第7話 置かれていた本
そんな夢を自分がどう感じているか、あるいは、自分に言い聞かせているのかは分からないが、本能で見る夢を、自分の意識や、ましてや、意志というものは、
「いかに夢に対して影響を与えているのだろうか?」
と感じてしまうのであった。
特に最近感じる夢というのは、
「何かのスパイラルのようではないか?」
と思うようになったのだ。
言い方は変だが、
「夢の中で、別の夢を見ている」
という感覚になるのだ。
「夢を見ている」
という思いは、そもそも、前提としてあり、まず考えるのが、
「それが、本当に自分の夢なんだろうか?」
という感情であった。
確かに、自分が見ている夢なので、
「自分の夢に違いない」
といえるのだろうが、
「自分の夢の中では、自分の意識していることしか見ることができない」
と思えるのだが、実際にはそうではなく、知らないことも夢に見ているように思うのだ。
その時に意識するのが、
「ドッペルゲンガー」
というもので。
「ドッペルゲンガーというものには、いくつかのパターンがあると言われていて、そのうちの一つに、自分の行動範囲でしか存在できないということがある」
というものである。
それを聞いた時、
「ドッペルゲンガーの正体って、実は夢なんじゃないか?」
ととっさに思ったが、今から考えても、その発想には一定の納得できる説得力があるように思えてならない。
それを考えると、
「もう一人の自分を、夢の中で感じるという理屈も、あながちウソや、錯覚ではないのかも知れない」
と感じるのだった。
「夢を見ている自分と、主人公を演じる自分」
同じ自分でも、別の自分なのだと思うのだ。
さらに、
「夢を見ていて、一番怖いと感じる夢は何だ?」
と聞かれたとして、まず、真っ先に思いつくのは、
「夢の中でもう一人の自分を感じた時」
と答えるだろう。
とっさにも答えられるというのは、普段から、夢の中に、もう一人の自分が存在していることを納得しているからではないだろうか?
つまりは、
「普段から意識していることを必要以上に意識しなければならないと思うことで、その恐怖が倍増する。逆にいえば、恐怖が倍増することで、その根拠や信憑性を表しているのではないか?」
といえるのだと、自分で解釈しているのであった。
「自分を納得させるというのは、時として、自分に残酷なのかも知れないな」
と、自分に納得させるという、そんな考えもあったのだった。
そんな、
「夢のスパイラル」
を、最近感じるようになると、目が覚める自分が、それまでとは違った目覚めの仕方をしているように感じられた。
最近というのは、夢の世界が絡んでくると、時間の感覚がマヒしているように感じるので、おおざっぱにしか感じられないが、一つ言えることとしては、
「学校を変わって、つまり、異動してからの、ここ三年間の間くらい」
ということになるだろう。
もちろん、家もまわりもすべてが変わったので、
「環境が変化した」
ということで、眠っている世界も変わったといってもいいだろう。
最初になってこそ、
「どんなにまわりの環境が変わったとしても、夢の中でのことには、まったく影響がなく、変化などしていないのではないか?」
と思うようになったが、考えてみれば、これが当たり前のことであり、実際に、異動してきてすぐは、目が覚めた時、
「ああ、そうだ、俺は転勤になって、引っ越したんだ」
と改めて感じさせられた。
そのうちに、転勤したことを目が覚めても感じなくなったのは、
「環境に慣れてきたから」
と思ったのと、
「感覚がマヒしてきたからかな?」
と感じたことであったが、後者こそ、
「自分に夢というものの本質であったり、時間の感覚というものを意識させることになったのではないか?」
と感じさせるものであった。
それを思うと、実際の感覚が、夢で感じていることを、後追いの形で、後ろから追いかけているように感じた。
それはポールを回るように、グルグル落ちていくもので、それがまるで、
「負のスパイラル」
というものを感じさせるというものではないかと思わせるのだった。
あの部屋で黒電話の音が響いたのを感じるようになってから、1週間が経ったが、ほぼ、毎日、黒電話の音が聞こえた気がして、その瞬間に目が覚めるのだった。
時間が、それこそ、
「草木も眠る丑三つ時」
