2023年10月18日 ユーモラスの傷

ユーモラスの傷。

僕の好きなYouTuberはとてもユーモラスな方なのだが、かなり溜まっていたらしい。Xで数十年分の毒を吐き出していた。

ユーモラスであることには大きすぎる代償がある。

今日は思考実験をしてみようと思う。題して、ユーモラスであることは生きる上でメリットがあるのかどうか。


メリット

一、周りの人が楽しい、明るい雰囲気を楽しむことができる。

一、周りの人を笑わせるカタルシスを味わうことができる。

一、周囲の人からの評判の上昇

一、自己肯定感の上昇


こんなところだろうか、続いてデメリット

一、いじってもよい空気感ができる。雑ないじりをする輩が出てくる。

一、意見が通りにくくなる。周囲と同程度の内容でも棄却されることがある。

一、ぞんざいに扱われることがある。


メリットのベクトルは他人に向かっているのに対し、デメリットのベクトルは自分に向かっている。つまりユーモラスであるには奉仕の精神が必要である。

赤ちゃんは生まれながらにしてよく笑うように、人間には本来奉仕の精神が備わっている。しかしそれは周囲の環境が良好である場合に持続する。


当初はユーモラスな人間性を尊敬していた周囲の人間も、長年の付き合いによりそれが当たり前になり、いつしかユーモラスであることを本人の特性と勘違いしてしまったのである。しかしユーモラスさは断じて自然に発生するものではない。


ユーモラスであるには能力が必要である。例えばイギリスではコメディアンは頭脳明晰な人間でなければなれない。人を笑わせるには客観的思考力と言語力が必要であるからだ。

そしてユーモラスであり続けるには、新しいネタを仕入れなければならない。普段から面白いことをストックしておく努力が必要なのである。


さて私の実体験だが、私も人生の幾ばくかのタイミングでユーモラスな人格を演じたことがある。

一回目は小学校6年生の時、当時私は児童会に所属しており、その会が好きだったため、場を楽しい時間にしようと努めていた。

しかしユーモラスであり続けると問題が発生したのである。一つ目は、仕事の成果が軽視された点である。私がユーモラスな人格を演じていたことにより、仕事も不真面目に行っていると思われたのである。全くもって心外である。

二つ目は、私の意見が適当であると思われた点である。これも心外である。意見を表明する場と普段の雑談とを同一視されては困る。私が不満をこぼしたことで解消されたが、その程度の分別はつけてほしいと思ったところである。

だが、このエピソードに関しては私もあまり問題視してはいない。所詮小学生の記憶であり、私の方が本当にふざけ倒していた可能性もある。事実、私は何の意見を具申したか覚えていない。


二回目は専門学校の2年生の時である。当時勉強にも慣れてきた私は、久しぶりにユーモラスさを解放して楽しく過ごそうと考えたのである。

やはりユーモラスであることは楽しかった。自分や協力してくれた友人の発した言葉、行動、作品で爆笑をかっさらうのは気分がよい。すがすがしい気持ちになる。

しかしやはり問題は発生する。いじられるのである。

断っておくが、私は人を笑わせるのは好きだが、笑われるのは嫌いである。よっていじりに対する私の対応は非常に冷淡である。これは考えてみれば当たり前の話で、

誰しも殴るのは好きだが、殴られるのは嫌いなはずである。もちろん私は殴るのも嫌いだが。

三回目の話は……脱線しているのでいつかにしよう


私の場合プライベートでユーモラスさを解放しているので、雑ないじりは無視することができるが、同氏の場合YouTuberとして動画に残る上、ある種芸人的な立ち回りをキャラクターに強要されるので、回避のしようがない。これは誠に辛い話である。なぜなら我が国において、笑わせると笑われるの区別はまだついていないからである。


さて、ユーモラスであることのメリット、デメリットをどうするかという話であったが、私は常日頃からユーモラスさを解放すべきか悩んでおり、では実際どうしているかというと、結論として解放することは辞めている。

確かに一時的には楽しい気分になれる。周囲も明るくなるのだが、長期的に見るとやはりぞんざいな扱いを受けることが多く。意見も通りずらくなり、ボーナスも低く留まってしまったからである。

自分の仕事の成果が軽視されることほど辛いことはない。同氏もよくクリエイティブな作品を発表しているが、いつからか彼のクリエイティビティは殿堂入りしてしまった。

ミス・パーフェクトと呼ばれたアイススケート選手がいた。彼女は努力の鬼で、一つのミスも許さない選手であった。しかしミス・パーフェクトとは、世間が呼んだのである。やがて彼女もその肩書を意識するようになり、ミスしてはいけないと思うようになった。やがて彼女は大技を本番で披露できなくなった。

同氏も、もはや笑いをかっさらって当たり前のように扱われてしまっていた。

プレッシャーは問題ではない、同氏の努力が当たり前のように扱われたのが問題である。


人は自分の仕事を軽視されると、絶望するのである。やがて悲しみ、怒りに転じ、その不満はニトログリセリンのようにほんの少しのきっかけで大爆発を起こすのである。


結論として、この国でユーモラスさを演じる道理はない。

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日記 @RyuAquaLooso

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