2. もしもあなたに触れたなら。

せせら笑うショータイム

「大丈夫ですか」


 アプリコットの言葉に、リネンは目をまん丸にすることで返答した。その目には様々なものが含まれている。恐怖、怯え、憐憫、後悔、けれど、もっとも割合が大きいのは、安心だった。


「立てますか?」

「無理、かも」


 絞り出すような返答。アプリコットはわずかに微笑むと、


「持ち上げますよ、いいですか?」


 いつまでたっても返事が無いので、アプリコットはリネンの背中と膝の裏に手を回し、床から持ち上げる。


「……うん」


 持ち上げてから、リネンがぽつりと同意した。



「つまり、わたしは斡旋組合から狙われてる」


 抱えられながら、リネンが言った。その言葉を予想はしていたものの、予想以上の疲労がアプリコットを襲う。


 “斡旋組合”とは、言うなれば殺し屋ネットワークである。

 仕事の斡旋からサポート、殺し屋同士の諍いの仲裁まで。それまで殺し殺されが当たり前であった裏社会をまとめ上げ、現在の秩序を作り出したのは斡旋組合であると言い切ったとしても、それは決して誇張表現ではない。


「……斡旋組合が、生け捕りの依頼を仲介したと?」

 

 斡旋組合が仲介するのは、殺しの依頼だけ。一部、物品強奪等の依頼がサブとしてつくことはあれど、“対象を生け捕りにせよ”などという依頼は聞いたことが無いし、そもそも殺しのプロに頼むにはリスクが高い。


「ちょっと、違う」

「あの老婆はあなたをとらえようとしたんじゃ──」

「そっちじゃない」


 どうにも、リネンには言葉を圧縮して喋る癖があるらしい。効率的だと言えば聞こえはいいが、こうして面と向かって話を聞きたい場面では明確な欠点として作用してしまう。


「私を欲しがっているのは、斡旋組合そのもの。仲介された依頼じゃない」


 ありえない。アプリコットの脳裏に浮かんだのは、そんな言葉だった。


 もとより、斡旋組合は秩序維持組織の側面が強い。従うも従わないも自由だが、従った場合のメリットは大きいし、その逆も然り。アプリコット自身だって、請け負う仕事の大半は斡旋組合から仲介されたものだ。

 斡旋組合が個人を狙う場合、考えられるのはたった一つ。秩序を乱していると判断された場合。これは主に無差別殺傷を行う者や組合の瓦解を狙う者を指す。だがそれなら生死を問わずデッド・オア・アライブ。となるはず。


「リチャードは、わたしが欲しい。だから逃げた」

「リチャード・スモーフィン……」


 斡旋組合の現組合長にして、人望の鬼神。

 先代にしか務まらないと言われていた斡旋組合統括の座に収まり、その役目を十二分にこなす化け物。

 この界隈裏社会にいるのに、良い噂しか聞かない不気味な男。それが、リチャード・スモーフィンである。


「あの人があなたを、なぜ?」

「わたしの法則に関連する」


 どのような、と聞こうとしたアプリコットを、リネンは押しとどめる。


「そこで」


 リネンが、ずいっと身を乗り出した。アプリコットの瞳を、その真っ白な瞳が見つめ返す。


「私を守ってほしい。あなたと一緒に、国外へ出る」

「……なるほど」


 斡旋組合の影響は国全体に及んでいる。それこそ裏の界隈だけでなく表に至るまでも。だが、あくまでもその範囲には冠として“この国の”がつく。隣国までは及ばない。


「あなたも、出るつもり。違う?」

「確かに、今取れる最善はそれですが──」


 既にアプリコットも斡旋組合の刺客を殺している。ならば目を付けられることは避けられないだろう。この国で斡旋組合に目をつけられるということは、それすなわちこの国のすべての裏稼業を営む人間から狙われることと同義。

