三匹目のうさぎ

「っ……」

「じっとして」


 鋭利な、しかし生物的な生々しさを持つ刃が肌を裂き、その内側へ入っていく。リネンの顔はいつになく真剣、その瞳孔は開き切り、その手は緊張によって握りしめられていた。


「痛ッ──」

「ごめん、ちょっと肉を切った」


 皮膚下にある発信機がどうやって取り付けられたにせよ、こうしている間にも自分たちの位置は敵へ伝わっている。そこで、リネンの残数が少ない『放出』を使用して発信機を取り出そうということになったのだが。


「ちょっとあの……痛い……いたたた!!!」


 執刀医、リネン・ユーフラテスはヤブ医者である。当然だ。医師免許はおろか体の構造すら理解してるか怪しいのだから。

 貯蔵量の少ない“穢れ”によって成型された、魚のヒレともカマキリの鎌とも、はたまた骨と肉でできたグロテスクな手ともつかない刃は切れ味が良いとは言えず、結果として取り出すまでにアプリコットの皮膚下肉はだいぶ抉られることとなった。


「よいっ……しょ」

「リネンさんは今後、刃物を絶対に持たないでください」

「えー」


 不満げな声と共に、アプリコットの皮膚下から円盤型の発信機が取り出された。

 手のひらの上に置かれた血にまみれたそれを、二人は覗き込む。


「電池式?」

「どうなんでしょう、分解してみれば分かるのかもしれませんが──」


 発信機の表にも裏にも、一切の隙間はおろか、溶接面すら見とめられない。機械である以上、どこかで組み立てられているはずなのに。


「──いや、今は無視しましょう」


 ここでジッとして追撃が来るだなんて事態は避けたい。蛍をけしかけてきた敵は今もこちらの様子を伺っているのに違いないのだ。考え込むのはひとまず敵から逃れた後でも遅くはない。

 発信機を地面に投げ捨て、捲られた服を直す。ひとまず、この場から離れなくては始まらない。これまで起こっていた襲撃がこの追跡に由来するとすれば、これで、もう……


「──!」


 突然、リネンがアプリコットに飛びついた。だが、それは抱擁ではない。親愛からなるそれでなく、警戒に由来するそれ。


「アプリコット……これ……」


 リネンはアプリコットが直した服を再び捲り上げ、目を見開いていた。当然、アプリコットも何事かと目線を下に下げる。


 それはそこにあった。

 数分前と変わらぬ光景、すなわち、皮膚の下で光る発信機だ。


 反射的に視線が地面に落ちる。

 さきほど地面に捨てられたばかりの発信機が、二人を見上げている。


 消えない。いや、、これは。



「……取り出された」


 それは確かな予感だった。自身の法則の長所も短所も知り尽くしているが故の判断、わずかな位置のズレでもって、発信機が取り出されたことをチェラクラ・ラチェラクラは察した。


 一つ、たった一つだけができる。すなわち追跡が。

 追跡だけができて、それ以外はできない。チェラクラ・ラチェラクラの法則を一言で表すならばそうなる。

 

 彼女の固有法則は対象の身体の内部──正確には、皮膚を一枚挟んだ下に特製の発信機をする。発信機そのものに電波などの非法則性の追跡手段はなく、法則所有者であるラチェラクラによってのみ追跡されるマーカーとして機能するのだ。


 そして、なによりも。たとえ摘出されようと、チェラクラ・ラチェラクラに追跡の意思がある限り追跡が止むことはない。取り出したとしても発信機は再生成される。何十回でも、何百回でも、何千、何万だろうと。追おうと思えば、何度でも。


それが、


「……《危険牌フェア・ビーコン》」


 チェラクラ・ラチェラクラの脳内に浮かんだマップ、鮮明とはあまり言えないそれの中をアプリコットの位置を示す光点が移動していく。その速度が先ほどより速いことを見るに、走り始めたのだろう。


 標的である二人の狙いはあくまで逃走であって勝利ではない。増援を向かわせてはいるが現着にはまだ時間がかかる。追跡が露呈し、現地のバスク・チーズケーキと連絡が取れない今、ラチェラクラにできることはほとんどないに等しい。


