第3話 黒曜石の少年


 夜のとばりが開かれ、双つ星の黎明の光が地平を照らす。双つ星は重なりを増やして、黒い星が白い星の裏に僅かに隠れている。荒々しかった風烏アエリーゾの群れは姿を潜ませ、静かな風を時おり渡らせる程度。

 

「まったく、なんて無茶をするんだ」

 

 薄暗い、洞穴の中。イーリスのいた集落から北方に位置する洞窟だ。その一角で澄んだ少年の聲が澄み渡った。濡らされた手拭いで煤けた己の身體を拭いながら、イーリスは応える。

「いや、直ぐに合流するつもりだったんだよ」

「俺が行っていなかったら、今頃あんた灰になってなってたんだぞ」

 

 イーリスの傍らで、ひとりの少年がふたたび聲を張る。聲のした方角ほうへ視線を向けると、鋭い黒曜石オブシディアンの瞳を半眼はんなまこにしている少年の姿。酷く顔貌の整った美しい少年で、艷やかな濡烏に刃のような白銀を一筋走らせている。イーリスは困り顔で頬を掻いた。

「クスィフォス……悪かったよ」

「そう思うなら、今度からせめて俺を呼べ」

「そうは云っても、児童こどものお前を危険な目に合わせるわけには……」

 

 クスィフォスの指がイーリスの額を弾く。眉間に皺を寄せ、一層不機嫌な面構えをしてクスィフォスは聲を張る。

「いつまでも餓鬼扱いすんな!俺が稚児ゾイーだったの、何年前だと思ってんだ」

「二十年くらい前……」

「正確な数字は聞いてねえよ、くそばばあ

 

 今度は頭突きを喰らい、イーリスは頭を抱えた。その傍らでふたりの様子を見ていた金紅石ルチルの女がからからと笑う。 

「相変わらず仲のいいねえ、あんたら」

「ペオニア見てたのかい」

 

 イーリスは額を擦りながら応える。ペオニアは癖のない金紅石ルチルを結いながらくすくすと微笑んでいる。負傷した貌の半分を布で覆い、剥き出しの腕にも火傷痕がある。昨晩の痛々しい名残に、イーリスは僅かに貌を歪めた。

 この洞穴には、送者ディミオスの軍勢から逃れた混色ハオスが身を寄せている。みな、負傷し疲弊し、憔悴しきっている。されどイーリスは昏い貌をすぐに隠して、すぐに明るい聲を上げる。 

「まったく、ばかりの頃はあんなに可愛らしかったのに。背ばかり伸びて、生意気になったもんだ」

「おい、過去を捏造するな」

 

 低いクスィフォスの一喝。何気ない会話に励まされたのか、ペオニアを含めた周囲の混色ハオスがからからと笑った。 

「そうは言っても、イーリスの背は抜けなかったんだな、坊主!」

 見物人のひとりが囃し立てる。苔瑪瑙モスアゲートのような深緑しんりょく深藍しんあいの髪をした男だ。クスィフォスは決して短躯ではない。イーリスが男ばりに上背があるのだ。それ故、イーリスとクスィフォスの背丈は然程違いがない。クスィフォスは眉を顰めると、その男に濡れ布巾を叩き付けた。 

「五月蝿え、あんたは大人しく寝てろ」

「ははは」

 

 苔瑪瑙モスアゲートの男は乾いた笑いを零す。彼は重症で、全身を酷い火傷に覆われていた。小さく嘆息すると、クスィフォスは地面に放ってあった矢筒と弓や短剣を拾い上げて立ち上がった。 

「水、汲んでくる。あと、喰いもん探してくる」

「あたしも行くよ」 

 イーリスも立ち上がった。ふたりは比較的軽症なのだ。クスィフォスはイーリスを一瞥すると、黙してイーリスの提案を受け入れた。

 

 外部そとへ出ると、双つ星はだいぶ昊高くまで昇っていた。鬱蒼と茂る木々の隙間からこぼれ落ちる光の粒は弱く、しんと静寂に包まれている。ひんやりとした外気くうきにイーリスはふう、とひとつ息を付いた。

 

「今日は冷えるね。外套マントを貸そうか?」

「……」

「水瓶、重いだろう。あたしが持つよ?」

「……」

 

 返事をせずにずんずんと先を往くクスィフォスに、イーリスは頬を掻く。 

「そう不貞腐れてくれるなよ、クスィフォス。昨日のことを未だ怒っているなら謝るよ。本当に悪かった」

「思ってもないことを云うな」

「……」

 

 イーリスは眼を泳がせる。矢庭にクスィフォスは振り返ってイーリスを睨め付けると、低く聲を漏らした。 

「あんたに気を遣われるほど、俺は軟弱やわじゃねえよ」

「いや、ね。二百も年齢としの下なのだから、気にするなという方が難しいよ」

 

 イーリスは苦笑いを浮かべながら、クスィフォスの隣に駆け寄った。彩の地クローマの民は長寿だ。容易に何百年も年齢としを重ねる。彩の地クローマの民には家族というものはない。されどイーリスにとって、クスィフォスは「弟」に値する存在だ。それは彼を生じた頃から見守っていた所以かもしれない。

 

「ほら、そう怖い貌をするな、クスィフォス。せっかくの美形が台無しだよ」

「何を台無しにするんだよ」

「若しかしたら将来、共に相手ができるかもしれないだろう?そんな貌をしていたら女人が怖がってしまうよ」

 

 昊へ共に還る。それは、彩の地クローマの民の風習だ。愛する者と共に死すと、ともにひとつの星になり、ひとりの稚児ゾイー――新たな彩の地クローマの民になる。小さく舌打ちをすると、クスィフォスは小さく応える。 

「そんな心配、あんたにされる必要ねえよ」

「そうはいかないよ。お前をずっと見守ってきたんだ」

 イーリスの言葉にクスィフォスが眉根を寄せると、ずいとイーリスに詰め寄った。

 

「だから、あんたにそれを言われるんじゃあ、意味ねえんだよ」

 

 真っ直ぐにすべての光を掴んで離さぬ黒曜石オブシディアンに、イーリスは息を呑み言葉を失った。

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