 だが、果たして出られるだろうか。国境までは随分と距離がある。それに、彼女を連れてとなると……


「──分かってる」


 リネンも、それを理解していた。


「足手まといなことは、分かってる」


 アプリコットを見据えるその瞳は強く開かれている。元来そうあるのではなく、意識して強くあろうとするそれだ。


「それでも、あなたなら信用できると思った」

「……理由は」

「勘」

「……勘?」

「どのみち、あなた以外に頼れる人はいない」


 リネン・ユーフラテスを見捨てる。それがアプリコットにとっては恐らく最善の道。戦うにせよ逃げるにせよ、どちらにも慣れていない少女というのは足かせにしかならない。だが、見捨てるにしても──


「わたし、バッチリ強い」

「え?」

「信用してほしい。特に、場を一気にひっくり返すときは」

「それは……あなたの法則、ですか」

「数は撃てない。それに、今も。だけど、その時から来たら、必ずあなたの助けになる」


 目の前の少女は、真剣そのものだった。嘘をつくつもりもなければ、けむに巻くつもりもない。ただただ真実。

 確かに、リチャード・スモーフィンが彼女を欲しがっているのなら、その価値があるということ。だとしたら期待も持てるのだろうか。


「……保証はできません。なるべく、守りますが──」

「それでいい。わたしも絶対を強制するつもりはない。」


 “取り合えず” で手を取り合った関係性。だが、今はひとまず進むしかない。二人で、なんとか身を寄せ合って。


「よろしく、アプリコット」

「お願いします。ユーフラテスさん」



 手を伸ばし、髪を撫でてみる。栗色のそれはごわごわとしていて、手入れはあまりされていないことが分かった。そっと指で髪をみれば、それはおどろくほど引っかかって。リネンは仕方なくそこから指を抜いた。


