ぼろぼろカラスはやがて羽ばたく
緑茶わいん
孤児院 -前世の記憶-
「ノワール・ダ・ルベーグ。今、この時より其方を侍女監督官に任命する」
静謐な空気に満たされた室内。
大きな執務机の奥から厳かな声が響いた。
「謹んで拝命いたします」
跪いて答えると同時、いくつもの視線が背中に刺さる。
一挙手一投足が注目されている。少しでも間違えれば取り消しになるのではというプレッシャーの中、机の奥に座る宰相閣下が小さな木箱を置いた。
開けば、中には布にくるまれた美しいブローチ。
装飾を施された赤い宝石には王家の紋章である鷲が宿っている。角度を変えても鷲の姿が崩れないため簡単には偽造できない、城に仕える者の身分証。
私はそっとブローチを手に取ると左胸に装着した。
ドレスとスーツの中間のような女官服。
膝下より長いスカートは綺麗に床の磨かれたお城でなければあっという間に汚れてしまう。赤い宝石も濃紺の衣装にぐっと映えた。
一礼して振り返れば、同じ色の宝石を身に着けたメイド長が「よろしい」と言う風に小さく頷く。
彼女は私とは違いふわりとしたスカート。衣装の違いは役割の違い。お城にメイドは数あれど、女官として仕える女は多くない。
生まれつきの黒髪はしっとりとした艶を放ちながら長く伸びている。
何もかも、昔の私からは想像もつかない。
私は、自分がまだ小さかった頃のことを思い出して懐かしい気持ちになった。
前世の記憶を思い出した五歳の頃。
私はとある孤児院の埃だらけの部屋にいた。
これは、私が自分の髪を誇れるようになるようになるまでの物語。
◇ ◇ ◇
小さい頃から綺麗な髪だと褒められることが多かった。
小学校三年生の時だっただろうか。担任の先生が髪を「烏の濡れ羽色」と褒めてくれたことがあった。彼女に悪気はなかっただろうけれど、それ以来、私はクラスメートから「カラス」と呼ばれてからかわれるようになった。
泣きながら「髪を染めたい」と母に訴えたら絶対に駄目だと怒られた。
しばらくするとみんなも飽きてあまり言われなくなって、私も切ったり染めたりするほど思いつめることはなくなったけれど、大学生になっても思い出したように呼ばれることはあったし、帽子を愛用する習慣は死ぬまで変わらなかった。
大学三年生の秋、私は車にはねられて死んだ。
半年付き合っていた彼にこっぴどく振られてやけ酒を飲み、ふらふらのまま家に帰ろうとしていた時のことだった。
神経が麻痺していて痛みはほとんどなかったけれど、道路に転がったまま動かない身体とぞっとする量の出血を見て「ああ、死ぬんだ」と他人事のように思ったのを覚えている。
やってしまった。
汚れきったぼさぼさの黒髪ごと頭を抱えて息を吐き出した。
孤児院の大部屋の隅。
孤児としてこの院で生まれ育った私──ノアは前世の記憶を全て思い出していた。
きっかけはほんのささいなこと。
換気の足りていない部屋と木板を嵌めて開閉する窓を見て「サッシと網戸があればなあ」と思った、それだけ。日本ならホームセンターに行けば簡単に手に入るのにという思考が連鎖的に記憶を呼び込んで、気づいたら頭痛と共に全てが蘇った。
今さら後悔してもどうにもならないのに。
家族や相手の運転手さんに申し訳ない気持ちと郷愁でやりきれない気持ちになる。もしもここが地球だったならどうにかして帰ろうと思ったかもしれない。
でも、私の今いるここはどうしようもなく異世界だった。
ここでは私のような黒髪は珍しい。
赤とか青とか緑とか様々な髪色があるし、外の空をたまにグリフォン──鷲とライオンの特徴を併せ持つ獣が飛んでいたりもする。
グリフォンの落とした糞が院の庭に落ちてにおいを放っているのもいやにリアルだ。
掃除できればいいんだけど、この孤児院の管理者は私たち孤児に何もさせたがらない。二段ベッドが六つ置かれ、十人以上が暮らすこの部屋も埃だらけで荒れ放題だ。
髪も身体も週に一度、僅かな水で洗うだけだから汚れているしにおう。
土足文化なのに靴も与えられていないし、食事は朝晩二回で固い黒パンとスープだけ。栄養も足りていないのでみんな痩せている。
これじゃ孤児院っていうより奴隷部屋か牢獄だ。
