第6話 夢の正体
その夢に出てきたことが、事実だったのかどうかは分からない。しかし、最終的な事実は変わりようのない事実であり、その事実から、警察の鑑識が割り出した、その過程を聞かされて、
「ほぼ、間違いのない事実なんだでしょうね」
と、警察から言われ、
「これは、しょうがない事故ではありましが、学校側としても、こんなことが二度と起こらないような再発防止に向けて、対策を取ってくださいね」
ということで、完全な事故として片付けられた。
しかし、学校側は、とりあえずの処置として、当時の担任だった。本郷を、他の学校に赴任させることにしたのは、一見、ひどいことのように思うが、実は水面下で、納得がいかない父兄たちが、
「本郷先生を糾弾する」
という動きに出ているというウワサが立ったことで、
「本郷先生を守るという意味」
もあって、早々に転属を決めたのであった。
これが、学校側の英断だったのか、それとも、父兄の圧力に負けたということなのか、正直分からなかった。
だが、学校側としては、
「臭い物には蓋を」
という考えだったのだろう。
煩わしいことは、最初から排除という考えが、保守的な連中の根底にあり、今回も、そういう意味での、
「トカゲの尻尾斬り」
だったのかも知れない。
その日の夢は、本郷のまったく知らないところであって、
目線がかなり低い状態なのは、自分が中学生目線になっていることに素早く気づいたからで、そのおかげで、
「これが夢だ」
ということに早く気づけたのだろう。
夢の中だと思うと、次第に大胆な気分になれた。普段は、公務員という意識が、先生という聖職者という意識よりも強かった。
それは、あくまでも、法律を重視しているという意識があるからか。
「自分に不利であったり、責任という二文字が絡むことになった場合。先生というだけでなく、公務員という立場が、最期には決めてとなるだろう」
という思いがあったのだ。
これは、保守的というよりも、先生になった時、
「あなたたちは、公務員であるということを肝に銘じてください。先生であったり、警察官というのは、その表に見えている立場よりも、最終的に、公務員という社会的立場で判断され、責任の二文字がのしかかってきた時、嫌というほど、その言葉の意味を知ることになる」
というようなことを言われたのを思い出していた。
学校において、授業をしていても、生徒が下校後であっても、さらには夏休みなどであっても、気が抜けないのだ。
会社の上司であれば、
「会社を一歩出れば、その人のプライバシーを尊重しないといけない」
ということで、逆に、その個人個人の責任の範疇になるので、
「会社は守ってくれない」
ということにもなる。
しかし、中学生、高校生は未成年であり、大人の保護を必要としている。
確かに、家では親の監督によるものだが、先生にまったく責任がないとは言えない。さらに、保護者は、
「教育全般を学校に任せている」
と思い込んでいるので、親の役割を、過小評価し、逆に、
「学校に責任を押し付けようとしている」
といってもいいだろう。
そのせいで、公務員であることを、必要以上に意識しないといけなくなったのだ。
その日、実際に何があったのか分からなかったが、問題の発覚は、学校に掛かってきた電話だった。
電話の音が鳴った瞬間、なぜかその時、
「ジリリリーン」
という音が鳴ったかのように感じられた。
それまで、聞いたことのなかった黒電話の音である。それなのに、それが黒電話だと分かったのは、静かな職員室の中で、音が反響したからに違いなかった。
その日は、夏休み前の、うだるような暑さだったこともあって、窓を閉め切って、クーラーを全開で入れていたのに、外からのセミの声が、負けじと大きな声を張り上げているのを感じたくらいだったのに、静けさを感じたというのは、表との温度差が、
「真空状態を作り出しているからではないか?」
というような意識があったからである。
その電話に出たのは別の人で、その時、音に驚いて、完全に委縮していたことを示していたのだった。
「警察? どういうことですか?」
一気に職員室内は、緊張に包まれる。
「はい、はい。それで?」
と言って電話に出た人は納得はしながらも、その反面、顔色はどんどんと青ざめていくのであった。
電話を切ったあと、
