第29話 本番当日

 レッスン中のかえでは、いつだって真剣に己と向き合っていた。


 身体が付いて行っていないのは明白なのに、トレーナーさんの言った呼吸だけは乱さず、顎を伝う汗を手で拭う。何度も自分の踊っている姿を鏡や動画で確認し、どこが悪いのかを自己分析しながら、時々あたしにも聞きに来た。


 限界を超えたレッスンに、根を上げた者は多いと聞く。お父さんはわざと、業界でも厳しいと有名のトレーナーさんを担当させたのだろうか。


 レッスンが終わると、楓は大の字になって、床に倒れ込んだ。最初の頃は「ぐへー」とか、だらしない声をあげていた。音儀おとぎ白雪しらゆきもこんな声を出すんだと思っていたけど、本当は楓なんだと思うと納得もいく。


 楓は天井の照明を見上げて、真剣な眼差しで何かを考えているようだった。


 その眼差しは、どこか未来に向けられているようにも見えて、黒目に反射した光が、夜空に浮かぶ星のように輝いていた。


 あたしは、楓がこんな表情をしているのを見たことがない。厳しいレッスンを耐え抜いているのだから、頑張ってる自分に賛美でも送ればいいのに。「美桜! 私、できたよ!」っていつもみたいに、褒めて欲しそうな顔で近づいてきてくれたらいいのに。


「本番まであと三日。レッスンは今日で終わりだって」

「そうね」


 楓があたしを視認する。外見の違う、中身だけが楓の人間。


 考え方や、性格、癖、それは心とも、はては魂とも言える代物だ。


 人間とは、心や魂、その内面が本質のはずだ。そうでなくては、楓そっくりのロボットを作ったら、それも楓ということになってしまう。


 だからこそ、あたしは目の前の音儀白雪が、楓なんだということに気付けた。


「みんな、観に来てくれるかな」


 楓は、手のひらを天井に向けて突き出した。不安そうな言葉とは裏腹に、夢を語る無邪気な少年のように笑っている。


 あたしは楓の癖も、喋り方も、考え方も、全部わかっているつもりだ。


 だけど。


「ごめん、櫻坂さん。やっぱり私、アイドルやめらんないよ」


 こいつは一体、誰だ。


 音儀白雪の皮を被った、紅葉もみじ楓。それは間違いないはずだ。本人は決して口は割らないが、これだけの共通点と、楓しか描けない線。それから、教えてもないあたしの小説をサイトで読んでいたという、証拠もある。


 あたしの疑念が確信に変わったのは、何も思いこみや、現実逃避なんかではない。


 むしろ、紅葉楓という人間と親しかった者なら、気付かない方がおかしいのだ。


 それなのに、今、あたしは揺れ動いている。それは、何故?


「楓は、誰に命令されたの?」


 あたしがその名前を呼ぶと、楓は困ったように眉を下げる。


「あのね、櫻坂さくらざかさん。私は楓じゃないし、誰に命令されたわけでもないよ」

「口止めされているのね」


 それでも、あたしは知っている。楓は、嘘が得意ではない。


 引き下がらないあたしを見ると、楓はタオルで、口元を隠した。


 車が到着したと連絡があったので、二人でレッスン室を出る。


 ロケバスや専用の送迎車も、まだうちの事務所にはない。駐車場に出ると、運転席からお父さんが顔を出して手招きしていた。


「いよいよ三日後は本番だね。筋肉痛は大丈夫?」

「はい。最初はガチガチになって痛かったですけど、最近はそれもなくなりました」

「努力の賜だね。きっと身体が応えてくれるだろう」

「そうであってくれると、嬉しいです」


 楓は窓の外を眺めながら、ハッキリとした受け答えをしていた。


 こんなに、話すのが上手だっただろうか。


 こんなに、自信に満ちあふれ、無心に何かを目指すような子だっただろうか。


 お父さんの言葉が、今になって輪郭を成し、脳裏に染みこんでいく。


『中身なんていくらでも変われる』


 あたしの知ってる楓が、楓じゃなくなったとき。


 もし楓が、望んでもない葛藤と出会い、境遇や苦難を乗り越えて内面が成長し、変化してしまったとしたら。


 今、あたしの目の前にいる人間は、いったい、誰になるの?


