孤児院 -困った管理者-
温かい。人の体温ってなんでこんなに安心するんだろう。
「アンかい。まったく、余計なことをしやがって」
「ごめんなさい。でも、ノアは身体が弱いから」
「そんなガキ、死んだら死んだで新しいのを拾ってくればいいだろう」
オヴァさんはアンお姉ちゃんには比較的優しい。
お姉ちゃんが意見はしても反抗はしないと知っているから。それから、十一歳になってからお姉ちゃんが「卒業」に向けたお仕事の予行演習をしているから。
何をやっているのかは知らないけど、お姉ちゃんは二、三日に一度夜に出かけていって朝早くに帰ってくる。
お金はオヴァさんか孤児院長に取られてるみたいだけど、たまにこっそり買ったおやつを私たちにも分けてくれていた。
たぶん、そういうのが賢いやり方なんだと思う。
お姉ちゃんは相手を刺激しないように声を和らげつつ私を弁護する。
「この子、顔立ちが整っているでしょう? 大きくなったら商品になると思うんです。だからあんまり傷物にするのは良くないかなって」
舌打ち。
オヴァさんは顔色を変えると立ち上がって踵を返した。
「アン。あんたがもっと稼いでくればあたしだってもっといい煙草が買えるんだ」
「ごめんなさい。もっと頑張りますから」
お姉ちゃんの監視付きなら、と木板は拾わせてもらえた。
荒れた外の地面を裸足で歩くのは中以上に苦痛だったけどそれは仕方ない。
帰り道、拾った板を抱きしめたお姉ちゃんは私に「ごめんね」とこぼした。
「私がもっとしっかりしていたら」
「……お姉ちゃん。商品って、もしかして」
「ノアは頭がいいからわかっちゃったかな」
窓からも孤児院の入り口からも離れた位置。
ものぐさなオヴァさんが様子を見に来ることもないだろうから、ここなら他の人には話し声が聞かれない。
「ノアは可愛いから、私と同じで娼館送りだと思うんだ」
お金と引き換えにお客さんに一夜の快楽を与える場所──要するに風俗店だ。
詳しくはないけれど、中世なんかのそれは今よりもずっと福利厚生も衛生管理もしっかりしていなかったはず。
下町の娼館なんて奴隷を働かせているのと大して変わらないはずだ。
性病を考えたら娼婦の死亡率と平均年齢はかなり悪い。
「あと三ヶ月したら住み込みで働かせてもらえるの。そうしたらお給料を自分で使えるし、もう少しいい服が着られるし、ご飯だって食べられる」
夢を語るように紡がれる薄給酷使の内情に吐き気がこみ上げた。
「そんなの、ここに比べたらマシなだけで」
「仕方ないんだよ」
遮るような言葉に私はなにも言えなくなる。
「仕方ないの。我慢していたほうが楽に過ごせるんだから、そうしたほうがいいんだよ」
部屋に戻った私はドニに嫌味を言われながら隅に蹲って夜まで過ごした。
◆ ◆ ◆
私──アンは昨夜からずっと後悔している。
孤児院にいる五歳の女の子、ノアのことだ。小さいあの子にひどいことを教えてしまった。
あなたは将来、大人の男性に身体を売って生きていくんだよ、なんて。私だって知らされた時は大泣きしたのに。
ノアはどう思っただろう。
娼婦になるくらいなら死ぬ、なんて言い出さないといいんだけど。
「おはよう、ノア」
「……おはよう」
翌朝、私の不安をよそにノアはもいつも通りだった。
三人で寝ていたベッドからもぞもぞ起きて眠い目をこすりながら挨拶してくる。ぼんやりしてるように見えるけど、そうじゃない。いろんなことがよくわかっているから淡々としているだけ。
実はしっかり周りを観察している。
ベッドからはみだしかけた子を助けながら揺り起こす姿を見て、私はなんだかほっとした。
ノアは本当に頭がいい。昔から私でも「え?」と思うようなことを不意に質問してくることがあった。勉強が向いているのかもしれない。
でも、昨日はそのお陰で痛い目に遭った。
頭がいいけど利口じゃない。前からそうだったと思う。
無駄だから黙っていただけであの子は何も諦めていない。そういうところがオヴァさんの癪に障るのかもしれない。
他には見たことのない真っ黒な髪。
ほとんど日に当たっていない白い肌。
