第30話 生身の温度

美桜みおの書く小説は、あったかいね』


 どうして今、かえでの言葉を思い出したのか分からない。


 ただ、決して消えることのないあの日の光景と、楓の表情が頭から離れてくれなかった。


 イントロが流れ始めて、楓がステップを踏む。ダンスや歌唱力、それはレッスンを始めた頃に比べたらかなり上達した。だけど、それらは一朝一夕で極められるものではない。


 楓のパフォーマンスは、まだ観客を魅了できるほどのものではなかったはずだ。


 けれど、ステージの上で煌めく楓は、一等星のように眩しく見えた。


 紅潮させた頬と、時折光を反射して主張する汗が、ステージの端から端まで、軌跡を描くみたいに往復する。それを目で追っている自分に気付くと、今度は心が引っ張られ始めていることを自覚する。


 きっとそれが、魅了されるということなんだと思う。


 音儀おとぎ白雪しらゆきというアイドルのライブは、実際、動画で何度か見たことはあった。彼女はそのビジュアルを武器にしている反面、ダンスや歌に魅力があるわけではなかった。どこか怠慢で、自信に満ちあふれたその姿は、神様から授けられた才能によるものであること間違いないのだろうけど、そこに努力や苦悩は感じられない。


 だけど、今の音儀白雪は、違う。楓の持っていた、不安定ながらも突き進む純真さに準ずる推進力を合わせ持つ。それは決して完璧ではなく、地べたを這いずりながら進んでいるようで不格好だった。思わず手を差し伸べてあげたくなるような、未成熟な立ち振る舞いは、音儀白雪が醸し出す横暴で傲慢な雰囲気をかき消している。


「現役のころは、いろいろ、お騒がせしてすみませんでした」


 曲が終わり、MCの時間になる。楓は、マイクを両手で持ちながら、ステージの真ん中から観客を見渡した。


「言い訳も、したいし、弁明もしたい。でも、それってたぶん、なんの説得にもならないし、みんなの心には響かないと思う」


 それはきっと、世間を騒がせた枕営業の件についてなのだと思う。


 音儀白雪の立ち振る舞いを知っていたあたしは当時、やっぱりなとしか思わなかった。実際、外見がいいだけでメディアに出ていた音儀白雪を、不満に思っていた人間も多かったらしく、その人たちが種火となり、事態は尾ひれを付けながら世間へと広がっていった。


「だ、だって私、別に弁護士じゃないし、言葉も上手じゃないから、きっとみんなを納得させられないと思う」


 その言い方に、何人か笑っている人がいた。


「でも、私はアイドルだから。やることは、一つだから!」


 照明の色が変わり、イントロが流れ始める。立ち昇っていくようなドラムロールに合わせて、楓がつま先でリズムを刻む。


「これからみんなに、私を届けます! みんなが感じてくれた私が、今の私です!」


 満面の笑み。気負うものや、罪悪感など、微塵も感じられない。


 こんな笑顔を浮かべられる人が、本当に枕営業なんて不誠実なことをしたのか? そういう疑念が、今、会場全体を包み込んでいる。


「それ、とらんの?」


 突然、隣にいた人から声をかけられた。気付けばあたしは、アンプのケーブルを握りしめたまま、ステージを見上げ固まっていた。


「誰ですか、あなた」


 その人は、帽子を深く被っていて目元がよく見えなかった。ただ、特徴的な喋り方をしている。どこかで聞いた覚えがあるが、記憶に靄がかかったように、思い出せない。


「そうやなぁ、強いて言うなら、あの子のファンやな」


 ファンだと言うのなら、あたしになんか話しかけないで、彼女のライブを目に焼き付ければいいのに。


 あたしはケーブルから手を離して、行方を失った両手をポケットにしまった。


「似てんのよ、昔の親友に」

「今は親友じゃないんですね」

「もう死んでもうたから」


 藪を突くのはやめだ。


 なんでこんな人と談笑を楽しまなければならないのだろう。


「けど、音儀ちゃんを見てると時々思い出すんよ。その子のこと」

「それはお辛いですね」

「さぁ、どうやろ」


 適当にあしらうつもりだった。


 それっぽい言葉をかければ、同情に作用し、この人も満足するだろうと思った。

 