といってもいい時間帯であり、完全に熟睡している時間だ。
何度か、
「音を確かめてみよう」
と思い、夕方から少し眠って、深夜起きていることにした。
幸いにも、午後八時くらいから、いつも睡魔に襲われ、それを我慢することで、いつもの就寝時間である、十二時くらいまでもつ毎日だったが、逆に、八時頃に我慢せず、眠ることができれば、目が覚めるのが、翌日の1時頃となり、丑三つ時に差し掛かる態勢が出来上がるのだった。
「絶対に、午後二時以降と限らないかも知れない」
と思ったのは、一度は、黒電話の音を、睡魔に襲われるという中途半端な時間帯ではない時に確かめておきたかったのだ。
その日は、目が覚めてから、じっと、静寂の中、いつ鳴るのか? そもそも、鳴ると決まっているわけでもない中を、じわっとした気分で待っていた。
次第に耳鳴りのようなしてきて、
「時間って、湿気を帯びてるんじゃないか?」
という、おかしな感覚に陥るのだった。
耳鳴りのせいで、せっかくお静寂が意味をなさないようにも思えてきて、とにかく、
「早く、黒電話お音が聞きたい」
と思って、じっとしていると、いよいよ、
「ジリリリーン」
という音が聞こえてきた。
「あれ?」
とすぐに思ったのだが、それは、その音が聞こえてきた感覚がいつもと同じだったからだ。
「俺、眠ってしまっていたのか?」
と感じさせられ、
耳鳴りは消えていて、この間のように、遠くの方から近づいてくるように、黒電話の音が鳴り響いたのだ。
「ひょっとすると、静寂の中だと、俺は眠ってしまうのだろうか?」
と思わせた。
さすがにその日は、それ以降眠れなかったことで、その晩から朝まで、みっちりと熟睡することがわかっていて、実際にそうなってしまうと、本当に朝まで目が覚めなかったのだ。
次の日に、もう一度チャレンジしてみることにしたが、今度は、少しだけ、テレビをつけることで、眠らないようにした。
音に関しては実に微妙で、音を下げればいいというものではない。中途半端な音の下げ方をしてしまうと、今度は睡魔が激しくなり。下手をすれば、
「睡魔を感じる前の。心地よさの段階で、眠りに落ちてしまうに違いない」
と考えたのだ。
だからと言って、必要以上に音を立てると。今度は肝心の電話の音が聞こえない。
さらに、昨日、
「どうして、睡魔の襲われたのだろうか?」
ということを冷静に考えると、
「耳鳴り」
というものが影響しているのではないかと思ったのだ。
つまりは、耳なりという高周波の音が、心地よい睡魔を誘い、それが、
「肝心な時になると、眠ってしまう」
という現象を引き起こし、結果、目的を達成することができなかったのだ。
完全な密室でもあるかのような、静寂の中では、普段感じている音が聞こえないということを、おかしな現象と誤認して、音を何とか立てようと考える、もう一つの頭脳があり、その頭脳が起こせる音が、あの、高周波の音なのかも知れない。
「それだけしか起こせない」
ということなのか、
「あの音が起こせる最大の音であり、それが、本人の意図したところではないが、重要な役割を担っているのではないか?」
と考えさせられるのであった。
そして、今度こそ、その音を、
「夢ではないか?」
という錯覚かも知れない状況で聞くことなく、本当に自分で感じるという思いで、その音を感じたのだ。
「ジリリリーン」
という音が、まさに鳴り響いたその時、一緒に思い出したのが、非常ベルの音だった。
こちらは、錯覚ではなく、間違いなく聞いた音であり、記憶の中の信憑性に間違いないものだった。
それも、毎年のことであり、
「安全だとは分かっていても、これほど緊張感を煽る音もないだろう」
というものであった。
これは、自分だけでなく、ほとんどの人にありえることだ。というのも、年に一度開催される。
「防災訓練の日」
だからである。
学校で、しかも公立の学校は、避難訓練や、防災訓練というのは、年に一度義務付けられているもので、その時に、非常ベルというのが、けたたましく鳴り響くのである。
当然、火事など起こっているわけでもないし、起こったとしても、消防隊が来ているのだから、防犯体制や、非難に関しては、これ以上ないというくらいの状態である。
それこそ、
「将棋の最初に並べた形」
であり、
「誰もいきなり崩すことのできない状態だ」
といえるのではないだろうか?
