第31話 決別

 着いた場所は、墓地だった。


 小さな川の近くにオお寺があって、その裏に、人の魂が眠っている。


 夕暮れ時の墓地は、妙に不気味だった。お供え物をついばむカラスと目が合って、どろりとしたものが胸を覆う。


「あ、あの、櫻坂さくらざかさん?」


 あたしは深く息を吐いた。


 その他人行儀な呼び方が、本当に正しいのか、今、分かる。どちらに転んでも、あたしは、それを受け入れなければならない。


音儀おとぎ白雪しらゆき


 正面から、彼女を見つめる。


 大きな瞳に、上向きのまつ毛。凜とした鼻筋に、桜のような淡い唇。一切の無駄を省いたような輪郭を支える、細い首筋。外見だけに留まらず、アイドルして、観客を魅了し、惹き付ける潜在的な美しさを彼女は持っている。


「今日のライブ、素晴らしかった」

「あ、ありがとう」

「感動したわ。きっと観に来てくれたファンの人たちも、同じことを思ってるはずよ」

「そうだと、いいな。それで、ここは?」


 音儀白雪はまだ、状況を掴めていないらしく、小首を傾げた。


 当然だ。おそらく、音儀白雪がここに来たのは、初めてだろう。


 あたしは振り返って、後ろの墓石を指さした。


「ここは、紅葉もみじかえでが眠る場所よ」


 今日のライブを見て、あたしは思った。


 もしかしたら、音儀白雪は本当に、ただ、自分を変えるために必死になっていただけで、それがたまたま、紅葉楓という人間の面影に重なって見えただけなのかもしれない。


「この前は取り乱してごめんなさい。あなたも、驚いたでしょう」

「え? あ、ううん! 平気。気にしてないよ」

「紅葉楓っていうのはね、あたしの親友なの。いつも一緒にいて、これからも、共に生きていくんだって思ってた。だけど、ある日事故で死んでしまったの。それはまるで、流れ星みたいに、あたしの世界から姿を消してしまった」


 あたしは、音儀白雪から目を離さずに、話し続けた。


「ただの友達じゃなかったの。もっと、固く、強い絆であたしたちは結ばれていた。もし、楓と出会えていなかったら、あたしは、もしかしたらあのまま消えていたかもしれない。そんなあたしの命を繋ぎ止めてくれたのが、楓なの」

「すごく、大切な人なんだね」

「そうよ。とても、大切な人だった」


 絶対に目をそらしてはならない。


 音儀白雪がいくら視線を外したとしても、あたしは彼女の表情、仕草、声色、その一つ一つを追い掛ける。


「音儀白雪、あなたは、その親友にすごく似ているの。話し方も、仕草も、何もかもが」

「うん。そうなんだろうなって、思った。私も、ごめんね櫻坂さくらざかさん。この前は……紅葉楓は死んだんだ、なんて。ライブ前の緊張で、ちょっと神経質になってたかもしれない。あんなこと言われたら、誰でも傷つくよね」

「いいのよ。それも全部、ここで終わらせるから」


 あたしは墓石を撫でた。音儀白雪も、一歩、近づく。その水晶のような瞳は、墓石に刻まれた紅葉楓という名前を、じっと映し出していた。


「あたし、まだあなたのことを疑ってるの。あなたは、音儀白雪なんかじゃなく、生まれ変わった、紅葉楓なんじゃないかって」


 まだ、揺れ動かない。


 動揺はない。


「あのね楓、あたし、あなたがいなくなってから毎日ここへ来て祈りを捧げてた。どうか神様、あの子を返してください。紅葉楓はこんなところで死んでいい人間じゃない。あの子はこれからたくさんの人に出会って、大好きな絵を描いて、たくさんの人たちに必要とされる、そんな輝かしい未来が待っているはずなの。だからお願いします。楓を、生き返らせてください。って」


 何度も、何度も手を合わせた。


 額を擦りつけて、幾度となく祈った。


「お供え物もたくさんあるでしょう? これ、あたしのだけじゃないのよ。クラスの、倉石くらいしさんのもある。彼女、あなたと話せなかったことをずっと後悔していた。もっと仲良くできてたらって、涙ながらにあたしに訴えかけてきた。この場所を教えたら、彼女も何度かここへ来てお供え物を置いていったみたい」


 楓、あなたはこれを聞いて、何を思うの?