やるせなさから再度ため息をつくと、明るい赤毛を持った女の子が「どうしたの、ノア?」と声をかけてくれた。
「どこか痛いの?」
「ううん。大丈夫だよ、お姉ちゃん」
アンお姉ちゃんは十一歳。
院にいる子の中では最年長で、あと三ヶ月もしたら院を卒業するらしい。最近は「あと何か月したら」が口癖になっている。
面倒見がよくて、今も年少の子の様子に気を配っている彼女はみんなにとってのお姉ちゃんだ。
私こと五歳のノアにとってももちろん同じ。
前世の記憶が戻る前もおぼろげにはいろいろ思い出していたみたいで私はみんなと違う言動をいろいろ繰り返していた。ちょっと不思議な子扱いをされていた私にも構わず接してくれたアンお姉ちゃんには私も好意を抱いている。
あと三ヶ月したら彼女もいなくなってしまう。
そう思うと寂しさで胸が締め付けられそうになる。前世を思い出したからって人格がまるごと置き換わったわけじゃない。生きた年月の差で前世の私に引っ張られてはいるけれど今の私はノアだ。
でも、院を卒業できるだけでもここでは運がいい。
衛生環境は最悪に近く栄養も足りていない。
誰かが病気になっても医者も薬も与えてもらえない。寝ていれば治るならいいけれど、みんなにうつるような病気なら放り出されて終わり。
小さなきっかけで人が死んで忘れ去られる。小さかった私はあんまり覚えていないものの、記憶の中にあるだけでも何人もの子供が死んでいる。
劣悪な環境が改善されないのは、管理者にとって私たちが人ではなく「お金を得るための道具」だからだ。
孤児院の長はお城から出る補助金の何割かを懐に入れ、残りを管理者に委ねている。管理者は管理者でそのお金を自由に使っていて、私たちに使うお金は本当にギリギリの最小限で抑えている。二重搾取が常態化し、子供が死ねば補充されて終わり。
「身体には気をつけてね。辛いなら寝ていたほうがいいよ」
お姉ちゃんの諦めたような言葉が全てを物語っている。
「ノアなんか起きてたって寝ているのと変わらないだろ。いつもそうやって座ってるだけだし」
「ドニ」
同じ部屋で暮らす男の子──五歳まで街で普通に暮らしていたというドニがお姉ちゃんの注意を受けて「はいはい」とため息をつく。
私は赤ん坊の頃、孤児院の前に捨てられていた子。
両親の愛情と普通の生活を知っているドニとは馬が合わないらしく、よく一方的にちょっかいをかけられている。ここでは「黒髪は不吉」と言われているらしく、そのうえ肌が白くて痩せすぎている私はやんちゃな少年から見ればわけのわからない生き物なのだ。
「俺は死なないぞ。ちゃんと生き延びて騎士になるんだ」
「……またその話?」
誰かの呟きに少年は「別にいいだろ」と返して話を始める。
「いいか。昔あるところに剣聖と呼ばれた騎士がいてな?」
まだ幸せだった頃、一度だけ聞いたという吟遊詩人の歌。
うろ覚えの歌に妄想を加えたものをたびたび歌うのでみんなドニの話には飽き飽きしている。といっても、新しい話題なんて管理者の横暴への愚痴くらいしかないので仕方なく聞き流すんだけど。
これで本当にいいんだろうか。
前世で日本人だった感覚を思い出した私にはこんな環境は耐えられない。
石造りの頑丈な建物があるだけマシと言えばマシだけど、そのぶん石造りは通気性が悪くそのうえ熱が逃げやすい。冷たくて硬い床に座布団もなく座らされ続けていたら簡単に風邪をひいてしまう。
せめて掃除くらいしたい。
でも、ここには道具もない。掃除機はもちろん、箒やちりとりだって管理者のあの人は貸してくれないだろう。壊されたら余計な出費が発生して取り分が減るからだ。
なら、換気くらいはどうにかならないだろうか。
部屋に二つある窓を見る。片方は開いているけどもう片方は閉じたまま。開ければもう少しましにはなるはず。……グリフォンの糞のにおいは我慢だ。
「ねえ、もうひとつの窓も開けていい?」
尋ねるとお姉ちゃんは「いいけど」と眉をひそめて、
「自分で開けられる?」
「やってみる」
窓は子供には高い位置に設けられている。
