旅路は長く、終点は遠く
「あの……ユーフラテスさん」
「リネン」
「お願いですから、その」
「リネンって、呼んで」
膝枕。アプリコットの人生において、おおよそ関わり合いになるはずがなかった概念。今されているのはそれだ。
アプリコットは顔を紅潮させながら、懸命にリネンの膝上から頭を退けようとし、リネンはそんなアプリコットの頭を無理くり抑えつけ、どこか不満げにその顔を見つめている。まさに、不毛。いや、不毛というかなんというか、既にアプリコットに勝ち目はないのだが。
「ぐぐぐ……力強っ……」
「うん、法則、使ってるから」
よくよく見れば、頭を抑えるリネンの腕には漆黒の茨が巻き付いている。
なんて無駄な法則の使い道なのだろうか。
「呼んでくれれば、すぐにでも離す」
「だからっ、そういう問題じゃ──」
二人の旅路は、驚くほど順調に進んでいた。
大陸横断鉄道の駅へはかなり離れており、徒歩で向かうのは論外。公共交通機関はバスオンリーだが、もうバスはこりごり。
ということで無理やりに人から型落ちの車を買い取り、こうして目的地へと向かっている。
「そういう問題、でしょ?」
で、今に至る。
高速道路のちょっとした休憩スペースで仮眠を取った際、リネンの不満が爆発した。つまり、“わたしは名前を呼んでいるのに、どうしてアプリコットは未だに苗字呼びなのか”。
あとはもうあれよあれよという間に、である。アプリコットが仮眠から目を覚ますと、既に自身の頭はリネンの膝にがっちりと固定されており、恥ずかしさに悶えたのもつかの間、現在は脅迫をされている。
「呼べば、離す。呼ばなければ、もっとアプリコットを堪能する」
さわり、とリネンの手のひらがアプリコットの頭を撫でた。
ぞわり、とアプリコットの脳を独特の感覚が駆け抜けていく。
あ、これダメなやつだ。癖になるタイプのやつだ。
アプリコットがそう察するのには、一秒と必要としなかった。
「離してください……」
「……」
リネンの指が、アプリコットの髪と髪の間に入り込んで、
リネンはリネンで、この状況をわりと気に入っていた。なんというか、こう、お気に入りのぬいぐるみを抱き込んでいる感覚があるのだ。
「あの……本当に勘弁を──」
アプリコットは限界だった。わりとちゃんと泣きそうだった。
羞恥心はとっくに限界を迎え、髪を
「呼んで、名前で」
優しく、しかして圧は強めに。
もがいてももがいても放してくれないので、
「……リネン、さん」
「うん、及第点」
◇
街を掠める高速道路は、その下に広がる街並みが発する光に呑まれつつあった。
時刻はもうすぐ午後九時。休憩混じりに進んできた旅路だが、幸いなことに昨日のバラテラム以来、刺客の襲撃はない。
「……ここが」
「はい。ここまで来れば、ですね」
街へ降りたら一晩夜を明かし、早朝に列車へ乗る。数時間の列車旅を終え、降りたなら事前に指定された場所で業者と合流し、そして。
「……ここからが、勝負」
「ええ、お互いに油断はせずに」
バス以外の経路を取ったことは、もう斡旋組合にもバレている。となるとそろそろ追手が追いついてくるはずだ。
先ほどはくだらない──リネンがこの言葉を聞いていたら随分と機嫌を悪くするであろうが──やり取りで時間を浪費してしまっていたが、いずれそんな余裕もなくなるだろう。
「ユーフラテ──」
「リネン」
「──リネンさん」
「うん」
「あと、どれくらい出せます?」
リネンの《
「……あんまり。バラテラムのときに、あらかた使い切ったから」
自身の髪、薄灰色のそれを撫でつけ、リネンは複雑な表情を浮かべた。
彼女の《
不満や不安といった負の感情、淀んだ空気、そういったものを自身の内に自然と蓄積することで、それを任意タイミングで成型、展開する。満タンの時、髪色は黒に、空っぽの時は純白に。髪色はゲージの代わりなのだ。
今のリネンは幸せである。隣にはアプリコットがいて、信頼と安心がある。一人で逃走を続けていたときなどとは比べるべくもない。
だからこそ、やりづらい。なまじっか幸せなばかりに不安も、焦りも、いつもより感じることがない。だから、貯まるものも貯まらない。
「大丈夫、いざというときは、ちゃんと自分でやるから」
リネンの言葉に、アプリコットは僅かに顔をしかめた。
「それ、いざというとき以外は禁止です。いいですね」
「……うん」
穢れを貯める方法は、もう一つ。それは、自発的な吸収だ。
手順にしてみれば、至極簡単。穢れを全面的に、意識して受け入れればいい。それだけでその大元ごと、リネンは吸収、蓄積することができる。
ただし、その行為はリネンにとって苦痛、不快、その粋を集めたものでしかない。
「俺も、リネンさんも、どちらも五体無事で国外へ出るんです。いいですね」
「わかってる」
とは言ったものの、リネンは緩む心を抑えきれない。
なんというか……変だ。心配されているだけだというのに、暖かい。離したくないぬくもりがその台詞一つ一つにある感覚だ。
と、唐突に、車は淡い光に包まれた。
「蛍、ですか……?」
蛍だ。車が、蛍の大群に突入したのだ。
「初めて、見た」
「俺も実際に見るのは初めてですけど……」
アプリコットの脳裏を掠める思考。“こんな都会に?”