 何も心に響かない? 表情を変えるほどのことでもない?


「彼女だけじゃないわ。クラスのみんなや、吾妻あずま先生も、あなたの死を悲しみ、悔いていた。あの子はこれからだったのにって、口を揃えて言っていた。あなたは、気付いていないかもしれないけど、たくさんの人から愛されて、必要とされていたのよ。ねぇ、楓、あなたは音儀白雪の身体を借りなくとも、たくさんの祝福を受けてこの世界で生きていけるはず」


 あたしは、この場で音儀白雪を、楓を試す。


 楓が表情を一つでも変えようなら、動揺しようものなら、あたしはこの子を、楓と断定する。もし、あたしの目の前にいる人間が、外見も中身も、音儀白雪なのだと言うのなら、あたしの発言すべての意味なんて、分からないはずだ。


「楓、せっかく、生き返ったんじゃない。もう一度、生きられるのよ? あんなところで死んで、悔しくないの? まだ十六歳だったのよ? まだ、まだこれからだったのに。楓、もう一度、やり直そうよ」


 どんな事情があって、楓があたしに話さないのかは分からない。


 生まれ変わったのなら、そう言えばいいのに。楓を縛り付けるものは、一体なに?


「もし、話せないのなら。口に出せないのなら、こうしましょう。今から、あたしが質問するから、はいなら右手を挙げる。いいえなら左手を挙げる。それなら、大丈夫でしょう? 心配いらないわ。ここにはあたしたちしかいないから」


 音儀白雪は、頷かない。


「あなたは、紅葉楓なんでしょう?」


 あたしの質問にも、微動だにしない。


 ゴミを咥えたカラスが、あたしたちの間を飛んでいく。


「楓……」


 ここまで、動揺がないとは思わなかった。


 楓は嘘を吐くのが下手だし、虚勢を張るなんて真似できるはずがない。


 それなのに、目の前の、芸術品みたいな造形の顔は、まるで絵画のように、そこに在るだけだ。反応一つなく、ただ、あたしの話を、包み込むみたいに、静かに聞き入っている。


 そうだね、悲しいねって、同情するみたいに。


 ……本当にこの人は、楓ではないのだろうか。


「あのね楓、ずっと、あなたに言えなかったことがあるの」


 もう、これしかない。生前、どれだけ勇気を出しても、覚悟を決めても、楓には伝えられなかったことだ。


 あたしは楓に近づいて、その手をギュッと握りしめた。


「あたし、あなたのことが好きなの」


 目を見て言った。


「友情とか、特別な絆とか、曖昧なものじゃない。好きなの。あなたと少しでも一緒にいたい、近くにいたい。あたしの心の中には、いつもあなたがいた」


 でも、決してこの気持ちは、包み隠していたわけじゃない。


 だって、あたしは分かっていた。


 楓も同じだって。


 あたしたちは、互いを想い合っている。必要なのは時間だけで、気持ちの整理さえつけば、あたしたちは、きっと、恋人同士になれていたはずだった。


 そういう甘酸っぱい時間も、空間も、何度もあった。でも、互いに気付いていながらも、声にはしなかった。一緒に過ごす、その時間を手放したくなかったから。


 その想いを抱いたまま、楓はこの世からいなくなってしまった。


 あたしの気持ちは、今も居場所を探して、この世界を彷徨っている。


「楓、好きよ」


 その白い肌を手で包み、顔を近づける。


 外見は違えど、紅葉楓の魂が、鼓動を通して伝わってくる。あたしには分かる。一緒にいれば嫌でも。


 二人でいるときにしか流れないあの空気と、温度。それが何度も、何度も、音儀白雪と出会ってからあたしの横を掠めていった。


 言葉じゃ説明できない、だけど絶対的な自信が、あたしにはある。


 そして楓なら、きっと……。


「……そう」


 あたしを突き飛ばすはずだ。


 それなのに、目の前にあるのは、変わらず、哀しげな目であたしを見つめ続ける音儀白雪の顔。あたしの抱擁も、口付けも、ただ受け止めようと待ち構える、なんの温かさもない優しさ。