細すぎるくらい細い手足。
口は達者だけど体力はぜんぜんない。
目の奥は深くて、何を見ているのかよくわからない時がある。
私が知っているのはそれくらい。一緒にいてもわからないことはたくさんある。私にも言いたくないことがあるみたいに。
──ノアは孤児院では珍しい赤ん坊からここにいる子だ。
普通ここに来る子は幼くても三歳。
幼すぎると手間がかかるしすぐに死ぬからって赤ん坊は引き取らない。オヴァさんなら殺して埋めてもおかしくなさそうだけど、そうされなかったのは「一緒にお金が置かれていからだ」って聞いたことがある。
嘘かほんとかはわからない。
ただ、もしそうだとしたらノアはどこかいいところの子供だったのかもしれない。顔が整っているのもそのせいなのかも。
生まれが違うと性格も変わるものなんだろうか。
もやもやと考えながら私はみんなを起こして食堂へと向かわせた。
いつものクズ野菜スープと硬いパン。
たまにチーズがひとかけらつくけど、今日はなかった。昨日のこともあるしオヴァさんの機嫌がよくないのかもしれない。
「さっさと食っちまいな」
お酒とタバコで荒れた声で指示すると全員に睨みを利かせてくる。
目に留まっただけで怒られかねないのでみんな黙って食べる。スプーンなんてない。パンは手づかみで、スープは直接お皿に口をつける。
私は男の子が「少し寄越せよ」「やだよ」とか小突きあうのを小声で注意して、食べ足りなさそうにしている幼い子に私のパンを半分分けた。
ノアは淡々と自分の分をただ口にしている。
そういえば、あの子は前から不思議と手がかからなかった。最初はなにもできなかったけど、ひとつずつ教えていくと気づいたらできるようになっていた。まだ五歳だけど年上の子よりよっぽどしっかりしているくらいだ。
これで変なことを言いださなかったら安心なんだけど、
「食べ終わったかい? 終わったらさっさと戻りな。余計なことはするんじゃないよ」
最後の言葉はほとんどノアに向けられていた。
あの子もそれがわかっているのか「はあい」と返事をする。でも、本心からは言っていない。
私だってこんな暮らし嫌だ。
大きくなれただけでも運が良い。昔は同い年の子が三人いたけどみんな死んでしまった。お姉ちゃんたちもみんな卒業してしまった。
十二歳になると孤児の人数に入らなくなるので他に売られるのだ。引き取り先は娼館だったり職人だったり、いろいろ。
卒業してから顔を見せに来てくれた人は一人もいない。
泣いてもなにも変わらない。文句を言ったら拳か蹴りが飛んでくる。
気持ちを押し殺して従順に振る舞う今日もただ部屋に戻る。
戻ったら座ってじっと夜を待つだけ。
これならむしろお仕事をしている時のほうが気楽かもしれない。
お客さんから暴力を振るわれることもあるけど痕が残るようなことはされないし。
──あと三ヶ月。
三ヶ月経てばここから出られる。
魔法のような言葉を胸の中で繰り返して、
「ねえ、お姉ちゃん。どうにかしてオヴァさんを追い出せないかな」
不意の提案に私は信じられない気持ちになった。
◆ ◆ ◆
仕方ないと言われても諦める気にはなれなかった。
一晩考えてみたけれど、原因を取り除くのがやっぱり確実だ。
でも、お姉ちゃんは驚いたような顔で首を振って、
「……無理だよ。あの人は孤児院長様が雇ってるんだから」
お姉ちゃんいわく、孤児院長は商人の娘らしい。
男兄弟がいるので本業は継げないものの、この孤児院の経営を任された。別に家を持っていてここには住んでいないらしい。
来るのは何か月かに一度。
私たちが会うのは年に一度あるかないかで、話しかけられることもない。いつも人数だけ数えて行ってしまうそうだ。言われてみるとそんなことがあったような、なかったような。もしかしたら私が寝ている時だったのかもしれない。
「でも、会う機会はあるんだよね?」
「オヴァさんも一緒なんだよ? 怒らせたら後でどうなるか」
お姉ちゃんが「お仕置き部屋行きかも」と続けると誰かがひっと悲鳴を上げた。