次の瞬間、対向車線を走るトラックが火を噴いた。対応する暇などなく、思い切り打ち上げられた車は炎上したまま、白線の真ん中にひっくり返る。
続いて、少し間隔をあけて後方を走っていた乗用車が爆発。そのままそこで横倒し、炎を辺りに撒き散らす。
呆気に取られている暇すらありはしない。気づけば、二人の乗る車の窓ガラスに、蛍が一匹とまっていて、それはまるでモザイクアートのように形を変えていく。あたかも、その蛍を構成する極小のタイルが、順繰りに裏側になっていくように。
その姿を変えきった蛍は、しかしその輪郭を変えはしない。ただ、独特の金属光沢と、点滅する発光部位をもって──
「まさ、か──」
「《
一手、リネンが早い。
解き放たれた黒の奔流は巨大な蛸の足となって、アプリコットの身体を引っ張り、リネン自身をも車外へと退避させた。
──遅れて、爆発。
ジュッ、という不快な音と共にアプリコットの服が燃え焦げ、しかしその炎は蛸足が無理やり消し潰す。
今の今まで自分たちが乗っていた車が爆破炎上するのを確認し、自身とアプリコットを車外へ引っ張り出したリネンは、そのまま蛸足を路肩の更に向こう、高速道路の外壁部へと巻き付け、二人分の体重を支えたまま身を投げ出した。
二人の身体は落下を開始する。
「ちょっと揺れる、つかまって!」
蛸足が高速道路の主柱に巻き付き、無理やりに減速を試みる。ガリガリという削れる音と共に鉄骨があらわになり、欠片となったコンクリートが二人の身体を打つ。
「着地、するよっ」
リネンの台詞とともに、不時着する旅客機もかくや、という勢いで地上へ着地した。衝撃自体は蛸足による減速でほとんどない。だが、勢いまでは殺せずに、もんどりうって数回転がる。
着地地点が一般道でないことに感謝すべきだろうか。二人が着地したのはどこぞの服飾店の駐車場だった。
「ッ!」
まず、二人が行ったのは頭上、自分達が飛び降りた高速道路を見上げることだった。敵の追撃が、ほら。
高速道路から放たれる極めて強い炎の明かりに紛れ、淡い燐光が飛び立つ。一つではない。何十、何百という数の──蛍。
「今回の、敵は──」
今までの敵も、決して単純ではなかったし、弱くもなかった。だが、今回のコレは異常だ。周りへの影響なんて気にしちゃいない。性格破綻者にしか思えなかったバラテラムでさえ、人気のない廃墟で戦うという手段をとっていた、だというのに。
空から破壊がやってくる。皆を殺しに、やってくる。
◇
「ハァ〜」
男は、しつこいほどに深いため息をついた。
“今回の仕事は単純じゃない”。それは、
「ありゃあなんだよ、蛸の足ぃ? 事前に聞いてたもんと違うじゃんか」
男の出で立ちは、精一杯よく言ったところで“だいぶだらしない芸術家”といった風だった。
ぐにゃぐにゃの寝癖が残ったままの髪の毛、サイズの合っていないシャツとズボンは裾やら襟がすっかり力を失っており、いつから着ているのかということすら考えたくもない。
しかし、だがしかし、その瞳だけは爛々と輝いていた。
それは、いずれ味が消えることを理解していても、口にガムを放り込むことを忘れられない子供のような輝き。
いつかは失われるというのに、そのいつかが今ではないことを理解している輝きだった。
「──ま、趣味を曲げるのは主義じゃあねぇからさぁ」
男は、手にしていた巨大な虫かご。いくつものセルに分かれている巨大な機械仕掛けのそれを、僅かに持ち上げる。
「いつも通り、やらしてもらうわ。んで、今どこ?」
『……十二メートル先、国道四十三号線を北上中』
「ヒュー! さっすが情報部門統括様ァ!!」
『……あまり被害を出すことは、本来のプランに反する』
男のもう片方の手に握られたスマートフォン、その向こうで抑揚のない声でそう言った。
「あー、うるせぇうるせぇ」
端末を握った手で耳をほじり、男は虫籠のスイッチを入れる。解き放たれるは蛍。本来無害なはずの、蛍。
「まあ、アレだな」
男は、バスク・チーズケーキは、こともなげに口を開く。
「死傷者は、三桁以内に抑えてやるよ」
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