第4話 夢に見たもの
ただ、本郷が神経質になった原因というのは、前の学校でのある事件、いや事故が原因だったのだ。
前は中学生を教えていたのだが、前の学校というのは、最初に赴任した学校から、ずっと転勤せずに勤めていたところだった。
ここの県での公立学校の先生は、
「一つの場所にずっといる人は、まったく動かないが、一度でも移動があると、後は、どんどんいろいろなところに移動させられる傾向にある」
という。
人事にも、情けのようなものがあり、いや、実際には、余計なことを考えず、
「一度異動をして、文句の出なかった人は、どんどん転勤させればいい」
という思いが強く、
「一度も動いていない人をいまさら動かして、文句が来るよりも、移動に慣れている人を異動させればいい」
ということなのだろう。
もっとも、転勤辞令が出れば、基本異動しないといけないようになっているので、そこは普通の会社と変わりはない。ただ、この県は見る限り露骨だった。
だからと言って、この傾向はこの県に限ったことではない。他の県でも当たり前にやっていることだろうが、なぜかこの県だけ、この問題が叫ばれていて、結果、不思議と目立つようなことになるのだった。
それを思えば、今まで一度も転勤がなかった本郷は、
「運がよかった」
と言ってもいいだろう。
しかし、逆に言えば、
「そんな本郷先生が、35歳という中途半端な時期に、今まで転勤がなかった人が、急に転勤というのは、何かがあったからではないか?」
と思われてもそれはそれで、無理のないことに違いない。
本郷が仕事をしていた中学校は、今の学校から、三つほど隣の市で、何かあれば、ウワサになるかも知れないのだが、この赴任した学校で、自分のことがウワサになっているということはなかったのだ。
実際は、何か話が伝わっていて、それがタブーだということで、緘口令が敷かれているのだとすれば別だが、そうでないとすれば、さすがに、そろそろウワサが聞けても不思議ではなかったのだ。
だが、一切そんなことはないので、
「緘口令が出ていて、さぞや厳しいものなのか」
それとも、
「まったくウワサになるようなことはないということなのか」
であった、
しかし、途中で転属してきた教員が、ずっと一つのところで勤務していた人だということを知れば、少なからず、何か疑惑を持つものだろう。
そうなると、詳しい理由は知らないまでも、それほどきつい形なのではないだろうが、ちょっとした緘口令が出ているといってもいいだろう。
どんな緘口令なのかというのが気になるところではあるが、本郷という人間が、やはり転勤してきてすぐはびくびくしていたが、慣れてくると、そうでもないと考えると、
「最初の緊張は、自分のウワサを皆が知っているのではないか?」
という緊張だったとすると、新しい同僚は、
「本郷が転勤になった理由を知っているのではないか?」
ということで、怖がっていたのではないか?
という邪推もできるというものだ。
だが、実際には、何カ月経っても、ウワサに関係のあるようなことはまったく出てくることはない。
さすがに三か月経って、まったく一つもないのだから、
「これは、本当に何も知らないんだ」
と思ったことで、緊張が一気にほぐれて、まわりにも馴染んだのだろう。
元々、まわりに馴染むというのは苦手な方ではないので、そういう意味で、
「やっと、スタートラインに立てた」
と思ったのだった。
しかも、スタートラインと言っても、数か月という時間、一緒にいたという実績があることで、まわりの人のことは大体把握している。
「人心掌握術」
に関しては、そんなに苦手な方ではなく、よく、
「秀吉張りの人たらし」
などと言われていた。
それを思うと、
「本当は人たらしなどと言われるのは好きではない」
と思っていたのが、今は、
「それも懐かしい」
と感じるようになっていたのだった。
だが、それは人がいうことであって、自分はそんなに人たらしだとは思っていない。ただ、そういわれるということは、まわりがそういう目で見ることで、
「少し距離を取ってくれるのではないか?」
ということで、自分で安心感を得られるような気がしたのだ。
もちろん、自分が人たらしだなんて、今まで思ったことも感じたこともなかった。
「ただ、それをどうして急に言われるようになったのか?」
ということを考えると、理由が見つからない。
「ひょっとして、誰か一人をそういう人間だということで祀り上げて、何かがあった時、その人が率先して動いたなどということにして、自分たちが難を逃れるとでもいうような、一種の人身御供のような感じに仕立てられるのではないか?」
と感じたのだ。
人身御供というのが、どういうことなのか?
