第5話 夜凪


 洞窟の内部ないにしんとした静寂が訪れた。イーリスは肩を竦めるとクスィフォスが置いた牝鹿を持ち上げた。

 

「取り敢えず、動ける者で夕餉の支度をしようか。クスィフォスがせっかく捕獲つかまえたんだ」

「わあ!立派ね」

 

 ペオニアもイーリスに合わせるようにして明るい聲を上げる。クスィフォスは黙して洞穴から外界そとへ出て行った。クスィフォスと言い合った混色ハオスの者たちも膨れっ面をして口を噤んでいる。

 

「……まったく、こんなときに喧嘩なんて」 

 イーリスは溜息を零した。ペオニアは苦笑いをして牝鹿を捌く支度を進める。クスィフォスに作られた瘤を擦りながら、土耳古石ターコイズの男は低音で尋ねた。

 

「なあ、イーリス。あんた、やろうと思えば純色アグノス相手でももっと動けるだろう」

「はは、過大評価が過ぎるよ。あたしもみなと同じ、混色ハオスであることを忘れていないか」

「でも俺たちを守ろうとしなきゃもっと動けるはずだろ」

 

 まっすぐと向けられた土耳古石ターコイズに、イーリスは困り顔をする。

「あたしがみなを見捨てて、闘うのに専念するはず、ないだろう」

 

 イーリスの言葉にぐうの音も出ないらしい。土耳古石ターコイズの男は項垂れて黙りこくった。イーリスはついと貌を背けてペオニアの横に膝を付いて坐した。ペオニアは火傷のある手で手際よく牝鹿の肚を裂いて皮膚かわを剥ぎ、臓物を破らぬように肉を切り分けていく。不図ペオニアは手を止めると、柔らかに笑った。

 

「イーリス。あんたはクスィフォスの処に行っておいで」

「男たちの喧嘩だろう?あたしが行っても何も変わらんよ」

「そうかもしれないけれど。あの子にとって、イーリスがすべてだからね」

「……?」

 

 ペオニアの言葉にイーリスは小首を傾いぐが、ペオニアは再度ふたたび牝鹿へ視線を戻している。仕方無しにイーリスは岩壁に立て掛けておいた大剣を拾って立ち上がり、クスィフォスの後を追うことにした。

外界そとは夜のとばりが下ろされていた。何処か遠方から狼の仲間を呼ぶ聲が鳴り響く。風鳥アエリーゾはすっかり姿を潜ませ、風は凪いでいる。昊一面には小さな無数の宝石。流れるものはない。イーリスは洞窟の周辺を歩行あるき廻った。外気くうきが凍てついたようにひんやりとして、一層静寂のもの寂しさを感じさせる。

 不図、イーリスは樫の大樹の前で立ち止まった。見上げれば、樹上には濡烏の少年。

 

「クスィフォス、こんなところにいたのか」

「……なんだよ、イーリス」

 

 イーリスを見下ろす黒曜石オブシディアンは平静を取り戻し、冷ややかなものになっている。イーリスはにやりと微笑んで見せる。

 

「ペオニアが夕餉の支度をしていていてね」

「で、邪魔だから追い出されたのか」

「……お前ねえ」

 

 クスィフォスはついと貌を背け、昊へ視線を反らした。イーリスは苦々しく笑う。復讐に燃える者があるのも仕方もないことだ。彼らは友や愛する者を殺されたのだ。死してでも一矢報いたいと思うのであろう。イーリスは樹の幹に背を預けて洞窟へ視線を向けると、思い出したようにくつくつと嗤った。

 

「しかし、最年少のお前にこてんぱんにされて、カーシウスも哀れだな」

 

 カーシウスとは土耳古石ターコイズの髪の男のことだ。クスィフォスは小さく鼻で嘲笑うと、吐き捨てるようにして言った。

 

「あいつが弱いんだよ」

「お前はちっこいころからよく鍛えているからな。風邪もひきやすいくらいに虚弱だったのに、よく頑張ったよ、お前は」

「……」

 

 クスィフォスは何も返さない。イーリスは肩を竦めて嘆息した。昊を見上げれば、矢張り満天の綺羅星。昨夜の騒動を知らぬかのように普段いつもと何ら変らない。イーリスは静かに、口を開いた。

 

「……他の混色ハオスの集落も、送者ディミオスに強襲されているのかもな」

 

 純色アグノス混色ハオスをすべて滅する算段つもりなのかもしれない。そうなると、イーリスたちもこうしてのんびりとこんな処にいる場合ではないだろう。きっとあの送者ディミオスの軍勢はイーリスたちの集落を探して、滅ぼさんとするに違いない。

 

 クスィフォスは呆れた様子で小さく言葉を吐き捨てる。 

「寧ろ、俺たちだけが襲われるいわれがないだろう」

「確かに、ね」

 

 イーリスは僅かににっと口端を持ち上げるも、すぐに表情いろのない貌にする。大剣へ視線を下ろすと思考へ意識を定め、傷だらけの大剣の柄を撫でた。長いこと使い古した相棒でもある大剣は刃毀れや錆が目立ちはじめていた。手入れをしようにも、こんな森の奥深くには何もない。

 

(なんでまた、急にこんなことをする気になったのやら)

 

 混色ハオスは生まれながらに、出来損ないの彩の地クローマの民として忌避の対象だった。故に邑や町、神殿への出入りを禁じられてはいた。されどこうも虐殺されるようなことはなかったのだ。

 

 (そういえば、ずっと雨烏シーネフォが雨を呼んでいないね。それに漆黒の巫子セリノーフォスがが生じる気配もない)

 

 彩の地クローマにはふたりの巫子がいる。黒と白の双つ星の聲を聴き、雨烏シーネフォに雨を降らすように呼び掛ける、ふたりでひとつの巫子だ。逆に言えば、二人揃わなければ巫子としての機能は弱まってしまう。

 (巫子が欠けているから干ばつなのか。それとも他に何か要因があるのか。どちらにせよ、このままでは純色アグノスの邑や町で死者が出て、不満が募るだろうな。まあ無論、混色ハオスでも死人は出るだろうが)

 

 刹那。

 

送者ディミオスが出たぞお!」

 洞窟のある方角からつんざくような悲鳴が轟き、深森しんしんの静寂が打ち破られた。

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