「……」


 恐らく、バスク・チーズケーキはまた悪趣味な手段で二人を爆殺しようとするだろう。こちらからの介入を嫌って通信を切るのもままあることだ。憂慮すべきは、通信を切るときは決まって彼が標的を“気に入った”ことを示すことと、気に入られた標的の末路は大抵ろくでもないことだろうか。

 決着がつくまではどのみち介入などできない。勝つのは逃げ続ける二人か、それとも悪趣味な殺人鬼か、ラチェラクラは背もたれに体重を預け、軽く目をつぶった。



「法則由来、だよね」


 そうとしか考えられない。二人が出した結論は疑問を払拭したが、安心をもたらすには程遠い。当然だ。それは追跡から絶対に逃げられないことを意味している。発信機を作り出している法則の所有者を叩ければあるいは──だが、しかし、どこにいるかも分からない上に、見た目すら判別できない人物を探すのは不可能に等しい。


「──このまま、駅へ向かいます」

「……大丈夫?」

「敵の攻撃は止んでいます。撃退した……とまで言い切れるかは怪しいですが、手段を選ばない敵が攻撃を止めている。この事実が重要です」


 位置が割れているなら、蛍の敵がいなくともいずれ敵の追撃が来る。その前に位置を撹乱したい。


「もとより横断鉄道には乗る算段でした。それを早めるだけです」

「うん、最悪飛び降りればいい」

「……列車から?」


 リネンは“なにが不思議なのか”と言いたげな目のまま頷いた。



 ──冷めていく。冬よりも、人生の終わりよりも。

 寒気と怖気が脳から身体を降り、地面へ吸い込まれ溶けていく。

 少女はこの感覚をよく知っていた。実に5年ぶりの感覚。もう二度と味わうことはないのだと、そんな感傷に浸っていたというのに──


「……ノウマさん?」

「えっ」


 その声で少女──ジェリコ・ノウマは思考の海から浮上した。走る車の後部座席。沈む感情を無理やりに振り払う。

 運転席に座った胡散臭い細目男がこちらに喋りかけてきていた。


「大丈夫ですか? 調子がすぐれませんかね」

「あっ、いや、えっと……」

「落ち着いて、ゆっくりと息を」

「はっ……はい、えっと、その、大丈夫です」


 ジェリコは水クラゲを模ったクッションを強く握りしめた。そうしなければ、また余計なことを考えてしまいそうだった。


「目的地までは少し距離があります。今から思い詰めていては潰れてしまいますよ」

「……さ、サカダレさん、わたっ、わたしは……」


 アンキ・サカダレ、それが男の名。開いているのか分からない細い目はバックミラー越しではあるが、確かにジェリコを見つめている。


「ええ、ええ、言葉にせずとも分かっています。くだんの人もきっと理解してくれるでしょう」

「そう……だといいんですけど……」


 ジェリコからは見えない運転席で、サカダレは顔をしかめた。彼女と知り合ってから数年、彼女の感情は、態度は、まったく変わらない。良い方向にも、悪い方向にも。


「私は逆に楽しみなんです」


 サカダレは内心とは裏腹に言葉だけを弾ませた。


「ようやくその人に会える。あなたの話を聞いてからずっと気になっていましたから」


 その言葉に返事はなかった。沈黙の意味を理解し、なにか言葉をかけようとして──サカダレはそれを諦めた。



 木を隠すなら森、人を隠すならば雑踏。再び二人は喧騒へと身を投じていた。敵の追撃は未だなく、不安だけが募っていく。だが、そんな不安に従って首を垂れるのは愚か者のすることだ。リネン・ユーフラテスはその事実を痛いほどに知っている。


 スラムで残飯を漁っていたころときおり不安に押しつぶされる人がいた。それは男であったり女であったり、若者であったり老人であったりしたが、そんな不安に従って地面ばかり見ることになった者は、決まって前が見えなくなり、前方から振り下ろされる不幸という名の鉈に頭蓋を両断されることになるのだ。