昔であれば、
「急に行方不明になった子供などがいれば、妖怪に誘拐された」
という意識でいたが、言葉の意味から考えると、どちらかというと、
「人柱」
のような、
「生贄」
に近い形なのではないかとおもうのだった。
人身御供について、子供の頃に、あった勘違いから見れば、今では分かっているつもりである。
「人柱というのは、日本古来の一種の人身御供で、建物を建てる時など、災害が起こらないように」
あるいは、
「土地の神様が、お怒りにならないように」
するために、生き埋めにするというものだ。
人身御供というのは、神に身を捧げるという意味で、この世での最高の奉公だという詭弁を使って、正当化しているのだろう。
ただ、宗教というのは、大なり小なり、詭弁を使って、信者を信じ込ませるということをしているのを思うと、
「これこそが、宗教の真髄であり、生き残るための信者に対しての、洗脳だと言えるのではないだろうか」
別に本郷は、神様を信じているとか、何かの特定の宗教を信じているとか、そういうことはない。
実際には、宗教的なことは嫌いで、特に子供の頃、親が宗教を毛嫌いしていたこともあったので、自分も嫌いだった。
父が青年の頃、ちょうど、宗教団体の問題が、絶えず社会問題になっているような時代で、今から考えると、その頃から、次第にエスカレートしていったのではないかと思われる。
最高にひどかったのが、今から、四半世紀前に起こった。
「ある宗教団体による、無差別テロ」
であった。
毒ガスを使うという意味で、悪質であり、今では、その実行犯たちは、皆処刑されて、すでにこの世にいないが、
「こんなことが、この法治国家である日本で起こるんだ」
ということが叫ばれていた頃だった。
本郷は、まだ小学生の頃だったが、その惨状はテレビで放送され、
「たぶん、僕が物心ついてから、最初に感じた、犯罪の残虐性だったのかも知れない」
と思っていたのだ。
地下鉄構内から逃げ惑う姿。
物々しいガスマスクをつけた人たちが、足早にそして静かに行動している。
表では、けたたましくも甲高い、救急車、パトカーなどの音。
さらには、マスゴミの密集している姿。
それぞれに、普段は絶対に見ることのできない光景に、本郷少年は、身体が凍り付いた気分だった。
きっと、精神的には、子供から大人になった時だったのかも知れない。子供であれば、どんなにけたたましい光景でも、
「まるで夢を見ているようだ」
と考えることで、さらには、
「子供なんだから意識する必要はないんだ」
と、普段から親や大人に言われていることを忠実に守ることで、それが正しい認識だと、納得しようとするのだろう。
しかし、なまじ、大人の感情が入ってくると、そんな子供の感情では、許されないことがあることを、自覚するようになる。
そうなると、心のどこかで、
「これは現実のことなので、見逃してはいけないことだ」
と思うに違いない。
それが、子供に近い時期であればあるほど、その衝撃は激しいものなのだろう。
それだけ、まだ大人になり切れていないということになるのだ。それを思うと、
「何が恐怖なのか?」
ということがわかってくる。
「何が恐怖で、何を恐れるのか?」
ということは、大人になった瞬間から少しの間、分かっているのかも知れないが、それが少しすると、また分からなくなるのだ。
それがきっと、思春期という時期であり、思春期というのは、
「その時まで、子供の頃から、順を追って積み重ねてきたのに、急に音を立てて崩れる時があるその瞬間から始まる」
と言ってもいいだろう、
思春期というのは、誰にでもある。ただ、その入り口は年齢的にも、その場面場面でも、ハッキリとはしないものだ。
だから、思春期になる前に、一度大人になるという感覚を分かっていない人がほとんどなのではないだろうか?