「うちの生徒が、一人、頭に石が落ちてきたことで、今病院に担ぎ込まれて、治療を受けているということです。意識不明の状態だということで、医者は、予断を許さないと言っているということでした」
という。
「本郷先生、お宅のクラスの生徒のようですよ」
というではないか。
急いで、取るものもとりあえず、病院に駆け込んだ。
学校側から父兄には連絡が行ったようで、父兄は、すでに病院に来ていた。
この事故は、担任の知らないところで起こった事故だったので、正直、他人事のように半分は思っていた本郷だったが、父兄が自分を見た時、その視線が完全に、敵対視していたことで、
「何で、俺に?」
と思い、理不尽な気がしたが、紛れもなく担任は自分だということを思うと、今の時点で、自分が不利なのはわかり切っていることだった。
「先生、これはどういうことです? 確かに子供の遊びなんでしょうけど、こんなことになるのは、先生方も他人事だという顔はできませんよ」
と言って詰め寄ってくる。
とりあえず、生徒は、小康状態で、今のところ、重症とも回復途上とも、何ともいえない。
というのが、医者の見解だった。
そして医者がいうには、
「もし助かったとしても、今回のことを記憶はしていないと思います。かなりのトラウマが残っているでしょうから、もし残っていなかったとすれば、それは、本人の本能によるものでしょうから、そこを後で追及するというのは、却って本人のためになりません。そのことは、先生方も、父兄の方でも、考えておいてください」
ということであった。
その生徒は、運よく、一命はとりとめた。そして、医者がいうように、生徒の記憶は消えていて、思い出させるには、見ていても酷だということが分かったのだ。
そんなこともあって、学校側は一息ついたのだが、
「誰か一人に責任を取ってもらう必要がある」
ということで、本郷が、その責任を取らされる結果になった。
正直、理不尽なのは、よく分かっている。しかし、そんな理不尽なことをする学校に対して、こっちもこれ以上、関わりたくないと思ったので、転勤辞令が出て時に、
「分かりました、従います」
というと、学校側は安堵したようだったが、ここで負けるわけにもいかず。
「今回の事故のことは、これで私とは一切何も関係のないことだということにしてください。どうせ、私がその人身御供なんでしょうから、従いますが、従う以上、これ以上私に責任を押し付けることのないようにお願いします。私だって、その場にいたわけではないんだから、責任をこれ以上押し付けられても困ります」
と言った。
ここまで言えたのは、生徒は命に別状なく、あの時の記憶を失っているだけだったからである。本来ならお咎めなきはずなのに、念のためなのか、人身御供にされるのであれば、これくらいの約束は当然の主張なのであろう。
実際に、それから何の音沙汰ものなかった。
父兄から、何かを言ってくるということがなかったからだろうが、それも、自分の犠牲もおかげだと思うと気持ちは複雑だった。
いくら、
「宮使い」
とはいえ、完全に、学校の名誉を守るための、
「生贄」
にされたわけで、出世したわけでもなく、ただ、学校の責任として、誰か一人が責任ということになり、ただ、その生徒の担任だったというだけで、左遷されてしまったというのは、これほど理不尽なことはない。
しかし、いまさら先生を辞めて、民間の会社に入ることの方が怖かった。それなら、まだ、この理不尽に耐える方がマシだと考えたのだ。
実際に、
「この選択は間違っていなかった」
と思うようにしている。
そうでなければ、結局、学校を追われることになり、辞めなければいかず、辞めて野に下るのであれば、結果は同じこと。
何とか、教職にしがみつくには、いやでも、学校側の言う通りにしないといけないのだった。
理不尽であったが、逆に、
「こんな学校。こっちから辞めてやる」
と感じたのだと思えば、ほんの少しであるが、気が楽になれるかも知れない、
少なくとも、一番気が楽になれるのは、この道しかなかったからだ。
しかし、普通なら、時間が経てば経つほど、気が楽になってくるはずで、それは怒りが収まってくるはずだからである。
今回はそんなことはなく、ある程度の時期が来るまで、次第に怒りがこみあげていった。
これは落ち着いて考えれば分かったことであったが、
「発熱時の感覚」
と似ていると言えるのではないだろうか?
