3. 瞬く炎は誰がため。
門出のために
三対の節くれだった漆黒の脚がゆっくりとほどけ、灰となって空へと舞っていく。絶命したバラテラムの死体と、その近くに立つアプリコット。そして、その正面に立つリネン。
「《
出会ったころの純白に戻った髪を揺らし、リネンは言った。
「出し渋ってた。ごめん」
後悔。今リネンの思考を支配するのはその二文字だ。
自分が出し惜しみせずに法則を振るっていればアプリコットが攫われることはなかった。いくら戦況をひっくり返せる力を持っていたとしても、適切なタイミングで振るえなければそれには何の意味もない。
しかも、あろうことに、リネンは人形に囲まれたあの瞬間半ばパニックに陥ったのだ。戦闘中にパニックになる、だなんて──
「大丈夫です」
アプリコットは、疲労に喘ぐ身体を床に降ろしながら微笑を浮かべた。
「結果的になんとかなった。ユーフラテスさんのおかげで」
「でも……わたしは……」
「今大事なのは、俺の命はあなたに救われたというその事実ですから」
リネンは、自身に対してはらわたが煮えくり返りそうな思いを抱えていた。
なにが負い目だ。なにが守ってほしいだ。わたしの考えは、理由はそんなものなんかじゃない。身勝手で、エゴイスティックで──
「さて、これからですが国外へ出るという最終目標は変えません」
場の雰囲気を変えるかのように、アプリコットが言った。
二人の身体は、万全とは言えない。だが、目立った傷がないことも事実。アプリコット、リネン両者ともに最も大きなものは打撲痕であり、それらは捨て置いてもまあ良い程度。ここで時間をとって包囲網を構築されるよりも、こちらの狙いがバレる前になるべく前へ、前へ。
「でも、もう──」
バラテラムの人形は、バスの車内で待ち伏せしていた。ということは行先はもうバレている。先回りしている刺客がいないとも限らない──いや、いないわけがない。
「プランを大幅に変えましょう。陸路経由で国外へ出ます。そして、国境へは──」
「国境へは?」
「横断鉄道で国土の反対側から、というのはどうでしょう。あれなら一度乗ってしまえば外部からの侵入は難易度が高いですし、追跡も難しい」
「おお、鉄道。私、乗るの初めてかも」
「バスに続いて、俺もです」
「お揃い?」
「……ふふっ、そうなりますね」
となると、次はどうやって鉄道駅に向かうかになるが、
「車、運転できる?」
「長いことしていませんが、経験なら一応は。ただ、車を調達するのが……」
「そっか、確かにそうかも」
レンタカーでは足がつくのが怖いし、ここ周辺に店舗などない。誰かから車を借りるか、それか最悪奪うかになるが──
「……とりあえず」
リネンは、アプリコットの目の前で両手を広げた。
「……えっと」
二人の背丈はほぼ一緒、少しリネンが低い程度なので二人の視線は寸分たがわずほぼ同じ高さで合った。
「ん」
リネンが、何か言いたげにそんな声──鳴き声? を発する。
「ええと、ユーフラっ──」
リネンが、突進してきた。つまりは、ハグである。
「な、なんですか」
「おつかれさまの、ハグ」
「……“おつかれさま”は、あなたのほうですよ」
アプリコットは、そっとリネンを抱き返す。
リネンは、アプリコットの少しぬるめの体温を。
アプリコットは、リネンの運動後で少し高めの体温を。
安心と、安堵。それぞれがそんな感情を抱いて、そして手を離した。
「アプリコット、わたしね。嘘をついた」
「嘘?」
思い出されるのは、初めて見たときのアプリコット。
その姿を見たとき、思った。
「わたしは、わたしのエゴであなたを巻き込んだ」
巻き込んだから一緒に、ではなく、一緒にいたいから巻き込んだ。因果関係は逆なのだ。
「はじめてあなたを見た。駅で」
「……ああ、あの時に──」
「“なんて弱弱しいんだろう”って」
「えっ」
この人は、このままでは潰れてしまう。
夜道を歩いて、どこか遠くへ行ってしまう。
それは、嫌だった。
「あなたを抱きしめて、“いかないで”って言いたかった」
黙っていた。アプリコットじっと黙って、その話を聞いていた。笑いも、怒りもせず、無表情でもなく、何かを考えるように。
「……俺、赤やピンクが苦手なんです」
そして、口を開ける。開けるべきときだと、そう思ったから。
「血とか内蔵とか今までこなしてきた仕事を連想して、嫌になるんです。だから、ミートソースを作って、誤魔化して、上塗りして──」