「楽しかったかも覚えとらん」


 だけど、この人の、どこか諦めたような荒んだ声色に、みっともないほど心当たりがあって、思わず聞き入ってしまったのだ。


「感情なんてもんは、この地に降りるときに偉いお方に差し出してしまったんよ」


 そう言って、その女性は指を天井に向けた。


「大好きだった親友の名前も忘れて、なんやったっけな、なんたらの、みことみたいな名前だった気もするけど」

「名前を忘れるなんて、本当に親友なんですか」

「しょうがないやろー? 今から五千年以上も前の話や」

「五千年経っても、あたしは絶対忘れないです。親友なら、絶対に」


 二曲目が始まり、会場のボルテージがあがる。空気が揺れ、引き裂けそうになる。ジリジリとした熱気が肌を通して伝わってくるというのに、あたしの周りだけ、まるで隔離されたかのように静かだった。


「変わったなぁ、音儀ちゃん。出会ったころはあんなんやなかった。もっと、鋭い目つきで、なんというか、飢えた野犬みたいな子やったのに」


 ただのファンが、何を知ったような口を利いているのだろうと思った。まるで音儀白雪の、全てを知っているみたいな口ぶりだ。


「はっ! うち、いいこと考えてしまったかも」


 深く被った帽子の奥で、灯籠のような光が揺れていた。幻想的で、神秘的。あたしも、この会場の空気に当てられたのだろうか、足元が浮つく。


「メディアに取り上げてもらえば、音儀白雪の人気もうなぎ登り間違いなしや! な! な! 名案や! 聞きたいやろ?」

「別に」

「しゃあないなー、特別に教えたる。あんな? 要はメディアやテレビってのはストーリーやドラマ性が欲しいわけや。あの音儀白雪がアイドル復帰! それは確かにいい記事になるかもしれんけど、まだパンチが弱い! そこでうちが『音儀白雪は、亡くなった親友の約束を果たすためにアイドルに復帰した』っていうエピソードを持ってけば、感動的になるやろ? あの音儀白雪が、親友のためにまた夢を追い掛けるなんて、素敵やんか!」


 聞いてもいないのに、その人は饒舌に話し始める。


「ありがちすぎて、全然良くないですね」

「そうかなー? 人間ってのは、誰かの死をきっかけに変化していく生き物や。悲しみや苦しみを乗り越えたその先に新しい自分がいるんやから、音儀ちゃんも、例外じゃない」


 そのときあたしは、お父さんに頼まれた用事で、カラフルマーケティングに菓子折を届けにいったときのことを思い出していた。


 あたしはあのとき、まだ音儀白雪が楓だなんて思ってもいなかった。そんなときに見た、音儀白雪の涙。彼女は、目から大粒の涙を流しながら、面接官に何かを訴えかけていた。


 あたしの前を通ったときも、あたしには目もくれず、涙で真っ赤になった瞳を大きく開けて、顔をあげていた。


「キミも気付いてるやろ? 音儀ちゃんは、ある日、まるで別人のように変わった」

「それは……」

「たぶんやけどな、音儀ちゃんにもあったんやと思う。大切な人を失って、このままじゃダメなんだって、後悔した夜が」

「違う。音儀白雪は生まれ変わっ――」


 あたしは口を噤んだ。初対面の人間に向かって、あたしは何を言おうとしているんだろう。


 しかし、目の前の女性は、白い歯を見せて、あたしを指さした。


「そう、生まれ変わったんや。音儀白雪は、新たな自分に」


 きっとそれは、あたしの思う生まれ変わりとはニュアンスが違う。


「だから! さっきのうちの話は半分嘘で半分本当なんよ! このライブが終わったら、すぐにテレビ局……いや、情報週刊誌にでもリークした方がいいかもしれん!」


 こうしちゃいられないと言わんばかりに、その女性が場を離れようとする。あたしは、思わずその人の手を掴んで引き留めてしまった。


 まるで死人のように、冷たい手をしていた。


「お? どしたん? ナンパか?」

「いえ……」


 自分でも、どうして引き留めたのかが分からない。この人が音儀白雪に関するエピソードを売って、それでメディアが盛り上がったとしても、あたしにはなんの関係もない。


 亡くなった親友のためにアイドル復帰! 生まれ変わった新生音儀白雪!