「熱が出る」
という作用は、基本的に、身体の中に、よからぬ菌やウイルスのようなものが入って、その菌やウイルスに対して、身体の中の抗体が反応し、
「打ち勝とう」
としているからであろう。
実際に身体の中の抗体が反応し、戦っているというその証拠が、
「発熱」
なのである。
「電気抵抗などでも、数値が上がっていけば、どんどん熱くなる」
という現象と同じことである。
その時の自分の中で、自分の正義感や、プライドが、ズタズタにされるようなことが巻き起こるのだが、それを必死に、
「何とか、自分を納得させる」
という考えを持つために、必死で、その納得できることを考えようと、自分のプライドや正義感に抗っていたのだ。
そんな状態で、問題になるのは、
「相手の菌やウイルスの力」
ではないだろうか?
自分の気持ちや抗体の力というのは、どんどん強くなってくる。そのうちに、相手よりも強くなることで、相手を打ち破ることになる。それが、人間の身体でいう、
「発熱の期間」
である。
普通の風邪であれば、1日や2日で収まるが、インフルエンザのようなものであれば、
「3日は、39度以上の熱で苦しむ」
というではないか。
「インフルエンザのようなものは、さすがに難しいが、普通の風邪くらいであれば、熱が上がっている間、何とか熱を下げようとするのだろうが、それは間違いだ」
と言われる。
「熱が上がっている間は、自分の身体が抗っている時なので、
「却って身体を冷やしてはいけない」
と言われる。
その証拠に、熱があるにも関わらず、ガタガタ震えていることもあるではないか。つまり、
「発熱時というのは、身体を冷やさないように、毛布をくるんだり、着こんだりして、寝ているのが一番だ」
ということである。
しかし、
「だけど、汗がどんどん出てくるではないか?」
と言われるが、
「それこそ、身体から、悪い菌やウイルスが抜けて行っているわけなので、汗を掻いたら、乾いたタオルで身体を拭いて、そして着替えればいい」
ということになる。
つまりは、新しい下着やパジャマが、かなりの枚数必要だということになるだろう。
ただ、本当に熱が上がっている間は、汗を掻くことはないのだ。逆に、
「汗を掻かないから、身体に熱が籠って、熱が上がっている」
といえるのだろう。
だから、
「悪い菌やウイルスを自分の身体の中で撲滅させて、そして、その残骸を汗として流し出す」
というのが、
「風邪を治す一番の方法だ」
といえるであろう。
熱が下がり始めると、どんどん汗が噴き出してくる。そこで、アイスノンなどを使って冷やすのだ。
そして、汗が出切ってしまうと、そこでスッキリとして、風邪が治ると言えるだろう。
これは、風邪に対してだけの問題ではなく、精神的なものにも言えるのではないかと思える。
本郷にとって、その時の事故は、最初は、どちらかというと他人事だった。
まず最初に考えたのが、
「俺が悪いことをしたわけではない」
という思いだった、
だから、当然、
「お咎めを受けることはないだろう」
という思いであり、しかも、記憶が失われたという後遺症は残ったが、命に別条があったわけではない。
だから、余計に自分が悪いわけではないという思いが強くなり、学校側も自分を裁くことあないと思っていた。
しかし、その意に反し、何と、学校側のメンツのために、自分が犠牲になるという、思ってもみなかったことが起こると、さすがに学校に対して、
「裏切られた」
という思いになった。
かといって、自分を何とか納得できる結論を見出さないと、身の振り方が変わってくる。
少なくとも、現状維持はありえないのだ。だとすれば、
「学校側のいうとおりに、他の学校に移る」
あるいは、
「学校側のやり方に我慢することなく、いばらの道を行く結論を出すか?」
ということであるが、この年になって、今からいばらの道を行くことは、恐怖でしかない。
それを思うと、
「理不尽であるが、学校の言う通り、自分を何とか納得させて、渋々でも、他の学校に移るしかない」
ということになる。
そのためには、まず、どうすれば、自分を納得させられるかということだが、一つ言えることは、
「これで、あんな理不尽なことをいう学校の本性が分かり、そんな学校と離れることができるのだ」
ということであった。