 リネン・ユーフラテスがアプリコット・ファニングスを巻き込んだのは、本当に偶然だった。なんの意図もなく、たまたま。

 その日の午前に駅で見かけた際、殺し屋であることは知ったが、それだけ。偶然再会し、偶然頼った。


 だから、負い目がある。

 彼に助けを求め、エゴイスティックにも自分の計画に巻き込んでしまった。


「わたしが、守るから」


 リネンの法則は、断続的な戦闘に適さない。だから、アプリコットに頼らざるを得ないときは必ず来る。それでも、せめて助けられるときは助け、守れるときは守り通す。


 もう一度、そっと髪に触れるとアプリコットが身じろぎした。リネンはそっとその耳に口を寄せ、囁く。


「おはよう、アプリコット」

「……お、おはよう、ございま、す?」


 混乱するアプリコットの顔。リネンは口角を上げ、アプリコットのすぐそばから立ち上がった。二人を包んでいた毛布がふわりと床へ滑り落ちる。


「少し寒かったからぬくもりを借りた」

「そ、そうですか」

「戸棚に缶詰があった。食べる?」


 リネンは、あずき缶を差し出し、アプリコットはそれを受け取った。



 二人が一時的な潜伏先として選んだのは、長い間住人が帰っていないらしい放棄された家屋だった。埃と汚れはすさまじいが、ある程度の備品は揃っている。


「懐中電灯、持っていく?」

「電池があるなら、ですかね」

「液漏れしたやつなら、ある」

「あー……」


 この先の旅は長くなる。どこで追手が来るか分からない以上、ここである程度の物資は揃えておきたい。


「懐中電灯はなしで」

「わかった。地図は?」

「そっちにあるやつと比べて新しい方をもっていきましょう」

「了解。……アプリコット、どうやって出る?」

「国外に、ですか」

「うん」

「一番安全なのは空路です。一度飛行機に乗ってしまえば追手が追いつく可能性は限りなくゼロになる。しかし──」

「空港は危険、でしょ」


 斡旋組合の影響範囲は、この国の中だけで言えばあらゆる場所に及んでいる。それは空港でも例外ではない。


「はい、なので俺は海路を提案します」

「海路……でも、海路も」

「ええ、通常通り検問を通って出国するのは危険です。そこで、違法な手を使います」


 つまりは、密入国。そういったことを請け負う業者に頼めば、比較的簡単に隣国に入ることができる。問題は、どうやってそれを実行に移すかだ。


「となると、海沿いまで。だね」

「そこが、一番の問題です」


 恐らく、請け負ってもらうこと自体は簡単だろう。だが、業者も法から隠れ忍ぶ身。この街まで迎えに来ることは、十中八九渋るはず。

 だから、行くしかない。海に面した街まで。



「……はい。じゃあそれで」


 カウンターで、アプリコットがチケット売り場の店員と話している。

 徒歩で行くわけにもいかず、かといってこの街にレンタカーなどない。そこで、二人が選んだ移動手段がバスだった。


 リネンはカウンターの後ろ、壁際のベンチに腰かけ、エナジーバーを齧る。

 手元にある地図と照らし合わせれば、ここから道なりに行くと湖畔の街があり、その湖から川へ、そして川から海へ出れるはずだ。もっとも、この古い地図がどれほど頼りになるのかは怪しいものだが。

 リネンの知識は常識、特に地理関連のものがごっそりと抜け落ちている。それは彼女が人生の大半を路地裏で過ごしてきたというのが大きい。

 読み物によって付け焼刃の言語能力は身に着けたが、どうにもローカルな情報となると不得手なのだ。


「オーケーですユーフラテスさん。行きましょう」

「うん」


 アプリコットからチケットを受け取る。売り場のガラス戸を開ければ、そこには既に今からしばらく世話になる長距離バスがエンジン音を響かせ待っていた。


「では」

「……うん」


 リネンは、そっと自身の髪──今や濃い灰色に染まりつつあるそれに触れながら、心ここにあらずといった様子で返事をする。


「っと……」

「大丈夫ですか?」


 一歩目でつまずいたリネンの身体を、手を引く形でアプリコットがそっと支えた。    


「──ありがとう」


 トクトク、と。心臓の鼓動が反響する。狭い胸の内で跳ね返ったそれは言葉になって口から飛び出した。


「どういたしまして」


 アプリコットは、平然とリネンを押してバスへと押し込んだ。リネンの言葉が包み込む意味さえ気づかずに。


 だから、なのだろう。そんな言葉に気を取られて、気づけなかった。

 ふっと周りに意識を向けて見れば、バスの座席がすべて埋まっていることに気が付く。座席を埋めるのは人ではなく、表情のない等身大の木の人形。


「……え」


 運転席に座っていた木の人形が、帽子を取り、リネンの腕を掴んだ。


「ユーフラテスさん、離れて!!」


 アプリコットの声にリネンが身を屈めれば、釘がその上を通過して木の人形の顔面に突き刺さる。その人形がもんどりうって運転席内に倒れこむのと、座席からすべての人形が立ち上がるのは同時だった。


「こいつ、ら──」


 人形が溢れた。狭いバスの乗車口から溢れる木の人形の軍勢は瞬く間に二人を飲み込んで視界を塞ぐ。

 木、木、木。木目のみで構成された顔がリネンの視界を埋め尽くした。アプリコットの姿も見えず、周囲がどうなっているのかもわからない。ただ一つ、分かるのは包囲されているということだけ。


 人形が、腕を掴んだ。振りほどこうと身を揺らすが、二体目の人形が今度は反対側の腕を──


「離、せっ!!」


 一瞬の逡巡。リネンの腕を掴む人形が、漆黒の茨に貫かれた。


 洪水のように、リネンの背から何本もの醜悪なものが立ち上がっていく。

 節くれだった脚、虫が持つそれがぞわり、と広がる。


「わたしに、触れないで」


 もはや黒に染まったリネンの髪が揺れた。



「女と男、普通間違えます? まったく……」


 不機嫌そうな男の声で、アプリコットは目を覚ました。


「これだから木偶人形は……判断力ってものがないんですねぇ」


 薄暗い空間。目が慣れてくるにつれて、そこが四方をコンクリで囲まれた巨大な空間であることが分かってくる。


「おや、目を覚ましましたぁ?」


 硬い床に横たわるアプリコットを、神経質そうな男が覗き込んできた。趣味の悪い赤紫色のスーツと、細いフレームの眼鏡、そしてその隣に隊列を組んで待機する、何体もの人形。