孤児院には地下室があって、特に悪いことをした子供のしつけに使われている。……というのは名目で、実際にはオヴァさんが気に入らない子を閉じ込めてはストレス解消をしている。
窓もないので明かりがないと真っ暗になるし毛布もなにもない。
泣いても叫んでも他には聞こえない。ご飯ももらえず丸一日放置されることもあれば動けなくなるまで痛めつけられることもあるらしい。
私はまだ行ったことはないけれど、話題を振ったお姉ちゃんまで青ざめているあたりみんなのトラウマのようだ。
……正攻法は駄目。
そもそも次の面会を待っていたらいつになるかわからない。
手っ取り早くあの人を追い出すには強硬手段に出るしかない。
「じゃあ、オヴァさん自身が辞めたくなるようにするのは?」
「なんだよそれ。どうやるんだ?」
さらなる提案にはまさかのドニが食いついてきた。
いつもは私に嫌味を言ってくる茶髪の少年。興味深そうに目を輝かせて寄ってくる。この歳の男の子って何をするかわからなくて正直怖いんだけど、話し相手ができるのは貴重だ。
快く思っていないらしいお姉ちゃんには悪いけれど話を続けることにする。
「例えば嫌がらせかな。みんなで物を隠すとか夜中に脅かすとか」
「なるほど。でも、そんな隙あるか?」
夜は部屋に鍵がかけられるので抜け出すのは難しい。
物を隠すにしてもオヴァさんが食堂にいる時じゃすぐに見つかってしまう。
物語でよく見る手だと「お化けのフリをして怖がらせる」とかもあるけど……あれは最低限の道具がある前提だ。それに怖がりが相手じゃないと普通に見破られかねない。
「いっそ全員でかかってやっつけちゃうとか」
「あんなのに勝てるか?」
「いくらなんでも私たち全員なら勝てるよ」
寄ってたかって噛みついたり蹴っ飛ばしたり。物を投げたっていい。向こうも抵抗するだろうけどさすがに全員を相手にする体力はない。性格はモンスターでもただの人間なんだし。
ドニはこれに「いいかもな」と言ってくれたけど、お姉ちゃんの声がそれに釘を刺した。
「そんなことしたら捕まって牢屋に入れられちゃうよ」
オヴァさんはれっきとした都の住人だけど私たちは孤児で住民じゃない。
司法のしっかりしている日本ならともかくこの国じゃ身分の差は大きい。
情状酌量もあまり期待しないほうがいいかもしれない。
するとドニが「ははっ」と笑って。
「ここより牢屋のほうが快適かもな」
これにはお姉ちゃんも「それは……」と言葉を濁した。
罪人と孤児と果たしてどっちがマシなのか。
◇ ◇ ◇
「他になんかねえかな、あいつをぎゃふんと言わせる方法」
「……そうだなあ」
それからドニは私にどんどん話しかけてくるようになった。
小利口な私を馬鹿にするんじゃなくて利用することを覚えたらしい。
他にやることがあるわけでもない。
私も求められるままいろいろな作戦を考えた。
厨房からナイフや鍋を持ち出してきて攻撃するとか、トイレに行くフリをしてどこかに隠れて夜に襲撃するとか、身体の小さい子なら窓から抜け出して誰かに助けを求められるんじゃないかとか、出られるなら孤児院の入り口に落とし穴を掘ってみるのはどうかとか。
実現の難しいただのアイデアならけっこう思いつく。
少なくとも「今晩のご飯もどうせ同じだよね」とか考えてるよりは建設的だし楽しい。何日か経つとドニ以外の子も声をかけてくるようになった。
「なあ、その話おれも仲間に入れてくれよ」
「あ、あの、私も……」
「もちろん。一緒に考えようぜ」
オヴァさんがいなくなれば少なくとも暴力は振るわれなくなる。
私たちは物騒な話をまるで夢を語るように話し合った。
積極的に参加してくる子はそれでも限られていたけど、他の子も聞いてはいるみたいでときどき視線を感じた。部屋の雰囲気も少し良くなったような気がする。
盛り上がってくるとやがて話はより過激になって、
「もうさ、追い出すよりいっそぶっ殺したほうが早いんじゃね」
ある意味言い出しっぺであるドニがとうとうそこにたどり着いた。
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