いや、本郷少年が分かっただけで、他の人の大多数は分かっていない。それは、思春期の前に大人になるというのが、全員にあることなのか、それとも、一部の人間、定められた人間に限られるものなのか、それも分からない。
本郷は、
「皆、同じなのに、誰もそのことを言おうとしない。これは、皆が気づいていないだけではないか?」
と考えるようになった。
逆に、そのことは皆、大人から、聞かされていて、
「このことは、他の人には言ってはいけない」
というルールがあるので、誰も分かっていても、言わないだけなのかも知れないとも思った。
だが、本郷は、そのことを、
「聞いたことがあったのかも知れないが、意識していなかったために、知らなかったのではないか?」
という思いと、
「本当に知らない。だからこそ、自分で気づくことができたんだ」
という思いとが、交錯しているような気がした。
本郷は、自分がどういう立場の人間なのか、正直分かっていない。ただ、一つ言えることは、
「俺は、結構、気付くタイプなのではないか?」
ということだった。
「だからこそ言われなければ分からないことでも、その前に気づいたりするので、大人もそれが分かっていて、わざと、この俺には何もいおうとしないのではないだろうか?」
という思いである。
そう言われてみると、
「大人になるというのが、どういうことなのか?」
そんな話を、人から聞いたことはなかった。
子供の間で話すことでもないし、聞くとすれば、大人の口からだろうというのは、間違いない気がしていた。
そんな本郷少年が、思春期前の大人だった時の記憶は、しばらく、封印されていた。
そんな時期があったということすら、ずっと気づかなかったくらいだったが、ふと、
「大人になった時期があったような気がしたな」
と感じたその時、どうやら、思春期が終わったようだった。
つまり、
「思春期が終わって、大人になったんだ」
と感じたのだろう。
ということは、大人になったということで、一度大人になった時のことを思い出したのだ。
「本当は、今回初めて大人になったはずなのに、前にも大人を感じたような気がする」
というものだった。
そう、まるで、
「デジャブ」
のようではないか。
「初めて、感じたり、見たりしたはずなのに、以前にも感じたり、見たような気がするのはどうしてなんだろう?」
という感情を、デジャブという現象だと聞いたことがあった。
それは、
「ある特定の人にしか起こらないことで、自分には関係のないことなんだ」
と思っていたのだったが、実際に起こってしまうと、
「デジャブって、誰にでも起こることなんだ」
と思うようになり、自分が感じた、
「思春期前の大人になったというあの時期は、特定の人だけなのか、それとも誰もが通る道なのか?」
ということが分からなくなってきたのだ。
かと言って、こんなことを聞ける人もいるわけではない。
「お前、またバカなことを言い出して」
と言われるほど、普段からバカなことを言っているのであれば、いくらでもいえたのだが、今まで人にこのようなことは、恥ずかしくていえないタイプだったことを思うと、まったく口に出すことができなかったのだ。
まわりも、誰もそのことについて触れようともしない。
「下手に触れて、よからぬことが起こったりすれば、目も当てられない」
と感じていたのだ。
「俺って、そんなに変なことを考えているんだろうか?」
と思っていたが、その頃はまだ、自分が、
「教師になろう」
というところまでは考えていなかった。
ちょうど、思春期を抜けたと思ったのは、高校二年生の頃だった。学校では、三斜面だなどがあり、いよいよ進路について考える時期が来ていたが
「将来についてなんて、考えたりもしなかった」
というが、考えたことは、
「理系か文系か?」
というだけのことだった。
元々数学など嫌いだったので、文系への道は、消去法で決まっているようなものだったが、後は成績と、志望校のバランスだけであった。
とりあえず、成績もそんなに悪くはないが、かといって、よくもない。そういう意味で、選択肢はそれほどあるわけではなかったことが、