しかし、かといって、今度移る学校が、そうではないと言い切れない。むしろ、
「同じなんだ」
ということであれば、今度は、
「最初から分かっているということは悪いことではない」
として、自分を納得させられるという思いであった。
双方向からの、考えを摺り寄せることで、自分を納得させるという方法もあると考えると、何とかできないこともないと思うのだった。
そんな頃、つまり異動しての最初の頃、よく夢を見ていたような気がした。
「ような気がした」
というのは、
「夢を見ていた」
という確証が自分にないからであった。
というのも、夢を見ていたというには、夢の記憶はおろか、夢を見ていたという自覚が定かではないということであり、
「忘れてしまった」
という意識が残っていれば、夢を見ていたということが間違いないと言えるのだが、その記憶がないのであった。
「目が覚めると、汗をぐっしょり掻いていた」
という意識であったり、
「あれ? いつの間にか寝てしまっていたようだ」
という、眠りに就いた意識がないのに、目が覚めた記憶だけがあるということで、
「目が覚めた時に、それまでの記憶の一部を忘れてしまったのだろうか?」
という、一時的記憶喪失のようなものをイメージしてしまっているかのようだった。
だから、夢を見ていたと思っているだけで、本当はそうではないのかも知れない。しかし、そうではないと言い切れない感覚と、夢だと思うしか、説明のつかないようなこともあったのだ。
それを一つ一つ覚えていないのも、夢の夢たるゆえんではないかと思い、それだけ、夢というもののスパンが長いのではないだろうか?
「夢というのは、目が覚める寸前の数秒で見るものだ」
という話を聞いたことがあった。
「目が覚めた」
というのは、果たしてどこなのだろうか?
「夢の世界から切り離され、自分の中で、さっきのは、夢だったんだ。という意識を持つ瞬間のことをいうのだろうか?」
あるいは、
「そのあと、実際に現実世界に引き戻される時間を感じながら、もうここまでくれば、また眠りたいという思いに至らないと感じた時であろうか?」
夢の世界というのは、怖い夢だったと思いながらも、睡眠の一部だと思うと、
「まだ寝ていたい」
と思う時間帯があるようだ。
だから、怖い夢は忘れないのだろう、っそういう過去に戻ろうとする意識を、感じさせないようにするためではないかと思うと納得がいく。
もちろん、他の人はそんなことまで考えないだろうと思う。そんなことを考えている自分が、おかしいのであって、それを感じることが、他の人にはない無意識の感情となるのではないだろうか?
ただ、一つ思っているのは、
「覚えていない夢というのは、目が覚めるにしたがって、忘れていくものだ」
という感覚であった。
「覚えていないというだけで、すべてが、夢の中で完結しているわけではなく、夢から覚めていく間に忘れてしまう作用が働くのだ」
ということであった。
その作用が、どう自分に影響しているのか分からない。しかし、
「覚えていないというのは、覚えようという意識がないわけではなく、覚えるところまでは、皆同じであり、忘れてしまうという作用があるかないかということで、覚えていることは、忘れたい忘れたくないという理屈のいかんにかかわりなく、忘れようとしなかっただけのことではないだろうか? だから、夢で覚えていることのほとんどが、怖い夢だったと感じるのではないだろうか?」
と、考えるようになったのだ。
夢から覚めるにしたがって、本当に目が覚めるまでの時間、これは、夢を見ている時間よりも、はるかに長いものだと考えると、夢を見るよりも、忘れるという意識の方が、相当な労力を必要としているのではないかと思う。
そもそも、そんな労力を用いなければならないという
「夢を忘れる」
という行為は、どういうものなのだろうか?
と、そんなことを考えてしまう。
夢を見るというのは、何か、思い出さなければいけないという思いを睡眠中に感じるのだろう。
ということは、睡眠中というのは、その一つのことだけに、集中することができる。いや、起きている間にできないことを、眠っている間にしようとする、いわゆる、
「人間の本性」
というか、
「本能的なものとなる」
といってもいいのではないだろうか?