そんな状態で聞こえてきた非常ベルの音でも、そのけたたましさは変わりはない。どんなに安全だと分かっていても、最初に感じた恐怖を拭い去ることはできないのだった。
それがトラウマというものであり、トラウマというものは、
「一度身につくと、拭い去ることは難しい」
と言われるのだろう。
それを思い出させてくれたのは。
「一度でも、トラウマが身についた人間には、忘れることのできない感情であり、一生、背負っていくべきものではないか?」
と感じさせられたのだった。
自分では、
「あの時の悪夢は、そう簡単には拭い去ることはできないが、自分が悪いことをしたわけではないので、別に後ろめたく思う必要など、さらさらないのだ」
と思っていた。
それでも、新しい学校に赴任してくると、なるべくまわりに、
「自分は明るい人間で、左遷されたわけでも、問題があったわけでもないんだ」
という思いを相手にぶつけるように、なるべく、仲間を作ろうとした。
しかし、そもそも、そういう性格ではなく、人との付き合いだって、そんなに上手というわけでもない。
それなのに、無理をすれば、最初からぎこちないというのは分かっているくせに、それでも、強引にしようというのは、
「俺は悪くない」
という思いを前面に出して、アピールしていかないと、
「自分が本当に左遷された情けない人間だ」
と、自分で気づかないうちに思い込んでしまっているのではないかと感じるからだった。
そんな思いを抱いていくということは、それだけ、
「俺自身、トラウマを信じていて、操られないようにしようという意識が強ければ強いほど、トラウマを克服しているつもりで、実は違ったということになり、トラウマに操られているにも関わらず、永遠にトラウマに気づくことなく、トラウマの言いなりになってしまうのではないか?」
と感じるのだった。
「警察が一度調べたところが、実は一番安全なところだ」
という考えと同じで、相手も自分をなまじ信じているから、その先を行かれると、後ろばかりを気にして見ているようなプライドの高い人間には、自分の前を進んでいる人の姿が見えないというのと同じことである。
「どれだけ自分を信じることができるだろうか?」
ということが一番大切なのであった。
黒電話の音がうるさいと今度は、またさらに遠くの部屋から言い出した。
その時、
「音がしているのを感じる」
と言い出したその部屋は空室だったのだ。
しかも、空室になったのは、ちょうど、音が聞こえると言い出す、実に数日前だった。誰かが悪戯しようにも、その部屋にはカギがかかっている、そんな部屋から音がしてくるはずがないではないか?
誰もが、
「気持ち悪い」
と言い出した。
さすがにこうなると、今まで黙っていた本郷も言わないわけにはいかない。
「実は、私も以前から、黒電話の音に悩まされていたんですよ。でも、最近では、そんな音も聞こえなくなったので、てっきり自分の錯覚ではないかと思っていたので、騒ぎ立てるようなことはしなかったんです」
というと、他の部屋の人から、
「あなたの部屋で黒電話の音がしているということを、私たちは聞いたことがあったんですけど、あなたが、誰かにいったんじゃないんですか?」
と言われた。
「いいえ、そんなことはないですよ」
というと、
「おかしいな」
とその人はいうのだった。
その人は同じ階の、端に住む人で、4軒隣の部屋だった。
そんな話が出た頃だったか、それから二日くらい経ってから、今度は、隣人が、ベランダから落ちるという事故が発生した。
幸いなことに、大けがをしたわけではなく、かすり傷程度であったが、入院ということになった。
医者に聴いてみると、
「どうやら、この人は、何かのノイローゼに罹っていて、それで、ベランダから落ちたようなんです」
ということであった。
「すると、入院というのは、ケガでの入院というよりも、精神的なことでの入院というわけですか?」
と管理人と警察が聞くと、
「ええ、そうですね」
と医者は答えた。
すると、
「この件に関しては、本人がノイローゼになっていたということは、他の人には言わない方がいいかも知れないですね。本人のプライバシーというのもありますからね」
と言われ、管理人に緘口令が敷かれた。
しかし、本郷だけは、隣人が、
「黒電話の音に悩まされている」
ということを知っていたので、
「ベランダから落ちた」
という話を聞いた時、とっさに、
「ノイローゼが影響しているのではないだろうか?」
と感じた。
しかも、
「ケガの様子はたいしたことがない」
ということは聞いていたのに、入院ということになり、かなりの間、隣室が留守だということになるということを聞くと、何か、気持ち悪いものを感じたのだ。
そして、その間、たまにであるが、黒電話の音が聞こえることがあった。すでに、感覚がマヒしてしまっていた本郷は、最初の頃のように、
「怖い」
とも、
「気持ち悪い」
とも感じないようになっていた。
それよりも、隣に誰もいないということの方が気持ち悪い気がして、たまに聞こえる壁の向こうの音に、必要以上に敏感になっていた。
「帰ってきたんだろうか?」
と思ったが、そんな様子もない。
思わず、隣の呼び鈴を鳴らすがまったく音沙汰がない。入院してから、一週間が経ったが、帰ってきている様子はないのだが、黒電話の音を感じたその時、隣から音が聞こえるのを感じるのだ。
十日が経って、管理人が、マンションにやってきた。
ここの管理人は、マンションをいくつも持っているので、定期的に、それぞれのマンションの様子を見に来るようで、ちょうどその時に出くわしたので、隣室の人のことを聞いてみた。すると、
「ああ、あの方は、先日引っ越していかれましたよ」
というではないか?