「絞る」
という意味で、ちょうどよかったのだろう。
文系の中でも、行ける大学も決まっていて、その中で、教育大学というのがあったので、そこを受験してみることにしたのだ。
現役で合格することもでき、順風満帆だった。
「俺の人生、このまま順風満帆でいけばいいよな」
と大学時代から考えていて、そのためには、
「下手に余計な、欲というものを持たないようにするのが一番ではないだろうか?」
というのが、一番だった。
高校時代までと違って、大学に入れば、時間があっという間に過ぎていくという感覚を肌で味わったのだった。
そんな順風満帆な毎日を過ごしている時、それまでは感じたことのなかった。
「何か言い知れぬ不安」
のようなものを感じた。
その時は、
「これまで感じなかったことを、ふと感じたことで、余計に、普段感じないだけに、怖いと思うことに敏感になっているのかも知れない」
と思うようになった。
それが、ちょうど、今から3年くらい前であった。
三年前というと、ちょうど、前の学校をやめなければいけなくなった、あの忌まわしい事故の記憶を思い出さされるというものであった。
そして、教えているのが中学生、その頃までは、自分の中学時代を思い出すことはなかったのに、急にその頃から、自分の中学時代、いや、それ以前の小学校の頃からのことを思い出すのだ。
そう、あの思春期前に大人になったと感じた、あの時期をも思い出させるほどの強い力が働いているような気がしたのだ。
それがどうやら、原因として考えられるものとして、
「夢を見たのではないか?」
ということであった。
それまでは、昔の夢を見るなどなかったはずなのに、一体どうしたことなのか? と思うのだった。
夢の内容は、基本的に覚えていないのだが、夢から覚めた時、
「そうだ、この夢は、子供の頃のもので、思春期前の、一瞬だけ、大人になった時があったということを思い出させるものだ」
ということであった。
内容も覚えていないのに、シチュエーションだけ分かるというのも、おかしな気がするが、
「夢というのは、こういうものだ」
と思うと、なぜか説得力を感じ、納得できるのだった。
ただでさえ、変なこだわりがあって、なかなか自分を納得させることが苦手な本郷だったが、
「そうか、俺は、自分を納得させる一番の方法は、夢を見るということにあったのか」
と言って、納得したのだった。
夢を見ていると、自分がいかに、
「今まで感じたことを忘れてしまったのか」
ということを思い知らせてくれるのだった。
ただ、一つ気になったのは、
「夢を見ることで、一つのことを思い出すのだが、逆に、何か大切なことを忘れていってるのではないだろうか?」
という思いであった。
「夢は目が覚めるにしたがって、忘れてしまっている」
と感じているが、それは、
「夢の内容を忘れているのではなく、覚えていなければいけない何かも一緒に忘れているのではないか?」
と感じたことだった。
そもそも夢はいつも見ているわけではない。
「何かの法則に則って、夢を見ているのではないか?」
と思っていたが、実は最近、もっと単純なことではないかと思うようになってきたのであった。
というのも、
「夢というのは、実は毎日見ていて、忘れ去るようなものがない場合、つまり、夢を見終わって、自分で、これは他愛もない夢だと感じたその時に、夢を見ていたということ自体を忘れてしまうのではないか?」
という発想であった。
「押してもダメなら、引いてみな」
という発想に近いものだが、なまじ、藁って済まされる発想ではないような気がするのだった。
「夢というものは、神秘なものであるが、考え方を柔軟にすれば、今まで理解できなかったことを理解できるようになる、簡単な理屈を含んでいるのではないだろうか?」
と感じるのだった。
今までであれば、見た夢はほとんどが忘れていることが多かったのだが、最近になって、また夢を覚えているようになった。
「またあの夢か」
と、本郷は、自分でもその夢の内容が分かっていた。
そう、舞台は、3年前まで勤めていた学校のあったあたりのことである、
