これが神業よ。

 ふと目の前に灯りが飛び込んできた。人工の灯りだ。小さな一軒屋が建っていた。何もなかったはずの砂浜にレンガ造りの佇まい。波の音が遠のいていく気がする。駅まで歩こうと思っていたはずなのに、そのレンガ造りの家へ吸い込まれるように足がそちらに向かっていた。一軒屋の扉がひとりでに開く。招かれている気がする。魔法だろうか。そんな気配は感じなかったから実は内開きの自動ドアかもしれない。扉の横に立て掛けられた看板には『神業』と達筆な行書体で書かれていた。苗字か? いやいや。中に入るとカランコロンとベルが鳴った。はーいと間延びした声。たぶん女性だ。その声になぜかホッとしている自分がいる。短い廊下の奥には、扉が一つ。左右にはオシャレな絵画が飾られていた。奥の扉が開いた。エプロン姿の女性が出てきて、パタパタと駆けてくる。胸に店主と名札をつけていた。外の看板の『神業』は店名ということだろうか。


「いらさーい。ヘアサロン神業にようこそ」


 ネーミングセンスの欠片もないサロンだな。とは言わないでおいた。ついでに接客態度もよくなさそうだ。学生だからなめられているのかもしれない。いや、正確には『元』学生か。なにせ辞めている。


「今日はどうします?」


 メニューを訊かれているのだろうが、普通その言葉は席についてから訊いたりするものだと思うが。あいにく髪を切りにきたわけでもないし、お金もない。これでは早々に駅に向かった方が幾分かマシではないか。


「あの、道に迷って」

 

 嘘だ。立ち去る口実には十分だろう。


「安くしとくよ。パーマ三万円でしょ、ヘアカット五千円」


 人の話を訊けよ。しかも安くない。


「シャンプーは……三千円でいっか。あ、素泊まり無料ね」

「素泊まりで」


 ヘアサロンなのに素泊まりがメニューにあるというのは驚きだ。しかも無料。

 私は無料という言葉にとても弱かった。


「はーい。一名様。ごあんなーい」

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