 顔を真っ赤にして、うわあって仰け反る楓は、もうどこにもいない。


 あたしは身体を離して、ポケットから財布を取り出した。


「領収書はアデリアプロダクションで」

「櫻坂さん?」

「近くでタクシーが拾えるはずよ。見当たらなかったら、宮尾交通という会社に電話しなさい。一番近いから、すぐ来てくれるはずよ」

「櫻坂さんは帰らないの?」


 上目遣いで聞いてくる音儀白雪は、あたしを見て、バツの悪そうな顔をした。


 あたし、今、一体どんな表情をしているのだろう。


 墓地にとても似合う、風情のある、顔をしているかもしれない。


 カタカタと、骨が鳴るみたいに、あたしは笑った。


「ええ、今はあなたの顔、一秒足りとも見たくないの」

「で、でも」

「いいから行って。お願い」


 迷うように二の足を踏む音儀白雪だったが、やがて足音は遠のいていった。


 顔をあげれば、無人の墓地。


 すでに夕陽は沈んで、暗くなっていた。


 不気味だ。


 お化けでも出るんじゃないか。ああ、出てきてくれ。


 お化けでも、幽霊でもゾンビでも、なんでもいい。どんな姿でも、出てきてくれたら、あたしは泣いて喜ぶから。


 その場にへたり込んで、楓のお墓に寄りかかった。


 空を見上げて、夜空を見る。楓を殺した、満面の星空だ。


「楓がいたから、頑張ったんだよ」


 あたしの小説を読んで、感動した! って言ってくれる楓の顔は、まるで子供みたいに純粋で、蕾が花開くみたいに綺麗だった。


 でも、いつからだっただろう。それだけじゃなくなった。


 楓が信じてくれたから、あたしは小説というものを、ただ自分の感情を浪費する道具にせずにすんだ。あたしは小説というもので、誰かの心を動かしたくなった。楓の感じてくれたものを、そのまま他の人にも感じて欲しかった。


「笑ってる?」


 背中に伝わる冷気が、温度のない返事としてあたしの心に届く。


「勘違い、だったみたい。あれ、楓じゃないんだね」


 というよりも、あれは、あたしの願いだったのかもしれない。


「神様って残酷だね」


 うたかたの夢だったのかもしれない。


 触れることのできない、形すら持たない、あり得たはずの未来は、いやに現実味があって、あたしの感覚を狂わせていた。


 楓なのかもしれないって思っている間は幸せだった。


 けど、本当は、偽物だ、虚像だって、分かっていたのかもしれない。


「こうやって、乗り越えろってさ」


 紅葉楓のいない世界を、これから、あたしは何年生きていかなくちゃならないんだろう。


 そんなの、きっとあたしは、耐えられない。


 今すぐにでも、そっちへ行きたい。楓の場所に、あたしも……。


『いつか、あたしの小説に、楓の絵を描いてもらうことが夢なの』


 自信満々にそう言った、いつかのあたし。


 星々は、無数の光を帯びて、あたしを見下ろしている。無様だって思っているだろうか。ダサイって嗤われているだろうか。


「夢、か」


 夜空に流れ星を探す。でも、そんなロマンティックなこと、あるわけがない。


 楓はもう返事をしない。肉体を持たない。もうこの世のどこにも存在しない。二度と話すことはできない。


 残っているのは、もう、儚い記憶だけだ。


 ああ、ようやく分かった。


 外見が同じだろうと、中身が同じだろうと。


 違うのだ。


 人間の魂とは、命とは。


 この、思い出の中だけに棲んでいる。


「ねぇ、楓」


 だからきっと、滅びなどしないのだろう。


 苦痛も喜びも、すべてが生身の温度で生きている。


 「もうちょっとだけ、力を貸してね」


 この胸で燃えさかるのは、希望や勇気などでは決してない。


 死んだ者の思い出を引きずり、自らの道しるべにするのはきっと。


 生者の持つ、執念というものなのだろう。


 

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