第5章
第28話 魂の在処
あたしはあたしを見下しているし、人類の歴史的に見ても取るに足らないどころか屑同然の人間だと思っている。
そんなあたしの悩みや葛藤を共有して、理解し合えた
それを本当に友達と呼んでいいのか、分からないけれど、楓だけがあたしの理解者であり、楓のことを理解できるのもあたしだけなんだって思ってた。
楓は絵が上手だった。いや、技術的に見たら、もっと上手な人はたくさんいるのだろうけど、楓の絵は、どこまでも個性的だった。「はらい」という概念を失った筆は、すべてを押しとどめて線を描く。それらが連なってできた絵は、片足だけで跳ねた水溜まりの生む波紋のように不確かで、不安定だった。
楓が何かを伝えようと言葉を探すとき口がまごつくように、楓の描く線も、何かを伝えようと止まって進むを繰り返す。まるで楓みたいだと言っても、楓は愛想笑いで誤魔化すだけであまり分かってはくれなかった。
あたしの伝え方も悪かったかもしれない。あたしもあたしで、きっと言葉の取捨選択というものが得意ではない。
けど、それでもよかったのだ。
楓が分からなくても、あたしだけは、分かっているから。
あなたはただ、その整然を必要としない推進力で、ひたすらに絵を描き続ければいい。
そう、思っていたのに。
「アイドル、やめるって」
一枚の便せんを事務所の机に叩きつけた。
平日の昼間だというのに、お父さんはいまだにパジャマ姿のままだった。手元のファイルを手に取って仕事をしているフリをしているようだが、あくびを抑えられていなかった。
「誰が」
「楓が」
「楓ちゃん?」
お父さんも楓とは面識がある。何度か家に招待したとき、すれ違って挨拶を交わしていた。
「気付いていないの?」
「んー」
楓が死んでから、お父さんは話題を探るような仕草が多くなった。それはお父さんの優しさでもあり、実際、楓の死を受け止め切れていなかったあたしにとってその振る舞いはありがたかった。
「
「えぇー、そうだったのかー」
お父さんは目を擦りながら、電気ケトルに水を汲み始めた。相手にされていないようで、苛立ちを覚える。お湯が沸騰する音を聞きながら、まだ見ても貰えない便せんを睨み付けた。
「学校はどうしたんだ学校は」
「早退してきた。今は、そんな場合じゃないから」
「どんな場合でも学校はサボっちゃだめだろー? お父さんなんて、小中高と一度も休まずに学校に行き続けて賞状を貰ったくらいなんだから、娘も見習ってくれ」
「娘って呼ばないで、気持ち悪い」
お父さんはインスタントコーヒーを淹れると、再び椅子に座った。
「それで? 学校サボってまで渡しに来たこれは?」
ようやく便せんに触れる。
「読めばわかる」
マグカップに口を付けながら便せんに書かれた文字を読むお父さん。湯気が立って、表情が見えない。
「これは、音儀ちゃんが?」
「楓よ」
便せんには、音儀白雪がアイドルを辞退するという趣旨の文面が書かれている。当然、今度控えているライブも中止にしてくれと。書いたのは音儀白雪でも、楓でもない、あたしだ。でも、彼女の筆跡を真似するくらいならできる。
あたしは何度も楓の指先から紡がれる奇跡みたいな線を見てきた。事務所に所属するとき、楓は契約書にサインをしたはず。楓の筆跡を一度見ているお父さんが、この文字を見て怪しまなければ、音儀白雪が楓だという裏付けにもなる。
「その、なんだ。さっきから、楓ちゃんの名前を出しているが」
「だから、音儀白雪は、楓なの」
「……あのな、
「逃避じゃない。これは現実なの、お父さん。楓は、音儀白雪になって、今も生きているの」
「生まれ変わったって?」
「それは分からない。そうかもしれないし、変装? 整形? したのかもしれない。なんらかの事情で、あたしたちには話せなくて――」
吹き出すように、お父さんが笑った。こっちは真面目に話しているのに。
「その中で一番現実的なのは、生まれ変わった、だな」
「バカにしてるの?」
「ああ、してる」
「生まれ変わりは実在する」
「生命が誕生してから四十億年と言われているけど、そのときから生まれ変わりは実在した?」
「そんなのは知らない。どちらにしろ、生まれ変わった命は、その事実を他言できないルールがあるんだと思う。だから、これまで生まれ変わりというものが想像上のものでしかなかった」
お父さんはコーヒーを飲み干すと、パソコンを立ち上げてわざとらしくマウスのクリック音を鳴らした。
「じゃあ、確かめようがないね」
「いいえ、あるわ」
「ほう、それは是非とも聞きたい」
「楓は楓よ。どれだけ生まれ変わっても、話し方も、目線の逸らし方も、仕草も、癖も。姿形が変わっても楓のままだった。気付かないの? 音儀白雪、前はあんなじゃなかった。もっと、淡々としていて、話しかけただけで飛び上がるような人間じゃなかった」
「心変わりでもしたんじゃないかな? 尖っていた人でも、どこかで丸くなることはあるよ」
「お父さんだって、似てるって思ってるんでしょう? だから、事務所に入れた」
「そうかな」
「だって、前に言ってた。楓を家に呼んだ次の日、酒飲みながら、楓みたいな子をプロデュースしてみたいって」
