ってしまった。

 

「クスィフォス……?」

 

 よろよろと面を上げ、呼んでみるも返事はない。イーリスは己が脱力するのを感じた。いったい何時から?だとか、いったい何故?だとか、取り留めなく疑問は湧いてイーリスの心の内に沈殿たまっていくが、混乱した思考では何ひとつ絡め取ることができない。それらは汚泥のように固まっていき、しこりのように歯痒さばかりを生んだ。

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