第4話 泥に拘る


「行射の腕、上げたねお前」

 

 深い林道の中、イーリスが感心の聲を上げた。イーリスの腕には水の貯められた水瓶。その横をゆくクスィフォスは一頭の牝鹿を担ぎ、数羽の兎の耳を掴んでいる。低く唸るようにしてクスィフォスは言葉を絞り出す。

 

「……今更かよ」

「それにお前、筋力ちからも付けたね。混色ハオスにしては足も速いし」

「それも今更かよ。それと……」

 

 クスィフォスの眉間に皺が寄せられる。混色ハオス純色アグノスに比べると非力である。中には虚弱な者もある。純色アグノスに追われれば敵うことは滅多にないし、そもそも重量のある武器を扱うことが難しい。故に糧の確保には行射や罠の腕で補うが、猪すら持ち上げるのに難儀することが多い。クスィフォスはやや悔しそうにぼそり、と言葉をこぼす。

 

「熊を片手で担げるあんたにだけは云われたくない」

 

 イーリスはクスィフォスの棲んでいた集落で一番の力持ちである。クスィフォスの身體や武器の扱いはすべて、イーリスから学んだともいえる。イーリスはからからと笑った。クスィフォスは低く、吐き捨てる。

 

「このゴリラ女」

「お黙り」

 

 イーリスに足を踏み付けられ、クスィフォスは小さく呻く。イーリスは愉快そうに笑うと、ひらりとクスィフォスの先へ躍り出て振り返った。

 

「まあ、それがあたしの取り柄だからね。安心をし。必ずお前たちはあたしが守護まもってみせるよ」

「……あんた。そのよくわからない責任感、いつまで持っている気だよ」

 

 クスィフォスの悪態にイーリスは苦笑で応じ、踵を返す。イーリスは昊を仰いだ。あの双つ星は既に天頂高く上がり、燦然と輝いて樹林の木々を蒼々あおあおとさせている。イーリスは小聲で独り言ちる。

 

「お前たちはあたしを唯一受け入れてくれたんだ。あたしはその恩を決して忘れないよ」

「……何か云ったか?」

 

 イーリスの言葉を聞き取れず、クスィフォスは貌を顰める。イーリスは視線を目前にある、茂みに隠された洞窟を見据えた。

 

「いいや、何でもないよ」

「何だよ、明瞭はっきりしねえな……」

 

 クスィフォスは担ぎ上げた牝鹿を担ぎ直すと、イーリスの横へ駆け寄る。一瞥すると、イーリスは柔和な微笑みを浮かべていた。

 

「お前、みすみす彼奴あいつらの餌食になるつもりか!」

 

 洞穴を轟く男の一聲に、イーリスとクスィフォスは立ち留まった。目前には数人の男女おとこおんなが向かい合って何やら口論しているもよう。イーリスは貌を顰めて、壁沿いに坐していた金紅石ルチルの髪の女へ聲を掛けた。

 

「ペオニア、これはいったい何事だい?」

「ああ、イーリスとクスィフォス。おかえりなさい。これから如何どうすべきか、で意見が割れちまったんだよ」

「意見?」

「このまま何処かに隠れて過ごすか、一矢報いるために立ち上がるか、だよ」

「何を血迷ってんだ……阿呆か」

 

 牝鹿と兎を下ろして、クスィフォスが小さく言葉を零す。イーリスもクスィフォスの意見には同意で、混色ハオス純色アグノスに、而もあの送者ディミオスの軍勢に勝てるはずがないのだ。口論をしていた者のうちのひとりが食い入るようにして聲を張る。

 

「何を云っている!我々にはイーリスがいるだろう!」

「は?」

 

 その言葉に、クスィフォスが眉を顰めた。だが少年の聲が彼らに届くことはなく、激しさを増して続ける。

 

「そうよ!きっとイーリスがいれば何とかなるさ!」

「そうだそうだ!今回は不意をつかれたが、我々だって……!」

彼奴あいつらだって、混色ハオスが攻めてくるなんて露程も思ってないだろうから、やるなら今だ!」

 

 当のイーリスを置き去りに、混色ハオスの論者は口々に言い合う。イーリスは頭を抱えるも、傍観することとした。ああも興奮しては何を言っても聞く耳を持たぬであろう。然し、クスィフォスは違った。ずんずんと彼らの元へ往き、拳を一発見舞ったのだ。

 

「何、世迷い言をほざいてんだ、糞野郎」

 

 クスィフォスの轟きに、イーリスは眼を瞬かせた。クスィフォスの強打を受けた当人は頭を抱えて蹲っている。その横に居た、浅葱あさぎ灰白色かいはくしょくの入り混じった土耳古石ターコイズの髪の男がクスィフォスの胸倉を掴んだ。

 

「お前、何しやがるんだ!餓鬼はすっこんでろ!」

「だから、俺はもう稚児ゾイーじゃねえよ!すっこむのはあんただ。何勝手にイーリスを巻き込んでるんだよ」

「イーリスだってこの集落の一員なんだ!我々とともに行動するのは至極当然のことだろう!」

「だからって自殺に付き合わせる道理はねえよ!」

 

 クスィフォスは相手を掴み返し、地に叩き付けた。男はクスィフォスを振り払おうと藻掻くが鍛え上げられたクスィフォスの腕はぴくりとも動かない。クスィフォスは男の胸倉を掴んで引き寄せると、低く言葉を吐きつける。

 

「死ぬならあんたらだけでやれ。イーリスを危険な目に合わせてみろ。あんたから昊へ還してやる」

 

 獲物を捕らえた獣のように爛々と光る黒曜石オブシディアンに、男はたじろぐ。周囲の論者たちもクスィフォスの気迫に気圧され、身動きひとつできずにいる。

 

「そこまで」

 

 両者の間にイーリスは割って這入り、クスィフォスの腕を掴んだ。

 

「あたしは気にしてないし、無謀なことにみなを連れて行く算段つもりもない。だからクスィフォス、落ち着きな」

「……わかったよ」

 

 クスィフォスはようやく男の胸倉から手を離した。イーリスは周囲を見渡して言う。

 

「あたしはこの集落に世話になっている身だ。だから、みなの決定には従うし、可能な限りみなを守ってみせる。けれど――できれば、勝算のないことはしてほしくないんだよ」

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