学校は、この地方に連なる連山の中腹にあった。
少し低い山のなだらかになった、
といっても、坂は結構急で、舗装された道路には、まるでタコの吸盤のようなすべり止めのある状態になっていて、昔のマニュアル車であれば、ギアをサードにするのも難しいくらいの急こう配であった。
学校があるところは、海抜が、120メートルあった。
その街は、後ろに連山、前には内海になっているようなところで、人が住める範囲は限られていた。
それだけに、昔から、高級住宅が多く、大企業として有名な社長の邸宅が建っているような住宅街が控えているような、少し他の街とは、イメージが違っていた。
そんな街の中学校であったが、さすがにPTAが強かったりして、先生をするのも、時々きついことがあった。
それでも、昔のような差別的なことがあるわけでもなく、教師をやりにくいというようなこともなかった。
もちろん、先生によって、その立場や、方針、さらに人間的な性格もあるだろうから、一概には言えないに違いない。
山の中腹にあるということは、それだけ、人が住んでいる普通の住宅地や、市内中心部からは、結構距離もあった。歩けば、1時間くらいはかかったであろうか。それでも、徒歩で来る生徒も結構いた。
もちろん、バスは通っている。バスに乗ってくる生徒もいたが、実は、中学校の次のバス停には、いわゆる、
「札付きの悪」
と言われる連中が通っている学校があった。
徒歩でくる生徒のほとんどは、
「あの学校の人たちと一緒になりたくない」
という思いが強かった。
直接、生徒に何かをしてくるということはなかったが、明らかに不良連中と、
「か弱い中学生」
と考えれば、何かあったら、先生としても、どうしていいか分からないと思っていたのだ。
だが、そのおかげか、足腰が強い生徒がたくさん生まれたことで、登校が、トレーニングとなり、運動部は、県大会くらいまでは、十分に勝ち残れるようになっていた。
だが、通っていた中学校は、スポーツよりも、、文化の方が盛んだった。
「だから、ひ弱だ」
と言われるんだ・
と運動部の顧問で、いかにも熱血根性先生と言えるような、ジャージに竹刀が似合うというそんな先生からすれば、そういいたいのだろう。
しかし、そういう先生に限って、
「見掛け倒し」
というもので、
「あの先生は、別に怖くないわ」
とウワサしていた。
その代わり、本当に怖い先生もいて、体格もすごいが、とにかく迫力がある。
サングラスでもかけていれば、いかにも、
「その筋の旦那」
という感じで、
しかも、五分刈り頭が、昔の
「怖いにいちゃん」
を思わせて、中学生であれば、十分に怯えていたことだろう。
例の、
「札付き高校」
の生徒でも、この先生にだけは、逆らうことはない。
下手をすれば、先生が歩いていると、道を開けるくらいの迫力であった。
だが、この先生は、決して表に出てこようとはしない。
そういう点では、
「見掛け倒しの、熱血高校教師」
とは、人間の器が違っていたのだろう。
そういう意味で、こんな迫力のある先生がいてくれたおかげで、衝突もなく、今までこれたのだろう。
高校の方でも、上級生から、
「あの中学の、迫力のある、あの教師には逆らうな」
と、言い伝えられてきたのだろう。
もっとも、彼らくらいになれば、一目で、その先生の迫力が本物であることに気づくことだろう。
「とにかく、まったく口出しをしない先生」
ということで、余計に不気味だったのだ。
ただ、その先生の存在自体が抑止力になっていたのは事実で、平和に過ごしてこれたのだった。
そういう意味で、ここの街は、札付きの高校があるにはあったが、それは他の街にでも、一校くらいはそういう学校があるのではないだろうか。
実際に、この街が平和だったからこそ、逆に札付き高校が目立つのであって、彼らにすれば、
「いい迷惑だった」
といえるのではないだろうか。
そんな昔の記憶を探るような景色が、いよいよ夢の中で何かを繰り広げようとしているのだった。
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