「ぅ……」


 腕を動かそうとしてみるが、当然のように縛られている。足も同様で、それぞれが鉄製の鎖で拘束されているようだった。


「目が覚めたのなら、さっさとお嬢さんの場所、教えていただけます? 正直もう帰りたいんですよ。ほら、ここらへんは明らかに準スラムって趣でしょう? 私のような人間にはどうも合わない」


 コツコツと苛立ちげに、男の靴が床を叩いた。


「斡旋組合の人……ですよね」


 ため息をつく男にそう呼びかけると、男は肩眉をひょいと上げて答える。


「ええ、そうです。バラテラム・ガドロホックと申します。名前も教えたことですし……お嬢さんの場所を」


 アプリコットは周囲を見渡し、状況の把握に努める。

 壁、天井、床、どれも剝き出しのコンクリートなところを見るに、ここは廃墟か、もしくは建築途中の建物なのだろう。


「あの、聞いてますか? 人に名乗らせておいてあなた名乗ってませんよね? しかも丁寧に“教えてください”と頼んだにも関わらず、あなたはお嬢さんの位置すら答えない」


 ベッド、冷蔵庫に電子レンジらしきもの。どうやらここはバラテラムと名乗った男にとっての拠点らしい。


「これだからスラム出身は……話が通じないんですよねぇ!」


 ドンッ、と。バラテラムの靴が床を強く叩いた。


「常識も、礼節どころか礼儀も知らない。ほんっとうに嫌なんですよねぇ! 汚物と泥にまみれた穢れた犬がっっ!」


 そして、その勢いのまま、硬い靴底がアプリコットの腹を蹴り上げる。

 内臓へのダメージはない。このバラテラムという男にそんな力は無いからだ。しかし、痛みは確かにある。


「このポンコツどもも、そこに転がる野良犬もっ! すべてにむかっ腹が立つ! クソッ、クソッ!」


 怒りのぶつけどころがないらしいバラテラムは、整列する人形を思い切り蹴った。が、人形は見た目通り木製なため、蹴った側の足が痛んだらしい。すぐに脚を抑えてうずくまった。


「うぅ──ぐ、平静を保てバラテラム……リチャードさんにもそう言われたろう?」


 ぶつぶつと独り言を漏らしたバラテラムは、縋るような足取りで部屋の中央にある豪奢な椅子へと腰を下ろした。


「……ともかく、私が欲しいのはお嬢さんの居場所なんですよ。私の使えない木偶人形どもが間違えた以上、もうそれしか道はない」


 椅子の真横にある小さな丸机に、人形がグラスを置くと、すかさず、二体目の人形がそこへ真っ赤なワインを注ぐ。


「なぁに、悪いようにはしませんよ。えーっと、失礼……あなたの名前、知らなかったんでした。ああ名乗らなくて結構。ともかく、それさえ言えばあなたを開放し、謝礼を払うことをお約束しましょう」


 ワイングラスを傾けながら、バラテラムは言った。

 それは、彼にとって最大限の譲歩である。程度を問わず、自身が“譲る”こと自体が最大限の譲歩なのだ。だから、それに乗らない人間は愚かだし、事実、5年間の短い殺し屋人生において、その要求を呑まなかった者などいなかった。


 だが、アプリコットは、はなからそんな言葉を聞いてはいない。彼の目は空間全体を、そしてバラテラムを見つめていた。つまり、見据えるのは──


「……クソ野良犬が」


 殺意に反発するかのように、バラテラムが吐き捨てた。


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