夢の世界のことを、最近では、
「まるで、ドッペルゲンガーのようではないか?」
と考えるようになっていた。
ドッペルゲンガーというのは、一言でいうと、
「もう一人の自分」
という概念である。
これは、自分に似た人という、
「世の中に三人はいる」
と言われるものではない。
つまり、自分が感じるというよりも、その主導権は、
「まわりの人にある」
というものではないだろうか?
つまり、
「自分に似ているかどうか、判断するのは、自分ではない」
ということだ。
それを考えた時。思い出すのが、高校時代の弁論大会だった。
あの時、悲惨な成績だったことに納得がいかず、放送部の友達に無理を言って、その時の録画を見せてもらったことがあった。
その時始めて聞いた、
「自分の肉声」
最初は、
「録音だから、こんな声なのか?」
と思ったが、友達はハッキリと、
「これがお前の声だよ」
と言ったではないか。
その声というのは、自分が想像しているよりも、
「2オクターブくらい高いもの」
であり、声が透き通るようであればいいのだが、薄っぺらい声質に、ここまでひどいものだとは思わず、正直、ショックを受けたものだった。
それを感じると、
「普段から、自分の声は、自分の身体を通してしか聞こえない。逆にまわりの人は、空気の振動だけで、こちらの声を聞くことはできない。声質が違っているのは当たり前のことだ」
といえるだろう。
だが、
「これが逆であれば、よかったのに」
と最初は感じた。
なぜなら、
「人には、いいイメージの声を聞いていてもらいたい」
とおもうのが普通だと思ったからだ。
自分だけが感じるのはしょうがないが、まわりの人に、
「か細くて、女のような声だ」
などと思われるのは嫌だった。
正直、録画で聞こえてきた自分の声は、自分がもっとも、嫌いな声質であり、本当うに、
「女の腐ったような声だ」
ということで、
「聴くんじゃなかった」
と感じるほどの声だった。
だが、冷静に考えると、普段自分が喋っている、自分の声が好きだった。
「これが俺の声か、なかなかいいじゃないか」
とずっと思ってきただけに、余計にショックが大きいといってもいいだろう。
だから、聞こえてきた録画の声は、失望以外の何ものでもなく、だからこそ、自分が弁論大会で、ブービーだったということにも納得がいったのだ。
最初こそ、
「あんな大会に出なければよかった」
と思ったが、一度出てしまうと、それからの大会で、他人が、表彰されている姿に、必要以上の嫉妬心を抱くことはなくなった。
確かに、
「羨ましいな」
という思いがあるのはしょうがないことだとは思うが、最初の頃ほどのことはない。
一度出場してしまうと、どういうものなのかがおぼろげに分かり、いくら今回自分が出場していなくても、
「同胞だ」
という意識が芽生えていたのではないだろうか?
そう思うことで、一度出場はした。参加したという思いが、何かを納得させたのだろう。それが、声質の違いだったのかも知れない。
「あんな声だったら、そりゃあ、誰だって、成績は下位にするわな」
という思いである。
声質もそうだが、いかにも自信がなさそうで、しかも、そのくせ、必死で訴えようとしている姿は、あさましく、滑稽に見えることだろう。
それを考えると、
「俺が審査員だったら、最低の点をつけるだろうな」
と考えた。
もちろん、それだけ、普段の自分の声を知っていて、その反動で、
「この声が、一番嫌いなんだ」
と感じさせられるということに尽きるのかも知れない。
と感じたのだった。
「それにしても、成績が悪かったことを、すべて声のせいにはできないのだろうが、手ごろなところで、成績の悪さにされてしまったことで、自分を納得させるためであれば、五感を裏切ってもいいのだという前例を作ってしまったようで、これでいいのだろうか?」
と思うようになってしまった。
自分の声を悪者にしてしまったことに、どこか後ろめたさを感じたことが、今回のような夢に対して、違和感を残すことになってしまったのだろう。
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