第6章

第32話 Re:リスタート


 体育祭の前日、私はグラウンドに設置されたパネルを見上げていた。


 今年の緑軍のモチーフは玄武となっていて、白虎や青龍と比べると構図が難しく、そのくせ色使いは複雑だ。構図の候補はいくつかあったが、精査した結果、私の提言した、横から見た構図に決定した。


 作業に取りかかったのは体育祭当日の一週間前で、かなりのハイペースで書き上げたが、なんとか形になって良かった。


 とはいっても、私はレッスンなどであまり来られる時間はなく、ほとんどが上級生と下級生の功績であることは忘れてはいけない。


「まー、なるようになれだよ。パネル賞の得点って、競技得点と比べるとかなり低いから、ぶっちゃけおまけみたいなものだし」

「だよねぇ。とはいっても、ここの空白、なんとかして埋めたかったなぁ」

「それはしゃあない! 時間もなかったし、何描けばいいかも、結局誰も思いつかなかったじゃん」


 すでに帰る支度を済ませたのだろう。カバンを背負った上級生が、私の隣に来て同じようにパネルを見上げた。


「グラウンドじゃなくて、美術部に置いておけばいいのに」

「えー、なんでさ」

「幽霊だよ幽霊。美術部にキャンバスを置いたままにすると、夜な夜なその幽霊が出て勝手に絵を描いてくれるって噂」

「また言ってる。幽霊なんているわけないじゃん。音儀おとぎさんもそう思うでしょ?」


 こっちに話を振られるだろうなとは思っていたので、驚きはしなかった。


「うーん、私は、いると思います。いるから噂になるんだと思いますし」

「だよね! ほらー、音儀さんがそう言ってるんだからそうなんだよ。ねね、芸能界とかでもないの? そういう、幽霊関連の話」

「えー?」

「もう、音儀さん困ってるじゃん。ごめんね音儀さんこいつミーハーで」

「あはは、大丈夫です。芸能界のことは、あまり分からないんです。随分、離れていたので」


 夕陽が運ぶ、寂しげな風が私たちの間を通り抜けていった。


 校舎のチャイムが鳴り、校門を抜けていく生徒たちは、明日の体育祭に胸を踊らせている様子だった。


「で、でも、聞いたよ! この前のライブ、大成功だったんでしょ? ネットニュースで見た!」

「ありがとうございます。そう評価していただいているみたいで、よかったというか……正直なところホッとしてます」


 音儀おとぎ白雪しらゆきがアイドルに復帰して初となったミニライブは、先輩の言う通り、世間的には大成功という形で終わった。観に来てくれたファンの方はもちろん、業界の偉い人たちも足を運んでくれていたらしく、ライブの後は仕事のオファーが殺到している。


 そのおかげで最近はかなり立て込んでいて、今日も一限だけ出てあとはスタジオに向かっていた。昼過ぎに終わったので学校に寄ってみたら、ちょうどパネルを設置しているのが見えたので、手伝いに来たというわけだ。


「音儀白雪、こんなところにいたのね」


 そんなことを話していたら、後ろから椅子の脚で小突かれた。冷たい鉄の感触に思わず声をあげる。振り返ると、美桜みおが目を丸くして立っていた。


「そんなに驚くことないでしょう」

「う、うん。ごめん、油断してた」

「油断って……今日の仕事はもう終わったのだから、早く帰りましょう」

「お、マネージャーのおでましだ」


 先輩がそう言うと、美桜が睨む。先輩二人は両手を挙げて「おっと」と後ろに下がった。


「それじゃあみんな、明日の体育祭楽しもうね」

「じゃねー、後輩たちー」

「あ、はい! また明日!」


 手を振る間もなく、先輩たちは去って行ってしまった。フットワークが軽いというかなんというか、ハツラツとした人たちだ。


「それで、なんで櫻坂さくらざかさんは椅子を持ってるの?」

「あなたの椅子が、教室に置き去りにされてたから持ってきたのよ」

「え? あ、そっか。午後はいなかったから」


 明日の体育祭のために、みんな教室から椅子をグラウンドに持ち出したんだ。ということは、美桜の持っている椅子は、私のだ。


「ありがとう、櫻坂さん」

「いいのよ。階段を上り下りして、捻挫されても困るし」


 美桜が私の椅子を、指定の場所に置いてくれる。目が合うと「帰りましょうか」と、美桜は校門に向けて歩き始めた。


 美桜と一緒に帰るのは、いつぶりだろう。アデリアプロダクションに所属してから、時々美桜とは帰ることがあったけど、美桜に正体がバレそうになってからは、一緒に行動することがなくなった。


 そういえば美桜は、今の私を、誰だと思って接しているのだろう。紅葉もみじかえでだと断定した瞬間、私はギャル神様と交わしたルールによって死ぬ。今、死んでいないのなら、なんとか誤魔化すことはできている、と思いたい。