「ああ、そのあと、キモいって言われたことも、覚えているよ」
「……なら!」
「たしかに、似てるって思ったよ。最初は音儀白雪というブランドを利用して事務所をPRしていこうって思って、面接の話だって受けた。正直、業界であんな噂が流れているアイドルだ。扱いには気をつけなくちゃいけないし、信用だってしていなかった。けどね、実際に会って、話して分かった。あの子はそんなことをするような子じゃない」
そういえばあたしは、仕事をしているときのお父さんと、ここまで面と向かって話したことはない。いつも家にいるときはだらしないお父さんなのに、音儀白雪のことを話すお父さんは、どこか凜としていて、自信に満ちあふれている。
「僕は楓ちゃんみたいに、不器用なりに伝えようとする子が好きだ。だから音儀白雪とも契約した。でもね、似てる、それだけだよ。生まれ変わりだなんて……」
違う。お父さんは何も分かっていない。抽象的だ。
楓と音儀白雪の共通点はそんなものじゃない。
恥ずかしそうに視線を落として喋る様子も、跳ねるような語尾も、右頬を触る癖も、逃げる先がトイレなのも。あたしが見てきた楓そのままだ。
そして、なにより。
音儀白雪のパソコンで、あたしの小説を読んでいた。あたしは小説を書いていることなんか両親と、楓にしか言っていない。ましてや掲載している小説サイトまで教えているのなんて、この世で、楓だけだ。
楓も不注意だったのだろう。あのとき、相当に焦っていた。焦ると、口調がおかしくなるのも楓そのものだったし、転びそうになったから受け止めると「面目ないです」と言うのも、あたしの記憶とぴったり重なる。
「……『その人』ってなんだろうねぇ」
お父さんは椅子にもたれながら、ディスプレイに視線を落とす。
「なに? それ」
「たとえばね、顔は楓ちゃんとうり二つだけど性格は全然違う子と、顔は全然違うけど性格は楓ちゃんそっくりの子が、目の前に同時に現れたとしたら、美桜はどちらを楓ちゃんだと信じる?」
「後者よ。いくら見た目が一緒でも、中身が違うならそれは別人」
「なるほどね。ちなみに僕は前者かな。性格なんていくらでも模倣できるからね。事前に調べさえすればその人のような仕草を真似するのも難しいことじゃない」
「でも、綻びはある。親しい人なら、少し違うと気付くはずよ」
「別に、美桜にだっていつもと違う日くらいあるだろう? ほら、いつだったっけな、楓ちゃんと喧嘩したとき、三日くらい元気なかったじゃないか。あげくのはてには『どうしよう~!』なんてお母さんに泣きついて」
「なんでそういうのいちいち覚えてるの。普通に嫌なんだけど」
「つまりね、中身なんていくらでも変えられる。もしその人の存在? 魂? を断定したいなら、僕はやっぱり外見だと思うね」
「じゃあ、もしあたしが死んで、そのあとうり二つの人間が現れたら、お父さんはそいつを、あたしだと思って接するの?」
「いや? 別に、似てるなって思うだけだよ。そもそも僕は、生まれ変わりなんて信じてないしね」
今日のお父さんは、少し饒舌で、少しイジワルだ。言い返す言葉を探していると、お父さんは目を細めてあたしを見た。
「けど、音儀白雪は生まれ変わった。それは、事実かもしれないね」
お父さんは、便せんを丁寧に折りたたむと、机の端に向かって放り投げた。
「音儀ちゃんは、いままでの自分を打ち破って、新たな道を進もうとしている。そんな彼女が、アイドルを辞めるだなんて言うはずがない」
気付かれていた。この文章は、あたしが書いたということを。
下唇を思わず噛んでしまう。
「美桜も分かっているんだろう? アイドルって……ううん、何かを目指す人にしかない、執念めいたものを止める術は、ないんだ」
「ドラマにでも影響された?」
演技がかったセリフに、鳥肌が立つ。
「いや、昔ね。お世話になった人がよく言っていた言葉なんだ」
「そう」
お父さんは、どこか遠くを見ている。まるで星空でも眺めるような、穏やかな表情。昼間の太陽を見て、よくもそんな顔ができたものだ。
あたしは便せんをくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に捨てた。
大丈夫。想定済みだ。また別の手段を探せばいい。
「楓は、アイドルなんか向いてない」
楓は、きっと、音儀白雪の運命を、背負わされているだけだ。そうに違いない。
だからあたしが助けてあげなくちゃ。楓は人前に出るのが苦手なんだから。歌うのなんてもってのほか。厳しいダンスのレッスンだってきっと耐えられない。
楓は、絵を描いていればいいんだから。
「でも、もし、美桜の言う通り、楓ちゃんが生まれ変わって音儀白雪になったんだとしたら、ものすっごく、頑張ってるよねぇ」
「……なにが?」
「いや、だってねぇ」
お父さんは頬杖を突いて、それはもう、上機嫌に笑っていた。
「僕だったら、他人の夢なんか背負い切れないよ」
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