そこまで一息で言い切ると、アプリコットは思い切りえずいた。駆け寄ったリネンが背中をさすろうと──
「ありがとう、ございます」
「──」
ハグ。今度はアプリコットから。
「人様に“いかないで”なんて言われたの、初めてだったんです」
「……」
もう一度だけ、体温を交わそう。
願わくば、これが最後ではありませんように。
「……アプリコット」
「はい」
「“いかないで”」
「決して、どこにも」
◇
男は、疲れた目じりを抑えた。目の前のデスクには書類の山、未だ目を通していないそれらは、彼の陰鬱な今後を示している。
自身のあごに貯えられたひげを撫で、ため息交じりに次の書類を手に取る。山の高さは、変わらない。
「入るよ、リチャード~」
「ああ、入ってくれ」
木製の扉が開き、そこからきぐるみの頭が顔を出した。ティラノサウルスの着ぐるみ──海外のイタズラやらなんやらでよく見かけるあれだ──を身に着けた人物はビニール製のわしゃわしゃとした腕で、書類の束を抱えたまま部屋の中に入ってくる。
「あれ、もしかして死にかけ? あ、これ追加ね」
着ぐるみの頭を取り、少女は椅子の上でくたびれ切った初老の男、リチャード・スモーフィンに書類束を差し出した。
「……なあ、パーチくん。そろそろ、現場に出たいのだがね」
「まだダメ~、この山が最後だから」
パーチとよばれた少女はそう言うと、そのトロッと垂れた目を一度擦ってから再びティラノの頭を被った。
「私は書類仕事に向いていないようだよ」
「そんなこと言って、書類仕事だってミス一つ無いのにねぇ~」
「得意なことと、好きなことは別なんだよ……っと、これは」
卓上に置かれた書類を捲るスモーフィンは、ふと手を止めた。それは、待ちわびていた報告。リネン・ユーフラテス発見の報告だ。
「おっ、見つかったんだね~、彼女」
「これでやっと再開できる」
「そっかそっか~、それじゃ、次も見てみてね~」
「……?」
促されるままに書類を捲ったスモーフィンの目に飛び込んできたのは、“確保失敗”と“組合員死傷”の報告。それも三つずつ。
読み進めるごとに、リチャードの眉は険しくなっていく。
ランバルト・オウブサイズ、彼はまだいい。無論死亡自体は悲しむべきだし、惜しむべき人間ではあったが、彼の《
問題はその次、チャチャルカ・ウーティングとバラテラム・ガドロホック。
その年期には大きな隔たりがあるものの、どちらも対人戦闘にかけては他に追随を許さない実力の持ち主。チャチャルカに至っては、並大抵の者に遅れをとるとは思えない。
リチャードは無言で煙草に火をつけ、咥えた。“ホームシック”という銘柄のそれは何度か微妙に味は変わったものの、リチャードにとっては二十代からの親友だ。
煙はゆっくりと立ち上り、薄くなって消えていく。見えはしないが、今頃は換気扇から外へ出、天へと昇っているのだろう。
「……」
リチャードの手が、再び書類を捲った。
「アプリコット・ファニングス……?」
「《
「ファニングス……ファニングス……ふむ」
書類に顔写真はない。実際に会ってみればわかるのだろうか。
「それで、どうする?」
リチャードは押し黙った。
もはや、躊躇っている場合ではない。すぐにでも行動を起こすべきだということは分かっていた。だが、どうしても、あと一歩が踏み出せない。数年前までは平然と超えることができたラインを、今は越えられない。
「リチャード」
彼女を道具として見る決心は既に済んでいる。済んでいたはずなのに、今になってそれが揺らぐなどと──
「リチャード」
「──あ、ああ。どうしたね」
パーチはティラノサウルスの着ぐるみ越しに、リチャードを見つめる。
「任せて、私に。リチャードが踏み越えられなくなった一線を、私は踏みにじれるから」
リチャードは深く息を吐く。煙が再び空気中に満ちた。
「けほっ、やめてよ。煙草苦手なのに~」
「そう、私にはできないんだ」
「禁煙が?」
「……ひとまず、今出ているフリーの者たちに任せるとしよう」
パーチは着ぐるみの足で器用に床を蹴り、不満げにその場でくるりと回った。
「……今出てるって……任せる気? あのチーズケーキに?」
「いいや、
「後処理班が大変そー……」
パーチはため息をついた。
バスク・チーズケーキ。奴がこなした仕事は、ほとんどの確率で標的の生死を確認できず、クライアント側と揉めに揉める。
標的の原型が、残らないからだ。
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