 朝刊の一面がそんな文面に埋め尽くされたところで、どうだっていい。


「野暮だなって思って」


 それなのに、どうしてあたしは、こんなことをしているのだろう。


「嘘でも本当でも、どちらにしてもや。音儀白雪が話題になるなら、それでええやんか。お願い! 私のためにもう一度トップアイドルになって! そんな約束を、親友としていたかもしれんやんか。うちはその手助けをしてあげるだけや」


 それは、そうかもしれない。


 だけど。

 

 もし、あたしが逆の立場だったら。


 もし、あたしが、その死んだ親友の立場だったら。


「ふざけんな」


 って、思う。


 ステージで歌う、音儀白雪。屋上でずっと練習をしていた音儀白雪。


 ステージで踊る、音儀白雪。厳しいレッスンを最後までやり遂げた音儀白雪。


 今、この場にいる人たちは間違いなく、音儀白雪に魅了されている。割れんばかりの歓声はすべて音儀白雪に向けられている。それは、音儀白雪の努力があったからだ。


 あたしは音儀白雪が難しい問題を抱えながらも、もう一度アイドルとして輝くため必死に頑張ってきたのを、そばで見てきた。


 それらは正当な評価を受けるべきであり、感動的な物語や誰もが望むドラマティックなバックボーンに脚色されるべきではないと思った。


 だって、それではあまりにも。


 音儀白雪が、可哀想じゃないか。


美桜みおちゃんは、アイドルが本当に好きなんやな」


 まるで心を読まれたかのような言葉に、心臓が跳ねる。それに今、あたしの名前を言った。


 あたしはこの人と、会ったことがある? いつか、どこか、小さい、部屋の中で……ダメだ、思い出そうとすると、靄がかかったみたいに曇ってしまう。


「うちに勝手に触るのは、罰が当たってもしょうがないくらいの不敬やけど、まぁ許したる」


 あたしの手を振りほどくと、変わりに『白雪様こっち見て!』と書かれたうちわを渡してきた。


「確認も済んだからこれあげるわ。あとはこのライプをたっくさん楽しみ。人生は一回しかないんやから」

「は? ちょっと」


 顔をあげて、驚いた。なんと、さっきまでそこにいた女性が姿を消していたのだ。この一瞬で、どうやって……。


 まるで化かされたみたいだ。もしかして、夢でも見ていたのかと思ったが、手に持ったうちわの感触が、そうではないと訴えかけてくる。


 ステージの上では、最後の曲を歌う音儀白雪の姿があった。


 もう体力が限界なのか、声が上ずって、音程も外れることが多くなっていた。それでもファンへの声がけは忘れず、むしろ音程のあっていないその歌は、CDにも、どこにも収録されていない、このライブだけの特別な歌として会場に響き渡っていた。


 泣いている人もいた。楽しそうに合いの手を入れている人もいた。真剣な顔つきで音儀白雪の姿を目に焼き付けている人もいた。


「みんなー! いっくよー!? せーのっ!」


 音儀白雪が、この場にいる全員を支配する。


 この場にいる全員は、今、音儀白雪のためなら死んでもいいって、思っている。


 痛いほど分かる。お父さんに連れて行ってもらったライブで、あたしも同じことを思っていた。一流のアイドルを見ると、そうやって、魂ごと、持って行かれそうになるのだ。


 あたしは、手に持っていたうちわをあげた。小さい頃も、そうやって、気付いてくれないかなって、アイドルに向かってアピールをした。


 当然、大きな会場だったから、あたしを見つけてくれるアイドルは一人もいなかった。


「あ」


 ふと、音儀白雪と目が合った。


 あたしのうちわを見て、あたしを見て、星が弾けるみたいに、音儀白雪がウインクをする。


 喉の奥から、こみ上げるものがあって、鼻の奥が、溺れそうになる。舌の根元に酸っぱいものが溜まると、目頭が熱くなって、唇の輪郭が震えだした。


 この現象の名前を、あたしは知っている。


 ……アイドルなんか、向いてない。


 そうだった。そのはずだった。あたしの知っている、紅葉楓という女の子は。


 やがてライブが終わり、音儀白雪がステージからいなくなる。熱覚めやらぬといった様子で、盛り上がるファンは、口々に音儀白雪の名前を叫んでみせた。


 スタッフによって機材が片付けられても、あたしはその場から動けなかった。


 手に持ったうちわが震える。


 今回のライブ。これだけの人の視線を浴びながら、彼女は。


 ――一度も、右の頬に手を当てなかった。


 確信が、疑念へと変わる。


 それは、あたしの中で再び生まれた紅葉楓が、二度目の死を迎えようとしているのと同義だ。


 霞む視界に、痛む目の奥。


 手で押さえると、小さな、小さな涙が、手のひらに残っていた。


 涙というのは温かいのだと、そのとき初めて知ったのだった。

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