「社長は、運転上手ですね」

「はは、よく言われるよ。慎重すぎると怒られるときもあるがね。美桜みおはよく、もっとスピード出せなんて言うけど」

「それは子供の頃の話でしょ」


 話の矛先が急にこちらへ向いたので突っぱねる。


「けど、車に酔いやすい人もいるからさ。こうやってゆーっくり進むのがいいんだよ。それとも楓ちゃんは、もっと飛ばして欲しいかい?」


 窓を開けると、わざとらしくエンジンを鳴らすお父さん。


 あたしは驚いて「わっ」と声を出して前の座席に額をぶつけた。


 しかし、楓は突然の加速にも動じず、やはり、窓の外を眺めたまま言った。


「それも、いいかもしれません」


 あなたは、何を見ているの。


 楓になら、聞けるはずなのに。どうしてか今は、聞くことができなかった。



 ライブ本番当日、お父さんに言われて、あたしも同行することになった。


 とはいえ、特にライブの手伝いをするということではなく、そちらはスタッフに任せて、ただ観客として観に来ないかということだった。


 小さい頃はよくお父さんに誘われて、アイドルのライブに連れて行ってもらっていたことを思い出す。あの日から自分と、アイドルという存在の乖離をめざとく見つけていた。


 あたしはあんな風にはなれない。そういう類いの人間じゃない。けど、ステージに立って、観に来てくれた人たちに希望を与えるという行為は、たとえまがい物であっても、仕事であっても、尊いものだと思う。


 渡されたチケットをカバンに入れて、ライブ会場に向かう準備をすませた。


 電車の時間まで余裕があるので、あたしはパソコンのメールボックスを開いた。


 今から二日前。あたしのアドレスに一件のメールが入ったのだ。


 それは主に文芸作品を取り扱っている出版社からで、あたしの作品を、中編小説として雑誌に掲載したいという趣旨のものだった。


 メールを見た当初は驚いたし、嬉しくもあったが、つい先日、あたしは断りの返信を送った。


 今のあたしは小説なんて書けないし、きっとこれから先も書くことはない。


 あたしはずっと、楓がいたから小説というものを書けていた。コンテストに送っていたのだって、別に、何者かになりたいとか、チヤホヤされたいとか、そういう理由じゃなかった。


 ただ、あたしの小説を好きって言ってくれる楓のために、結果を残したかった。楓の信じてくれた小説を世間に認めさせることで、楓を肯定してあげたかった。


 楓が憧れてくれる、あたしでいたかった。


 だから小説を書けていた。


 でも、今の楓は……音儀白雪の中にいる楓は、どんどんと、紅葉楓という存在から離れていってしまっている。今の彼女に、あたしの小説を見せて、あたしは本当に、満たされるのだろうか。……分からない。


 不明瞭なまま、文字を書くなんてことは、絶対にしたくないし、想像もできない。あたしにとって執筆というものは、あたしをあたしたらしめる行為なのだ。


 まだ、出版社からの返信はないが、おそらく見限られたのだろう。


 あたしはパソコンを閉じて、家を出た。


 ライブ会場は小さなライブハウスで、定期的に行われている、いわゆる地下アイドルのライブでよく利用される場所だった。


 電車に乗って、ほどなくして着いたそこは、照明も少なく、音響まわりもそこまで充実しているとは言い難かった。


 ざっと百人ほど入るであろう広間は、すでに満員になっていて、そのほとんどが音儀白雪を観に来たのだということが、持っているグッズなどで見て取ることができた。


 音儀白雪というアイドルは、不祥事を起こして電撃引退をした。卒業ライブもなく、突如姿を消した彼女をもう一度見たいと思うファンは多いだろう。


 ファンが観に来ているのは音儀白雪。決して、紅葉楓などではない。


 楓がここに来た人たち全てを、納得させることができるとは到底思えない。このライブは失敗し、楓は自分を責めるだろう。それでいい。


 言ったはずだ。笑い合ったはずだ。こんな世界、こんなあたしたちって。自分を見捨てて、自虐して。だからこそ、あたしたちは心を許しあえたんじゃないか。


 分かってるはずだ。楓、あたしたちは、希望を誰かにあげるなんて人間にはなれない。


 乖離しているのだ。


 着々とライブの準備は進み、いよいよ最初のアイドルの登場となった。音儀白雪の出番はこのあとになっている。


 アンプのケーブルは丸出しのまま、地面を這いずり、特に上手でもないアイドルの歌声を反響させている。


 そうだ、このケーブルを、引っこ抜いてしまえばいい。


 あたしはまだ、楓がアイドルをするなんてこと、認めていない。


 ステージの近くに移動して、あたしはいつでも、ケーブルを抜ける場所に立った。


 楓が出てきて、歌い始めたら、全部めちゃくちゃにしてやる。


 どうしてこんなに、邪魔したくなるのか。


 その理由が、ここにきてようやく明瞭になる。


 あたしはもう、小説なんて書けない。あたしはもう、自分の夢も、目標も捨ててしまった。でも、楓がいるんだったら、別に、そんな青臭いものなんかなくたって、生きていけるはず。


 生まれ変わってくれてありがとう楓、あなたがいればあたしだって。


 そんな気持ちとは裏腹に、進んでいく楓。どんどんと、あたしの知らない楓になっていく、音儀白雪の外見をした、知らない誰か。


 羨ましいのだろう、きっと。


 ズルイって、思っているんだ。


 やめようよ。頑張るのは。


 二人で、地に堕ちていこうよ。


 楓が、ステージにあがる。


 あたしはケーブルを握りしめた。


 スタッフの目が離れている、今のうちに――。

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