「まったく、あたしはマネージャーじゃないのだけど」

「あはは、また言われてたね」

「あなたも否定しなさいよ」

「でも、間違ってないし」

「はあ? なにそれ」

「いつも助かってるから。ありがとう、櫻坂マネージャー」

「やめてよ、薄気味悪い」


 美桜はわざとらしく肩をさすった。


「ねぇ、音儀白雪」


 そのまま身を縮こまらせ、目を合わせないまま、美桜は私の名前を呼んだ。


「この間は、ごめんなさい」

「この間?」

「それは、いろいろ。あなたのこと、紅葉楓だ、なんて。言ったこととか。引いたでしょう? 気持ち悪かったでしょう? ええ、その通りよ、間違ってない」

「気持ち悪いだなんて、そんなこと思ってないよ」

「いいの、あたし、どうかしてたみたいだから」


 信号が赤になり、互いに足を止める。


「ただ、許して欲しい。あなたは本当に、似ているの」


 そのくせっ毛を手で梳く美桜は、どこかバツの悪そうな表情で言った。


「もうこの世にはいない親友を、あなたに重ねてた。あの子が生まれ変わったんだって自分に言い聞かせば、この傷も癒えると思ったの」


 美桜は今、嘘偽りのない、自分の心を私に打ち明けてくれている。


「バカよね、あたし。癒えちゃいけないのに」


 信号が青になる。


 ギュッと拳を握って、胸に添える美桜は、私よりも先に前へ歩き始めた。


「私も、もし、大切な人を亡くしたら、同じことをすると思う」


 もし、私じゃなかったら。


 隕石に当たって死んだのが、美桜で、それから、美桜そっくりの人が現れたら、私もきっと同じ選択をするはずだ。だって、美桜のいない人生なんて考えられないから。


「音儀白雪、一つだけ、聞いてもいい?」

「うん」

「どうしてあたしの小説を読んでいたの?」


 来た、と思った。


「小説?」

「あなたのパソコンで動画を見たとき、前回のページを開く作業の過程で、一瞬映ったでしょう?」

「あ、ああ、あれって、ええ? 櫻坂さんって、小説書いてるの?」 


 本当はこの間の、墓地での一件。あそこで聞かれるものだとばかり思っていたから身構えていたけど、ここにきてようやく美桜の方から踏み込んでくるなんて。


 私は呼吸を落ち着けて、用意していた言い訳を引っ張り出す。


「あのときは、ちょうどアイドルの小説を探してたの。ほら、アイドルとしての在り方ってたくさんあるでしょ? それで勉強のためにいろいろ漁ってて。でも、あれが櫻坂さんの書いた小説だなんてビックリ」

「どうだった?」

「え?」

「読んで、どう思った?」

「えっと、すごく……」

「おべっかはいらないから」


 釘を刺されるように、美桜に睨まれる。


「おも、しろくはなかった」

「そう」

「でも、すごく、刺さった」


 それは美桜の小説特有の鋭利さだ。美桜の書く小説は人の心をすべて丸裸にする。言いたくない、認めたくない。そうやって心の奥に閉じ込めていたものを無理矢理見せつけられるようなリアリティがある。


 皮肉めいた綺麗事は、まるで引っかかっていた針を一つ一つ抜かれていくような感覚にさせられて、作品を読み終わる頃には、なぜか肩の荷が軽くなる。決して明るい話ではないはずなのに、まるで自分ではない誰かが、代わりに犠牲になってくれた気がして。私は生きなきゃって、何度も思わされる。


「続きも、気になるな。途中で、更新止まってたみたいだから」


 それは私の願望でしかなく、美桜の創作活動に助けにはならい。それでも言わざるを得なかった。何度命を取り替えても、別の人間に生まれ変わっても、同じ小説に魅了されるというのは、きっと美桜にしか成せない特有の何かがあるはずだから。


「ありがとう。でも、今はまだ書けないわ」

「そっか」

「ええ」


 言葉とは裏腹に、美桜は整然とした顔つきで前を向いていた。その瞳が、何を映しているのか、私には分からないけど。


 久しぶりに、私の知っている美桜が見られた気がして、嬉しかった。


「明日の体育祭は、来られるんでしょう?」

「うん。明日は仕事ないし」

「なら、頑張りましょう。やるなら一位以外ありえない。そうでしょう?」

「ええー、私、走るのは苦手だよ」

「お得意の色仕掛けでもどうにでもなるんじゃないの?」

「だから、お得意じゃないってば!」

「ムキにならないでよ、ちょっと試しただけ。あなたがそういうアイドルじゃないってことは分かってるから」


 別れ道に着く。美桜は背を向けると、片手を挙げた。


「それじゃあ、また明日」

「うん、また明日――」


 夕陽が照らしてくれなければ、見えなかっただろう。


 美桜の右手に、痛ましく浮き上がった、腫れのようなもの。


 私もそれに、憧れたことはあった。だけど、何度指を確認してもできることはなかった。


 絵を描いたことのある人間なら、誰もが武勇伝にしたがるだろうそれは俗に、ペンだこと呼ばれるものであった。

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