「引っ越した? まったくそんな素振りもないし、そもそも、荷物はどうしたんですか?」
と聞くと、
「元々荷物の少ない人だったので、引っ越しの手間もすぐだったようですよ。あの方は半年もいなかったでしょう? だから、荷造りでほどいていないものも結構あったようなんですよ。だから、荷造りの必要もそんなになかった。だから、引っ越し自体も、1時間もあれば、終わったようでしたよ」
ということであった。
「じゃあ、跡形もない状態だったわけですね?」
と聞くと、
「ああ、そういえば、何か、本のようなものが最後に置かれていましたね」
というではないか。
「どんな本だったんでしょうか?」
と聞くと、
「私はまったく本を読むことはないんですが、うちの社員の一人がその本のファンだということだったんですが、どうやら、何か、時代小説のようだというんです。内容としては、何か自己犠牲の本だということだったんですが、そもそも自己犠牲というのは、どういうことなんでしょうね?」
という。
「自己犠牲というと、自分が迷惑を被るようなことがあっても、人のために、尽くしたりという、そういうことなんじゃないでしょうか?」
というと、
「なるほど、時代劇や時代小説では珍しいですよね? どちらかというと、勧善懲悪の話が、日本人は好きなんだと思っていましたからね。そういう意味では、まったく逆の小説になるんでしょうか?」
と管理人がいうので。
「まったく正反対というのはどうでしょう? 僕はその小説を読んだことがないので、何とも言えないんですが、反対の反対は、賛成って言葉があるくらいで、あまりにも正反対ともいえるような話って、意外と、正論だったりするんじゃないかと思うんですよ」
と言った。
「ああ、なるほど、それはいえるかも知れないですね。私もここに住んでいた方が、実際にどんな人だったのか分からなかったので、何とも言えないんですが、変わったところがある人ではありましたね。会社までは、ここから結構遠かったんですが、最初にこのお部屋を案内してきた、住宅相談の会社の人から聞いた話では、その人は、即決でここを決めたというんです。他にもいくつか候補があって、実際には、その人の希望からすれば、むしろここは、最悪に近い方だったようなんですが、ここに見に来た時、少しだけ、中を見ただけで、ここにするという即決だったんですね。先ほども言ったように、会社からも遠いし、部屋や間取り、それから、値段に関しては、ご本人の希望から考えれば、だいぶかけ離れていたようなんですよ。それでも、頑なにここがいいと言い張ったのは、変だと私も、住宅相談の会社の人も思っていたので、少し気になっていたんですけどね」
というではないか。
「そうですか、あの方も黒電話の音が聞こえるということを、私だけには話してくれていたんですが、そのことと、今回の入院は何かあるのではないかと思ったんですけどね」
というと、
「そういえば、もう一つ気になったことがあったんですけどね」
と管理人はいう。
「それは?」
「残っていたものは本だけではなく、絵でもあったんです。壁に飾られていたんですが、どうも、本人が描いたではないかということだったんですが」
と言われて、
「どうして、本人の絵だと思われたんですか?」
と聞くと、
「その光景に覚えがあったんですよ。その絵が、どこかの神社のようだったんですが、それがK市にある、山の中腹に入るところの神社だと分かったので、それでピンと来たんですよ。プロの絵にも見えませんでしたが、明らかに場所を特定できるだけのテクニックはあったんです。だから、その絵を見た時、不思議な感覚と、少しゾッとするものがありましたね」
というのだった。
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