「ね、アプリコット。何か食べない?」


 だからこそ、余裕は大事にせねば。


「このタイミングで、ですか?」


 思えば、二人が最後に食事をとってから随分になる。命がけの逃走劇は空腹を忘れさせるが、腹を膨らませることが不要になるわけではないのだ。


「歩きながら食べればいい、でしょ?」


 アプリコットが答える前に、リネンはお盆にのせられていた紙コップ入りのお酒を二つ取っていた。


「飲む?」

「……お酒、いけるんですね」

「身体を温めるのには、便利だったから」


 アプリコットの喉を液体が通過すると、僅かな熱が胃に広がった。少量とはいえそこそこ度数が高いようだ。


「なるほど」


 スラムで暮らしていた彼女にとって、冬の寒さは死活問題。そういったときに何とかして手に入れたアルコールの類は重宝したことだろう。

 改めて、アプリコットは目の前の少女のしたたかさを実感する。彼女はきっと、どこにいようとも生きる術を見つけるのだろう。自分がいなくても、きっと──


「──むぎゅ」


 リネンの両手が、アプリコットの両頬を挟み込んだ。お酒が入った紙コップはどうしたのかと思えば、彼女の裾から伸びる漆黒の茨が紙コップを空中へとどめている。


「……そんなことに『放出』、使っていいんですか?」


 答えはない。代わりにリネンはアプリコットの両頬をむにむにと揉んだ。


「……“置いて行かない”って約束、忘れないで」


 アプリコットは困ったように笑うと、軽く頷いて見せた。


 ──結局、二人が買ったのは薄い無発酵のパンに野菜と肉を挟んだものだった。タコスとも違う味わいはしばしの幸福と、食欲を思い出すに至ることとなる。


「美味しい、ね?」

「ええ、とても……」


 これまでの旅程は、常に警戒と緊張に溢れたものだった。どんなに気を緩めたとしても周囲に気を配り、敵の動きがあればそれに瞬時に対応しなければならなかった。

 けれど、一度自覚してしまえばもう止まらない。アプリコットもリネンも休憩を欲していた。身体ではなく、心の、だ。


「……横断鉄道なら、休憩できる?」


 リネンの疑問に、アプリコットはそっと頷いた。その頷きは多大なる願望を含んでいる。願わくば、そこに一時的な安心がありますように──


「──あっ、おい、アンタらだろっ!!」


 突然、雑踏から声が響いた。周囲の人間は一瞬そちらへ目を向け、しかし次の瞬間には目を離す。熱に浮かされた心は、見知らぬ誰かに構っている暇など生み出しはしない。当然、リネンとアプリコットもそうした。だが、声の主は次第に二人へと近づいてくる。


「アンタらだろ? なぁ!!」


 見れば、それは切羽詰まっているらしい男だった。強いアルコールの臭いと震える手足、頭には光る目玉のカチューシャと、どこからどう見ても祭りの熱に浮かされる一市民にしか見えない。だが、その目は、紛れもない恐怖で染められていた。


「おい、助けてくれ……頼む!」

「ちょっ、ちょっと、なんです?」


 縋りついてくる男をアプリコットが避けると、男はそのままもんどりうって地面へ倒れ込んだ。が、すぐに鼻から垂れる血すら気にせずに立ち上がる。


「お、おいおい……お前らじゃあないのか!? ああ、終わりだ! もう──」


「……敵?」


 軽く『放出』の準備をしつつ、リネンは問いかける。地面で嘆く男の姿勢は隙だらけ。敵意はないし、何かしようと思ってもこの距離と姿勢ではその前に二人がトドメをさすことができる。


「どうなんでしょう……ただの酔っ払いかも」


 少しずつ距離を離すが、男は再び二人を向き、


「やっぱりお前らだろっ! 頼む、一生のお願いだ。俺にはかっ、家族がっ──」


 男の目が、白目を。


「がっ、がっ……がっ──」


 変わっていく。まるでモザイクアートのように、極小のタイルが裏返しになるように──


 そして、爆発。爆風があたりのものを吹き飛ばし、炎が地面を舐めあげた。


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