歩み寄って手を伸ばすと私じゃちょっと届きそうになかった。しかも開けるには嵌まった木板(取っ手もなにもないただの板だ)を僅かな手がかりで引き出さないといけない。これは難易度が高い。
「やめとけ。お前には無理だって」
「……む」
ドニのからかうような声にイラっとしてしまったのは小学校の頃の男子を思い出したからだろうか。
私だって台でもあれば。
生憎踏み台にできそうなものは傍らのベッドしかない。距離的に届くか微妙だったけど試してみると──。
「ノア。危ないよ!」
「わっ」
ギリギリまで手を伸ばした私は足を踏み外して落ちてしまう。
「だから言った……ってお前、なにやってんだよ」
落ちた拍子に手がぶつかって「がこん」と木板が奥へ。そのまま窓から抜けた板は外の地面へと落ちてしまった。
一階なので割れたりはしてないだろうけど。
「最悪だ。おい、お前取りに行けよ。俺は絶対に嫌だからな」
「わかった。取りに行けばいいんでしょ」
「ノア、大丈夫? 私が行ってあげようか?」
「甘やかすなよアン姉。放っておけばいいんだよこんな奴」
本当に嫌味な奴。だけど今回は確かに私が悪い。
体力がないうえに栄養も足りていない身体をゆっくり動かして部屋の外へ。
ひんやりとした廊下が左右に伸びている。奥へ行くとトイレがあって入り口側に向かうと食堂に着く。向かいにはドア。中には私たちの部屋と同じような空間があって同じくらいの人数が暮らしている。
私は「食事時以外は来るな」と言われている食堂を目指し──子供の目と足にはかなり長いそこを乗り越えた末にある意味悪夢めいた光景を見た。
二列ある長テーブルの片方に小太りの中年女性が陣取って煙草を嗜んでいる。
煙草と言っても煙を吹かすのではなく安い噛み煙草だ。空気を汚さない代わりに唾と一緒に吐き出すので床が汚れ放題。
彼女がここの管理者、
「あの、オヴァさん」
恐る恐る声をかければ「あん?」と嫌そうに振り返った。
肌荒れのひどい日焼けした顔。ぎょろりとした目が私を睨むと反射的に身体が竦む。
元から不機嫌だった彼女はさらに顔をしかめると「なんだい、ノア」と目を逸らしながら言った。
「あの、窓の板を落としちゃって。取りに行ってもいいですか?」
「駄目だね」
「でも、あれがないと虫が入ってきて……」
「駄目だって言ったら駄目なんだよ! さっさと部屋に戻りな!」
理不尽にも程がある一喝。
年齢と腕力の差を考えればこれでも十分頑張ったほうだ。……だけど、今日の私はこれで諦める気にはならなかった。
話せばわかってもらえるんじゃないか。心のどこかでそんな風に期待してしまったのだ。
「オヴァさん。こんなところにいたらオヴァさんだって病気になっちゃいます。せめてもう少し掃除を──」
ばん! と大きくテーブルを叩く音。
「誰に向かって口を利いてるんだい、ノア?」
孤児院の管理者にして私たちの絶対女王は怒り心頭、といった様子でこっちに歩いてきた。
歩幅の違うその足取りは私の目にはとても速く見える。腕も足も太くてさながら巨人だ。……大学生の感覚からすれば運動不足の中年女性に過ぎないのだけけれど。
五歳の女の子の身体は軽く蹴りつけられただけで簡単に床を転がった。
追いつかれた私は髪をぐいっと持ち上げられる。どういうわけか今世でも黒髪に生まれてしまった。別に好きな色ではないけれど、雑に扱われるのもいい気分にはならない。
「生意気な目だ。その不気味な黒い髪も気に入らない。大人の真似をするみたいな喋り方もだ」
話が通じない。
彼女は、オヴァさんはこういう人だ。こういう人だったのだ。
品がないし計算も得意じゃない。大したお金もないのに金遣いが荒くて、人に暴力を振るうことにも罵声を浴びせることにも躊躇がない。
怒鳴って睨めば子供が言うことをきくと思っているモンスター。
これを人だと思ったのが間違いだった。
私は失敗を痛感しながら力を抜く。無抵抗になった私を見てオヴァさんは笑みを浮かべると投げるように私を放り出して、
「止めてください!」
アンお姉ちゃんの腕が宙に舞った私をふわりと抱き留めた。
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